孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇

懿徳天皇・安寧天皇・懿徳天皇               孝元天皇・建内宿禰

孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇



1. 御眞津日子訶惠志泥命(孝昭天皇)

父親の懿徳天皇の冒険は確かに彼ら一族の将来に夢をもたらした。未だ不十分とは言え大きな可能性を示してくれた。孝昭天皇の選択は、この地、あるいは更に領土を拡大するのか、一旦引き返して施策を施した地を確実なものにするのか、彼の選択は後者であった。

葛城の地を更に確かなものとし、確実に自らの手で自らの領土にする道を選択した。既に初期に開拓した地は実の多い土地に変貌しつつあったのであろう。

古事記原文…、

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。
 
御眞津日子訶惠志泥命の回帰
 
<葛城掖上宮>
この天皇の在処は「葛城掖上宮」から紐解く。「掖」=「脇(腋)」として、山を胴体と見做し、谷の部分を「脇(腋)」と表現したと解釈した。
 
掖上=脇(腋)を上がったところ

…の宮と解釈する。葛城の地で、それらしいところは田川郡福智町上野にある福智中宮神社辺りと推定する。

文字解釈を進めると「掖」=「手(延び出た山稜)+夜」と分解される。「夜」=「亦+月」からなる文字と解説され「谷間に山稜が延び出て二つに岐れて並んでいる様」を表すと紐解いた(既出の夜麻登など)。すると「掖」=「延び出た山稜の傍で谷間が二つに岐れて並んでいる様」と解読される。

現在も山頂に達する登山道がある。谷間に入って暫くしたところに登山口が設けられているようである。正に脇から登るところであろう。福智山のトレッキングレポートは多いが、香春岳は少ない。当然の結果かもしれない…「飛鳥」の山は消滅してしまっているのだから・・・。

脇道に入ると遭難しそうなので本道に戻って、宮の在処を求めてみよう。「御眞津日子訶惠志泥命」を紐解くことになる。
 
<御眞津日子訶惠志泥命>
図を参照願うと現在の上野峡は大きくは三つの谷川が合流、更に夫々が分岐した多くの谷川が合流した地形を示し、真に渓谷に相応しいものと思われる。

既出の文字解釈を適用すると・・・。

「御」=「統べる、束ねる、臨む」、「眞」=「一杯に満ちた」、「津」=「川の合流するところ」として…「御眞津」は…、
 
御(束ねる)|眞(一杯に満ちた)|津(川が合流する地点)

…「川の合流点が一杯に満ちたところを束ねる」と紐解ける。

深い谷にある数多くの津、中でも三つ列なった「津」を束ねて一つの川になったところを象形した表記と読み解ける。山腹の谷の状態から判断して現在の地図上には未記載の川を想定する。

「眞」は天之眞名井などで登場した文字である。宮の名前と併せて決定的に地形象形した記述であった。後の師木に坐した崇神天皇の諡号に含まれる御眞木は「山稜の端が一杯あるところを束ねる」と解釈する。山稜と河川では束ね方に違いこそあれ、「御」、「眞」の解釈は同様である。
 
<訶惠志泥:goo Map
訶惠志泥」は何と読み解けるのであろうか?…、
 
訶惠志(返し)|泥(否:ない)
=元には戻さない

…解釈できるようである。

葛城に帰ったが先代と同じことを繰り返さない、違うことをしよう、そんな心根を表しているように思われる。確かに娶りは変わり、御子の派遣も師木に近付くようだが・・・。

こんな読み解きも行ってみたが、やはり一文字一文字の地形象形であろう。「訶惠志泥」は…、
 
訶(谷間の耕地)|惠(山稜に囲まれた小高いところ)
志(之:蛇行する川)|泥(尼:近付く)

…「谷間の山稜に囲まれた小高いところで蛇行する二つの川が近付き傍らに耕地がある」という地形を示していると紐解ける。「惠」は人名に使われるのは、これが最初である。後の御眞木入日子印惠命(崇神天皇)、また惠賀の表記でも登場する。全て上記の解釈を行って読み解ける。

「泥」=「氵+尼」と分解される。更に「尼」=「尸+匕」と分解され、「左、右を向いて尻を突き合せた形を象ったもの」と解説される。「近付く」と訳されるが、象形のイメージは「一旦近付いて離れる」状態を表していると思われる。上図に示したように二つの蛇行する川の様相を表現していると思われる。

これらの結果より、「葛城掖上宮」の在処は谷の入口にある小高いところであったことが導かれる。一見では現在の福智中宮神社辺りかと比定しそうだが、古事記は異なることを告げているようである。

1-1. 奧津余曾之妹・余曾多本毘賣命

尾張国の「奥津」=「奥まった場所の川が合流するところ」は問題ないようであるが、やはり「余曾」は簡単には解釈できないようである。

「曾」=「重な(ね)る」で既に幾つか登場した文字である。後の倭建命の活躍場面に登場する「熊曾国」=「隅が重なった(山)」の解釈で現在の北九州市門司区にある古城山が特徴の国であると紐解いた。これもほぼ確実に今回に適用できると思われる。残りは「余」である。

いろいろ辞書を紐解いてみると、あまり、よぶんなどなどであるが、尾根が延びた残りの場所を意味すると考えると…「余曾」は…、
 
余([尾根の]残り)|曾(積み重なる)

…「尾根の残りが積み重なって高くなったところ」と紐解ける。「奥津」があって「余曾」の地形を探すと…現在の北九州市小倉南区堀越近傍が合致することが判った。山の稜線の特徴を捉えて表現する、古事記の主要なパターンに含まれる例であろう。
 
「多本毘賣命」は…「多」=「山稜の端の三角州」として…、
 
多(山稜の端の三角州)|本(麓)|

…「山麓で山稜の端の三角州が並ぶところ」の毘賣(田を並べて生み出す)命と解釈される。「多」=「月+月」(三角州が並ぶ)の象形である。神阿多都比賣の表現に通じるものと思われる。
 
<奥津余曾・余曾多本毘賣命・天押帶日子命>
蛇行する川が複数流れる広い谷間の地である。これらの川が合流し「津」を形成している場所でもある。現在も綺麗な棚田並ぶ村落が形成されているようである。

父親は尾張連の祖となったと記述される。「連」(山稜の端が長く延びたところ)を示すと解釈する。現在の常磐高校(住所は志井)辺りと推定される。

「奥津」は、やはり内陸側に奥深く入り込んだところを表していることが解る。

「余曾」から求められる場所が確定的なら「奥」の解釈も確定する。古事記記述における重要な文字が示す意味が明瞭になったようである。

また邇藝速日命の息がかかっていたところでもあろう。徐々にその地に根を張って行ったものと推測される。御子の活躍が記される重要な展開である。

天押帶日子命

天押帶日子命の「天押帶」とは何を意味するのであろうか?…「帯=多羅斯」と古事記序文にある。元々は「結び垂らす」なのか「足らす」から来るのか、思い巡らすことは複数である。

「天」は壱岐島を示すのではなく、「阿麻」=「擦り潰されたような台地」の地形そのものを表していると思われる。「押」=「扌(手)+甲(覆い被せる)」=「押し付ける、押し拡げる」と解釈する。「帶(多良斯)」=「山稜の端のなだらかな三角州が切り分けられたところ」とすると「天押帶」は…、
 
天(擦り潰されたような)|押(押し拡げる)
帯(山稜の端でなだらかに切り分けられた三角州)
 
…「擦り潰されたように押し拡げられた山稜の端でなだらかに切り分けられた三角州」と紐解ける。「日子」=「[炎]の地形から生え出たところ」であって、三角州の先にある小高いところに坐していたのではなかろうか。残念ながら九州自動車道の北九州JCT付近となっていて詳細を読取ることは不可であるが・・・。

また、天照大御神の読み解きの一つである「天照」=「遍く(あまねく)照らす」に類似する表記でもあろう。
 
天(あまねく)|押(押し拡げる)|帶(足らす)

…と読めなくもない。下記の膨大な祖の地を暗示する命名であろうか?・・・。天押帶日子命が祖となった地名を探してみよう。

春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂

邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。結論を先に記すと…全て福岡県田川郡赤村に属する現在の地名である(但し柿下は田川郡香春町)

春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山の内 大坂:大坂

春日臣

<春日臣・大宅臣・壹比韋臣・大坂臣>
「春日」は邇藝速日命が降臨して坐したところを戸城山とするならば、その近隣と推測される。


「春日」の文字列はそれを示しているのであろうか?・・・。

「春」は「屯+艸(草)+日」から成る文字と解説される。

「屯」=「寄り集まる」、「艸(草)」=「小ぶりな山稜」及び「日」=「炎」と解釈する。

すると「春」=「[炎]のような山稜が寄り集まった様」を表していると紐解ける。

「春日」の「日」も同様に「炎」を示すとすると、[炎]の地形が寄り集まったところとそうでないところが混在する地形を表していると解読される。

「春日」は…、
 
寄り集まったところがある山稜の端が[炎]のように延びた地

…と読み解ける。図に示したように戸城山の北西麓一帯を表していると思われる。中心となる地は現地名田川郡赤村内田の中村辺りであろう。「臣」は谷間に坐していたことを告げていると解釈される。

尚、「春日(ハルヒ、シュンジツ)」が本来の読みであろうが通常「カスガ」と読まれる。何故?…別途でその由来を解き明かすことにする。
 
大宅臣

「大宅」の「宅」=「宀(山麓)+乇」に分解する。「乇」は『説文解字』によると「艸葉也。从垂穗、上貫一、下有根。象形。凡乇之屬皆从乇」と記されている。これを地形象形に用いたと思われる。「乇」=「山稜の端が[根]のように延びた様」と読み解ける。
 
大(平らな頂の山稜)|宅(山麓で[根]のように延びたところ)

…と紐解ける。下図に大坂山の位置を示すが、その山麓が長く延びた先端に当たるところと推定される。
 
壹比韋臣

後の応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。既にこの孝昭天皇紀で登場する。天皇家の隆盛期における最重要な地の一つであるが、通説は「櫟井(イチイ)」とされ、その文字が示す意味を全く理解されていないのである。それは兎も角、文字列の解釈をおこなってみよう。

「壹」は「一つ」ではなく「専ら、総て」と解釈する。「比」は簡略には「並ぶ」であろうが、前出の「佐比持神」と同様に「並ぶ」の意味よりも「ぴったりとくっつく様」が強調された解釈とする。「韋」=「囲(圍)」であろう。「壹比韋」は…、
 
(総て)|(くっついて並ぶ)|(囲われたところ)

…「総てくっついて並んで囲われたところ」と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。

この解釈で場所の特定は可能なのであるが、「壹」の文字解釈は、予期せぬところから紐解けることになった。魏志倭人伝に記載される「邪馬壹國」に含まれている。「臺」の誤りではないか、と言う説まであって「壹」が示す意味が解っていないのである。「壹」=「吉+壺」と分解する。幾度も登場する「吉」=「蓋+囗」である。これで「壹」も立派な地形象形文字として解釈できることになる(こちら参照)。
 
大きく広がった谷間に蓋をするような山稜

…壹比韋は、「大きく広がった谷間に蓋をするような山稜がくっ付いて囲われたところ」と紐解ける。田川郡赤村内田の山の内と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した、おそらく当時は狭い谷間をくぐり抜けて漸く辿り着ける場所であっただろう。

後には大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)が娶る穗積臣等之祖・內色許男命の妹・內色許賣命が坐した場所と推定したところである。更に若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が春日之伊邪河宮に坐すことになる。天押帶日子命が果たした役割は極めて重要な位置付けであったと告げている。

応神天皇紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「伊知比韋」(伊知:谷間で区切られた鏃のような山稜)と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかもしれない。古事記全体を通じて…、
 
丹=極めて貴重な資源

…と記述されているのである。いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。
 
<粟田臣>
「大坂」は現在の京都郡みやこ町犀川大坂の地名があるが、「春日」の中にある「大坂」を採用する。
 
粟田臣

「粟田」の「粟」の解釈は伊豫之二名嶋の粟国に類すると思われる。「粟」=「たわわな様」を示す場所と思われる。

現在の赤村内田の小内田辺りではなかろうか。粟国の山稜の形とは異なり田の連なる様を模したものと思われる。
 
柿本臣・小野臣

ところで「柿本」の由来は何であろうか?…ほぼ間違いなく現在地名「柿下」と思われる。「柿」は消すに消せない重要なキーワードなのであろう。
 
<柿本臣・小野臣>
「柿」=「木(山稜)+市」と分解されるが
「市」(売り買いするところ:いちば、種々寄り集まる)の字源は、思ったより難しく諸説があると言われる。

先ずは字源に関係なく、尾根と山稜が作る地形が「市」の字形を表していると見做したとすると、「柿本(下)」は、「山稜が作る[市]の字形の麓」と紐解ける。

がしかし山稜が描く模様と「市」の字形との一致は明瞭さに欠けるようでもある。一方「市」=「種々寄り集まる」とすると「柿」=「山稜が寄り集まったところ」と読み解ける。

山稜が示す鮮明な地形ではないが、愛宕山と大坂山からの山稜が交差するように麓に伸びる場所を表しているのではなかろうか。

図を見ると…、
 
山稜が寄り集まるところの麓

…と解釈される。どうやら後者の解釈が地形を鮮やかではないが、より的確に表していると思われる。

大坂山から愛宕山に延びる尾根が緩やかに曲がっている。その尾根から延びる山稜が作る地形を象った表記である。大坂山~愛宕山~伊波禮の山容に関わる表記がこの後幾度となく登場する。神倭伊波禮毘古命の命名由来でもあり、やはり極めて重要な地であったことが伺える。

後の崇神天皇紀に記述される謀反を起こした建波邇夜須毘古命を征伐する大毘古命に随行した丸邇臣之祖・日子國夫玖命の居場所の地形を表している。全てが繋がった表記であることが解る。ともあれ現在の地名、また万葉歌で著名な柿本人麻呂に繋がる由来としたが、果たして?・・・。

「小野」は現在の小柳という地名のところと推定した。山稜の端が「小」の形をしていることに由来すると思われる。左図を拡大して参照。
 
<大坂山>
全くの余談だが・・・隣の「大坂山」も単に「大きな坂」からだけでの命名でもなかろう・・・では何を模したのか?…図を参照。

大坂山の山陵が作る稜線を結んだら…少し間延びした「大」だが…長く平坦な主稜線の峰と延びた枝稜線が描く文字が浮かんで来る。

間延びの稜線が「坂」を示す。「大坂山」は…、
 
[大]の字の地形が坂になった山

…と紐解ける。ありふれた文字の地形象形ほど難しいものはない、であろう。「大きな坂」何処にでも転がっているような解釈では一に特定は不可であった。
 
<天押帶日子命(祖)①>
古事記中最も重要なランドマークの一つである「大坂」は極めて高い確度で、田川郡香春町柿下(大坂)と京都郡みやこ町犀川大坂の間に横たわる山稜を示していたことが解る。

尚、総て「臣」と名付けられている。隙間(小ぶりな谷間)を意味すると読み解いた。

この地の山稜の端は、穂のように細く延びていることから必然的に谷間の住まっていたのであろう。「連」、「(國)造」と表記されないのである。

この地域における祖となった場所を纏めて示した。また各々の「臣」のそれらしき場所を併せて示した。
 
阿那・多紀・壹師・伊勢飯高

さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。
 
阿那:平尾台 多紀:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野

<多紀臣>
阿那臣・多紀臣

「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地、洞穴だらけの「平尾台」とする。勿論…、
 
阿(台地)|那(ゆったりとした)

…である。

「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…勿論掛けている筈。「多紀」は…、
 
多(山稜の端の三角州)|紀(畝る)
 
「紀」は頻出で、例えば胸形三女神の長女の名前(多紀理毘賣)に含まれている。「紀」=「糸+己(畝る、曲がりくねる)」地形を象形していると紐解いた。現地名は北九州市小倉南区高津尾である。

<壹師君>
壹師君

「壹師」は上記の北方に「志井」という現地名がある。語順を捩って残存する地名ではなかろうか・・・とこれで終わってしまうと通説の域を脱せない?・・・。

「壹師」の「壹」=「蓋+口+壺」と分解される。地形象形的には「壹」=「壺のような谷間に蓋をするように山稜が延びている様」と解釈される。魏志倭人伝も含め、重要な文字であり、この文字が示す地形を読み解けるや否やは、古代史解明の鍵になると思われる。

「師」=「𠂤+帀」と分解される。「師木」で用いられた、これも重要な文字の一つであろう。「諸々とした様」と解釈したが、文字要素が表す地形は「師」=「段差がある地が寄せ集められた様」となる。

纏めると「壹師」は…、
 
谷間に蓋をするように延びる山稜に段差が寄せ集められているところ

…と紐解ける。「壹師君」は上図の恵比須神社辺りに坐していたのではなかろうか。
 
伊勢飯高君

「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。既出の「飯(なだらかな山稜)」、「高(皺が寄ったようなところ)」として…、
 
<伊勢飯高>
飯(なだらかな山陵))|高(皺が寄ったようなところ)

…「なだらかな山稜の麓にある皺が寄ったようなところ」と読み解ける。

谷の奥にそれらしきところが見出せる。大国主命の御子、阿遲鉏高日子根神の場合と比べて鮮明な「皺」が伺える。

更にその地が区切られて「君」(歪さがない形に整えられたところ)の地形を示していることが解る。

「伊勢神宮」に近接する現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡が・・・内宮と外宮が渡って合う「度会」もあった。現地名の由来が怪しいのも頷ける筈であろう。

古事記は律令制後の地名を付けるのに、格好の書物であっただろう。それぞれの地名の配置を些かではあるが…地形の相違は致し方なく…考慮して、加えて文字を代えて行われた結果であろう。

いや、文字から地形が解っては困るから、変えたのが実際であろう。現在の地名の由来が不確かにしたのは、その大半の理由が「国譲り」と言える。

それはさて置き、引き続き祖の地を求めてみよう。
 
羽栗・知多・牟邪・都怒山

母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名のお出ましである。
 
羽栗:横代葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫

羽栗臣・知多臣

全て北九州市小倉南区の地名である。「栗」は甲骨文字を象ったとして…「羽栗」は…、
 
羽(羽の様な)|栗([栗]の形の山稜)
 
<天押帶日子命(祖)②>
…と紐解ける。栗の雄花が羽のように広がっていると記している。

この地は神倭伊波禮毘古命の段で日下之蓼津と記述されたところである。「蓼」に「羽」が含まれている。繋がった表記であろう。

山稜は見事に宅地開発されて当時を偲ぶことはできないが、「羽栗」の紐解きに何ら支障はなかったようである。

貫山山塊の北西の端(隅)に当たるところである。

「知多」は…、
 
知(鏃の形)|多(山稜の端の三角州)
 
…「知=矢+口」=「鏃」と解釈する。例えば大倭日子鉏友命(懿徳天皇)の孫、和知都美命に含まれる「知」を同様に紐解いた。

現在の地図からは高低差も少なく、ほぼ住宅地になっているが、山稜の先端が鏃の形に突き出ている様子が伺える。先端はさす股の鏃と見做したのであろう。現在の知多半島、鏃に見えなくもないようだが・・・。
 
牟邪臣・都怒山臣

<牟邪臣・都怒山臣>
「牟邪」は…、
 
牟([牟]の形)|邪(ねじ曲がる)

…「[牟]の形の川が大きくねじ曲がるところ」と紐解ける。後に開化天皇が坐する伊邪河宮に通じる。

これは「小ぶりでねじ曲がる」であるが…現地名長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。

現在の川も極めて蛇行の激しい様子を示していて、この長野川に比定できる。「牟」の甲骨文字の形、「牛」の形が、この川の上流部の特徴を捉えているように思われる。

図に示したように二つの深い谷間から流れて出て合流している。また、白色破線で示したのは、推定した当時の海岸線である。実に「牟」と「邪」が近接した形を成していることが解る。

「都怒山」の「都」=「集まる」、「怒」=「女+又+心」と分解解される。「女」=「嫋やかに曲がる」、「又」=「[手]の形」、「心」=「中心」とすれば…、
 
都(集まる)|怒(嫋やかに曲がる[手]の形の中心)|山

…山稜の端で凹凸のある丘陵地帯を示していると解釈される。「又(手)」=「幾つかに分かれた山稜の端」の地形を表していると解釈する。「怒」と同様に「奴」、「取」、「坂」など多くの文字に含まれるが、全て同じ解釈である。
 
中心の地は、現在の小倉カンツリー倶楽部(アウトコース)と推定される。地形は大きく変化しているが当時を偲ぶことは叶いそうである(上図参照)。古事記では、「都怒」=「角」と置換えられるようである。後の仲哀天皇紀に「都奴(怒)賀」=「角鹿」が登場する。尾張の都怒は地形的な明瞭さには劣るが、類似する表記と思われる。
 
少々錯綜としてて面白いのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する

「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である。

総てに「臣」(隙間の地形)が付加される。小ぶりな谷間の場所を表すものと読み解いた。

図に「臣」の古文字で示したが、多数の入江のような地形があり、一に特定は難しいが、それぞれの中心地であることも加味した。詳細は図を拡大して参照。
 
近淡海國造

最後は「近淡海國造」…近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。

「近淡海國造」は些か広範囲で情報も少ない状況なのだが、「造」(二俣に分かれた谷間)が実に有効であったことに気付かされた。

「二俣に分かれた谷間」それなりに存在しているように思えるが、「近淡海國」に限れば一に特定されるのである。その上にこれ以上ないくらいに鮮明な地形・・・吉野河(現小波瀬川)が吉野(現平尾台)から流れ出る谷間、である。
 
<天押帶日子命(祖)全>
極めて明確な故に何の修飾も無く記述されたものと思われる。「造」を地形象形と紐解けなければ到達し得なかったのである。


そしてこの地は後の若帶日子命(成務天皇)が坐す近淡海之志賀高穴穗宮の近隣を示すことが解る。おそらく現在の貴船神社辺りかと推定される。

成務天皇紀に唐突に登場する地は、天押帶日子命の子孫によって開拓されていたころが解る。

またそれが「近淡海國」の中心の地であることも伝えているのである。

さて、「天押帶日子命」が祖となった地を纏めて図に示した。一見してなかなかの”布陣”であろう。

「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。

が、まだまだ時間を要する作業なのである。孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。これでも欠史と言えるか?・・・である。
 
――――✯――――✯――――✯――――

<掖上博多山>
確かに御子及びその子孫の派遣先など、先代までの天皇とは異なる地を選んでいる。

春日、近淡海國、所謂南北ライン、尾張と後に重要な拠点となる処ばかりである。この天皇の布石は評価に値するものであろう。

葛城の地の開拓も順調であった筈である。手は打った、という気分であろうか…。
 
博(びっしりと延び広がる)|多(山稜の端の三角州)|山

…山頂から多くの山稜が延びた端に三角州が広がる様を表したと思われる。山稜と谷間が織り成す自然の造形美であろう。それを捉えた巧みな表現である。

福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ヶ岩屋」辺りかもしれない。

――――✯――――✯――――✯――――

2. 大倭帶日子國押人命(孝安天皇)

葛城の地は順調に開墾されたいったのであろう。生まれる御子の数も少なく内輪の争いも起こらず、政治は国内に目を向けた平和な状態を醸し出していた、と思われる。こんな状態が一番安全だが、長くは続かないのが世の常、いずれは大きな変化を迎えることになる。

古事記原文…、

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。

日嗣の大倭帶日子國押人命は、宮を葛城室之秋津嶋宮に置いた。葛城の「室」とは何処であろうか?…大倭豊秋津嶋を示すような宮の場所はあるのか?…記述は簡単だが文字は大胆、である。既に登場した文字であるが、あらためて紐解いてみよう。「室」=「宀(山麓)+至(行き止まる)」とすると…、
 
室=山麓の深い谷間

…と解釈できる。地図を当たってみよう・・・。

神倭伊波礼毘古が忍坂で遭遇した「生尾土雲八十建」に関連する。室=岩屋の雲であり、精銅時に発生する煙を指すと解釈した。蜘蛛ではない。

<葛城室之秋津嶋宮>
現在の田川郡福智町弁城にある岩屋神社辺りが該当するのではなかろうか。福智山山塊の中腹にある。

彦山川・遠賀川で地面は遮られ広大な流域を目の当たりにする光景である。

これぞ、秋津嶋、と言ったところであろうか。「大倭豐秋津嶋」とは、ここだ、と古事記は記述しているのである

高みより下を眺めて悦に入っていた、とは言い過ぎであろうが、彼以前の天皇達とは異なりずっと長生きをするのである。

秋津嶋宮から眺める葛城の地に棚引く稲穂の光景は気持ちの良いものであったろう。大倭帶日子國押人命に含まれる「國押人」は何を意味するのであろうか?

既出の「大倭」=「平らな山頂から延びる嫋やかに曲がった山稜」であり、「帶」=「多良斯」が付加されるのでその山稜がなだらかに延びる三角州、谷間を流れる川に挟まれた状態を表している。

その先端に「日子國」=「[炎]の地形から生え出た大地」と読み解ける。天押帶日子命の「押」=「押し拡げる」とする。「人」=「狭い谷間」を象った文字とすると「押人」=「狭い谷間を押し広げる様」と読み解ける。「大倭帶日子國押人」は…、
 
平らな山頂から延びる嫋やかに曲がった
山稜の端のなだらかに切り分けられた三角州にある
[炎]の地形から生え出た地で
狭い谷間を押し拡げたようなところ

…と解釈される。図に示した現地名田川郡福智町弁城の岩屋にある谷間の場所と推定される。

尚、「忍人」とも記される。「忍」=「忍ばせる、一見では分からない」と解釈した。一見では谷とは思えない…天皇が坐していたのは谷間が広がったところを表しているのであろう。上記の天押帶日子命の「押」は「忍」と置換えられていない。その地はそもそも広い谷間だからである。「帶」は、後の息長帶比賣命まで登場することはない。

既に推察した通り、着実に干からびた蔓の皮のような葛城を「田」にしていたのである。名前に刷り込まれていた。大切であり、見逃してはならないことであった。いずにしてもこの時代は水田の開拓が最重要課題であったことを告げているのである。

大倭日子鉏友命、大倭帶日子國押人命、大倭根子日子賦斗邇命は、豐秋津嶋の中の「大倭」なところ、即ち、秋の「禾+女」の麓に坐していたことを示す命名であろう。まかり間違っても「大和」を意味するところではない。
 
大吉備諸進命

<吉備国>
「吉備」とは?…伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「吉備兒嶋」に隣接する場所として間違いないであろう。

鬼ヶ城・竜王山の山塊に囲まれたところと推定される。この地の詳細は後に多くの登場人物によって示されることになる。

かの有名な倭建命(小碓命)は竜王山・鋤先山の麓が出自の場所と比定することになる。

「大吉備諸進命」の名前…諸々取進める…やることが沢山あったであろう、苦労を背負った御子の様子を伺わせる命名か?…である。

それが次に繋がることを心に秘めていたのであろう。祖となる記述はない・・・。

…と、憶測して解釈することもできそうであるが、やはり彼の居場所を表しているのではなかろうか。各文字を地形象形としては、如何に紐解くか?・・・。

「諸」=「言+者」と分解すれば「言」=「大地を耕地にする」であり、「者」=「山稜が交差する麓」とする。孝元天皇の御子少名日子建猪心命、仲哀天皇紀の伊奢沙和氣大神更には雄略天皇紀に登場する引田部赤猪子に含まれる「者」に共通する解釈である。

また「進」=「辶(交差する)+隹(鳥)」であるから「山稜の[鳥]の形が交差する」と読取れる。後の大雀命(仁徳天皇)の「雀」に類似する解釈である。「大吉備諸進命」は…、
 
大(山頂が平らな)|吉備|諸(山稜が交差する麓を耕地にする)
進([鳥]の形が交わる)|命

…「吉備にある山頂が平らな山稜の稜線が交差する麓を耕地にし、[鳥]の形が交わるところに坐した命」と紐解ける。

とすると、出自が大倭帶日子國押人命の母親、「姪忍鹿比賣命」の居場所が見えて来たのである。御子の場所とは西田川の対岸に当たるところと思われる。
 
忍(一見では解らない)|鹿([鹿]の形)

<姪忍鹿比賣命・大吉備諸進命>
…「一見では解り辛いが鹿の角の形をした山麓」と紐解ける。麓の現在の八幡宮辺りではなかろうか。

大倭帶日子國押人命の姪であるから兄の天押帶日子命の比賣となるが委細は不詳である。

ならばこの「姪」は地形象形をしているのではなかろうか・・・。

図を参照すると、「姪」=「女(嫋やかに曲がる)+至(行き着くところ)」と分解した時の比賣の居場所を伝えていることが解る。

嫋やかに曲がる山稜の端に坐していたのである。現在の八幡宮辺りと推定される。

大活躍をされた兄が祖となった地名には出現しないが、あり得ないことではない、と思われる。御子の名前から母親の居場所が求められるのは何度か遭遇する場面と言える。

いずれにせよ凄まじいばかりの地形象形である。だが、紐解ければ納得の記述のように思われる。鉄の産地、鬼ヶ城に限りなく近接する場所である。祖となる記述はあるが、皇統に絡む娶りは出現しない。比賣が御子を育む場所ではなかったのかもしれない。

<玉手岡上陵>
神倭伊波禮毘古命以来の吉備国への侵出ではあるが、吉備国が言向和されるのは次期孝霊天皇紀であったと伝えている。

大事なことは、目が吉備…鉄…に向いていること。その確保が確立するのは仁徳天皇紀まで待たねばならなかったようである。

古事記は唐突に記述しながら、実は着実に物語が進行していることを登場人物の名前で伝えているのである。見逃してはならないところである。
 
・・・と言いつつ、葛城の地の開拓に目途が立ち、それを見渡せるところに宮を造営した天皇であった。

「玉手岡上」に眠ったと記される。前記した「玉手」である。地図を再掲する。
 
(勾玉のような)|(の形をした)

…ところの岡の上と伝えている。綏靖天皇、安寧天皇が坐した場所に近接し、その後に葛城の中心地を形成したところである。
 
3. 大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)

孝霊天皇紀に移る…古事記原文…、

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

第七代孝靈天皇の「黑田廬戸宮」である。「黒田」は何と解釈するか?…略字では「黑」=「里+灬(烈火)」として「[炎]の地形の傍らの区画された耕地」と紐解けそうであるが、「里」と解釈しては本来の「黑」の意味が通じないことも明らかである。

旧字「黑」の烈火の上の部分は「煙出しに煤が詰まった状態」を表すと解説される(下図参照)。これで漢字の持つ意味が通じる。すると「黑」=「囗+米+土+灬(烈火)」と解釈される。「黑」は…、
 
谷間に[炎]のような山稜が延びているところ

…と紐解ける。略字で解釈した時よりもずっと明解な状態を表していることが解る。
 
<黑田廬戸宮>
玉手の丘陵の端が細かく、炎ような地形を示しているところ、その全面にあった田を「黑田」と名付けたと読み解ける。

「黑」はそれなりに重要なところで登場する文字である。全てこの解釈で用いられているようである。

「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」の意味も重ねられているとも…。池()の水に支えられ、治水ができた場所を示すと解釈すると、現在の「常福池」(田川郡福智町常福)の近隣に宮があったと思われる。

「廬戸宮」は何と紐解くか?…「廬」=「广+虍+囟+皿」と分解できる。文字形のままに「广」=「崖」と読む。「虍」=「虎」=「連なる縦縞の山稜」と紐解く。前記<海佐知毘古・山佐知毘古>で登場の「虚空津日高」に含まれる「虚」の解釈に類似する。また山稜が描く縞模様を「虎」に比喩したとも述べた。

「囟」=「頭蓋の泉門」を象った文字と知られる。思金神の「思」にも含まれている文字である。その場合は「泉門」の十字になった隙間の様をそのまま地形象形、即ち「十字になった谷間(隙間)」と解釈したが、簡略に「囟」=「僅かな隙間」の表現とする。「皿」=「縦縞が揃って並ぶ」様子を象ったとすると…、
 
廬(崖の僅かな隙間が縦に揃って並んでいる)|戸(谷間の入口)|宮

…と解読される。「黒田」と併せて大倭根子日子賦斗邇命が坐した場所は上図のように特定することができる。上記と同じく「大倭」=「平らな頂の山稜がしなやかに曲がるところ」と解釈できる。福智山山塊の山稜の麓に当たる。

「廬(イオリ)」=「小さく粗末な家」の意味と重ねているようでもあり、彼らの慎ましやかな生活を示そうとしているのかもしれない。がしかし、凝った表現であろう。悔しいことに安萬侶コードのルールに違反しているわけでもなさそうである。
 
<大倭根子日子賦斗邇命>
大倭根子日子賦斗邇命の「賦斗邇」は、「賦」=「貝+戈+止」と分解して「谷間にある戈(矛)の形の山稜」と読み解くと…、
 
賦(谷間にある矛のような山稜)|斗(柄杓)|邇(延び広がる)

…「柄杓の谷間の地にある矛のような山稜が延び広がっているところ」と紐解ける。勿論上記の「黑田廬戸宮」の場所と矛盾は無いようである。そもそもの柄杓の地形であるが、上記の常福池を作りその近くに坐したと解釈することができる。葛城の発展を示す命名である。

既出の「常福」を常世國の「常」と同じように、更に「福」を旧字体で紐解くと…、
 
常福=常(北に向かって延びる山稜)・福(坂になった高台)

…と読み解ける。地形象形表記として立派に通じている。残存地名であろうか?・・・。

3-1. 十市縣主之祖大目之女・細比賣命

<十市縣主之祖大目>
漸くにして複数の娶りが発生する。十市縣、春日の比賣そして安寧天皇の御子、淡道之御井宮に居た和知都美命の二人の比賣が登場する。

「十市」は後に登場する「登袁」=「ゆったりとした山麓の三角州を登ったところ」として現在の田川郡赤村赤、英彦山山稜の切れ目に当たり峠越えの道が通じるところである。

これにより東西南北の十字路がある交通の要所となったところと推定した。

「十市」は…、


十(十字形に)|市(寄り集まる)

…「十字の形に山稜の端が寄り集まっているところ」と読み解ける。山稜の端が集まるところは必然的に交通の要所、交差する街道があったところと推察される。「十市」も重要な古事記のランドマークであったと思われる。


「大目」は「魚の目」と紐解いて突起と解釈する。上記の赤い破線が示すところと思われる。「細比賣(クハシヒメ)」は「細」=「糸+田」として「糸のように細い田が並んでいる」とすると、上図が示すところと思われる。御子に次期天皇の「大倭根子日子國玖琉命」が誕生する。

標高百メートル程度の高台で平坦なところではあるが、水利に課題がありそうで決して豊かなところではなく、またそうするには困難が伴ったように思われる。命はまた葛城の方に目を向けることになる。

3-2. 春日之千千速眞若比賣

天押帶日子命」が祖となったところ、その中の地名を表しているのであろうが、さて、何と紐解けるか?…「千千速」の意味は何を示しているのか?…やはり「速」=「辶+束」と分解してみると…、
 
千千速=千千(様々な)|速(道を束ねる)
 
<春日之千千速眞若比賣>
…「道も川も山稜も集めて束ねた」ところの「眞若」比賣という解釈になる。

「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まった様」と解釈すると「眞若」は…、
 
多くの山稜がぎっしりと寄り集まった地

…と紐解ける。

そんな場所を求めてみると、下図で示したところが当て嵌まるようである。誕生したのが「千千速比賣命」で真若が取れて命が付いたとと言う。

ネットを検索すると従来よりこの二つの地名、春日と十市について様々な議論がなされているようである。「十市」という先立つ場所に「邇藝速日命」が降って来て「春日」ができた、と思われる。

「日下」と同様に「饒速日命」の人気を示して、漠然とした地域を指し示すものであったろう。「登美」も含めて「ト」が付く地名と推測される。それが天神一家が降って来る以前の地名ではなかろうか。

3-3. 蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)

師木津日子玉手見命(安寧天皇)の子、その師木津日子命の子に和知都美命が誕生する。淡道之御井宮に坐したと伝えられる。「和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也」と記述され、淡道嶋の「斗」の淵に居て、二人の比賣が誕生したと伝えている。

その姉に当たる「蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)」を大倭根子日子賦斗邇命(孝霊天皇)が娶って誕生したのが「夜麻登登母母曾毘賣命、日子刺肩別命、比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、倭飛羽矢若屋比賣。四柱」と記される。前記で紐解かなったところ詳述してみよう。

蠅伊呂泥(意富夜麻登玖邇阿禮比賣命)」及び妹の「蠅伊呂杼」は何処に居たのであろうか?…「伊呂泥・伊呂杼」は「同母の泥(兄/姉)・杼(弟/妹)」の表記であろう。これでは居場所は見出せない。だからきちんと別名が記されている、と思われる。

淡海を挟んで淡道嶋の対岸にある「意富(出雲)」(山麓の境の坂がある閉じ込められたようなところ)、既出の「夜麻登」、「阿」、「禮」も既に解釈した例に準じるであろう。「玖」を何と紐解くか?…と考えながら山の形状を眺めると…「玖邇阿禮」は…、
 
(三つの頂の山)|邇(延び広がる)|阿(台地)|禮(段になった高台)

…「風師山の麓が延び広がっている台地が段になった高台があるところ」の比賣と紐解ける。出雲で山を登って辿り着く場所、現在の北九州市門司区にある小森江貯水池・小森江子供のもり公園がある谷間と推定される。
 
<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命>
この地は須佐之男命の御子の大年神、その御子羽山戸神の子孫である
夏高津日神、秋毘賣神が住まっていたところである。

対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

些か出自が詳らかではないがピックアップされて登場した命、訳があった。大年一族が支配する地に侵出したからである。

勿論淡道之御井宮に坐したことが既に、その目論みを潜めていたのであろうが、結果として実現した。実に貴重な出来事であったと伝えている。

更に憶測すれば夜麻登を冠するとは、如何にも天皇家にそもそも関わっていたかのような表記を用いている。「言向和」戦略の成功例の一つなのであろう。

裏返せば、夜麻登=延び出て端が擦り潰されたようになった(麻)二つに岐れた谷間(夜)に高台から山稜が二つに岐れている地(登)があるところが汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。図に示したように、現在の風師山南西麓の大きな谷間の出口の地形を表していることが解る。

他国の史書解読にも関連して「ヤマト」は一般的な表現と思う、という説が従来よりあるが、根拠は希薄であろう。何となくそう思う、と言うのが通常の感覚であろう。しかしながら、古事記がそのものズバリに答えているのである。1,300年間それに振り回された日本の歴史とは一体何なのかと思いたくなる有様である。
 
<蠅伊呂泥・蠅伊呂杼>
それはそれとして、何故「蠅」などという文字を使ったのか?…「伊呂泥・杼」が素直に解釈されることから、何となく見過ごされてしまう表記である。

勿論「蠅」に着目した記述は見当たらないようである。と言う訳で、地形象形的に解釈を試みる。

「蠅」=「虫+黽」と分解される。「黽」=「ハエ、カエルの膨らんだ腹」を象った文字と解説される。地形的には「こんもりと高くなったところ」と読み解ける。

現在の地図では、一見ダムかと見受けられるのだが、実際は小高くなったところで区切られている様子であることが判る。その小高いところを「蠅」と表記したのではなかろうか。


蠅(こんもりと高くなったところ)|伊(小ぶり)
呂(積み重なった台地)|泥(くっ付く)・杼([杼]の形)

…と読み解ける。実に良くできているのは、それを挟んで「呂」=「積重なった台地」が「泥」=「くっ付く、近接する」ところと「杼」=「杼(横糸を通す舟形の道具)」の地形を表している。姉と妹、それぞれが「蠅」を挟んで住まって居たと伝えている。

当時の地形との差異は否めないが、それらしき地形を読取ることができたようである。いずれにしても「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命」と言う別名表記がなければ辿り着かない場所であろう。地図が拡大されれば、正に「夜麻登」の地形であることが解る。

①夜麻登登母母曾毘賣命
 
<夜麻登登母母曾毘賣命>
更に「夜麻登」が続く…「夜麻登登母母曾毘賣命」が生まれたと記述される。

これは難解であった。今までの紐解きの最高難度の一つであろう。提案してみる。

「母」は原義に戻ると「両腕で子を抱えた姿」の象形とある。伊邪那岐の段で黄泉国に居た豫母都志許賣に含まれる。

「母母曾」=両腕で抱えた姿が二つ重なる」と解釈されるが、それは何を意味しているのであろうか?・・・。

今一度「風師山」を眺めると、詳細に見るとこの山は三つの峰(頭)に加えて更に二つの頭が両側にあり、そこから枝稜線が延びている地形である。

この頭を「登」=「山稜の分岐点にある高台」で表し、「登母母曾」と記述しているのである。そして、この二つの頭は「母」の「両肩」の役割をしていると見ることができる。これで紐解きが前進した。図を参照願う。

二つの腕が重なったようになって風師山主峰の枝稜線を形成しているように見える。驚きである。山の形状を如何に注意深く観察しているか、そしてそれを当て字で表現しているのである。
 
<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命と御子>
母親のところから更に「夜麻登」で行き着く場所、当時を再現しているのかどうかは定かでないが、少し平坦なところが見える。

おそらくその場所が比賣の在処であったろう。畝火の傍の高佐士野でもなく、ましてや奈良大和など全く無関係であろう。

古事記ではこの段のみの登場であるが、日本書紀で対応するとされる「倭迹迹日百襲姫命」は様々な活躍をされる。

夜麻登」を抹消するには余りに主要なキーワード、むしろ積極的に「倭」として利用しようとした魂胆が見え見えである。これを「正史」としている悲しい現実を如何せん、である。

風師山は「風頭山」とも言われるそうである。由来は定かでないが、「風が吹いて来る方向にある」とか言われるようであるが、「風」=「扇子」である。扇子の先の折り畳みを示していると思われる。そして「扇」=「羽」と繋がる。既に述べたが…、
 
羽山=風師(頭)山

…なのである。見事な命名ではなかろうか。

②日子刺肩別命
<日子刺肩別命・日子寤間命>

次いで生まれたのが「日子刺肩別命」である。この命の居場所は皆目不明であったが、上記の「夜麻登登母母曾毘賣命」が解けて初めて気付くことになった。

風師山の山の形状を熟知しなければ到底紐解きは…言い換えれば古代に於いてそれができていなければ…全く為し得なかった命名であろう。

その頂上の拡大図を示す。最も西側にある「頭」が「刺」が刺さったように突出している様が見て取れる。姉の「肩」に当たる。

「別」が付く名前は領地を持つことを表すと思われる。彼の居場所は風師山西麓、現在の北九州市門司区片上町辺りと推定される。「片」↔「肩」ではなかろうか…。
 
日子([日(炎)の地から生え出る)|刺(突出る)|肩(山稜の肩)|別(地)

…「山稜の肩に突出たところがある[炎]の地から生え出た地」の命と解釈される。風師山西麓は稀に見る急斜面であり、麓は海が間近に迫る地形とである。この限られた地を開拓するには相当の技術が必要であったと推測される。

これが後に述べる彼が祖となった地との密接な関連を明らかにするのである。日子刺肩別命」が保有した稲作の技術は倭国周辺地域の開拓に重要な役割を果たしたものと推察される。何度も述べたように大倭豊秋津嶋の開拓はこんな地形を手中にする以外に道はなかったのである。
 
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余談だが・・・日本書紀には彼は登場しない。無視である。国の成立ちの礎である重要技術保有者を蔑ろにする書物は史書として無価値であろう。「記紀」と言う一纏めの表現に途轍もなく違和感を感じる。
 
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③比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命

<比古伊佐勢理毘古命(大吉備津日子命)>
「亦名大吉備津日子命」からは現在の下関市吉見を流れる西田川沿いの何れかであることは推定できるが、複数の津の存在が特定を困難にしていとも思われる。


この御子は母親の傍ではなく前記に登場した「姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命」に関わるところと読み取れる。

それを背景にして「伊佐勢理」を紐解くと…既に登場した須勢理毘賣の「勢」と同様に解釈して…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|佐(左手のような)|勢(丸く小高いところ)|理(分ける)|

…「谷間で区切られた左手のような山稜にある丸く小高い地の麓が分けられたところ」と紐解ける。これで図に示した場所に坐していたと導くことができる。比古・毘古が付加されているのは田・畑を作り定めていたのであろうか。

姪忍鹿比賣命」及びその御子「大吉備諸進命」が住まっていた場所の近隣であり、「吉備上」の中心の地であったことを示していると思われる(下記3-5参照)。

④倭飛羽矢若屋比賣

もう一人の比賣も紐解こう。「倭」=「夜麻登」ではない。安萬侶くんの戯れである。「飛羽矢」は「羽の付いた矢を飛ばす」ような記述であるが、勿論戯れ以外の何物でもない。「羽」=「風師山」、「矢」=「矢筈山」を示しているのではなかろうか・・・「矢筈山」が矢を示すことは既に登場した大國主命の後裔、日名照額田毘道男伊許知邇神の紐解きで明らかにした。

「若屋」に含まれる既出の「屋」=「山稜(尾根)が尽きるところ」及び「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まった様」と解釈すると…、
 
倭(曲がる)|飛(分れる)|羽(羽山)|矢(矢筈山)|若(山稜が寄り集まる)|屋(尾根の端)

…「曲ながら羽山と矢筈山とが分れた地で尾根の端が寄り集まったところ」と紐解ける。羽山を矢筈山に飛ばすとは、二つの山稜が限りなく接近して分かれているところを表していると思われる。後の継体天皇紀の登場する若屋郎女の解釈と同様である。上図<夜麻登登母母曾毘賣命>及び<意富夜麻登玖邇阿禮比賣命と御子>に示したところと思われる。

そんな訳で現状は、古事記と日本書紀の編者達に翻弄されっ放しというところであろうか。情なし、である。

3-4. 阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼
 
①日子寤間命
 
妹の比賣から「日子寤間命、若日子建吉備津日子命」が誕生する。若日子建吉備津日子命は次の節で述べるとして長男の「日子寤間命」を紐解こう。少々考えさせられる名前なのであるが、「寤」=「目覚める、逆らう」の意味があるとのこと。「間」=「谷間」とすると…、
 
寤間=寤(逆らう)|間(谷間)

…「谷間を堰き止める」命と解釈される。文字解釈を補足すると「寤」=「宀+爿+吾」と分解される。「宀(山麓)」、「爿(段差)」として、「吾」は正勝吾勝勝速日天之忍穗耳命に含まれる「吾」と類似していると思われる。「寤間」は…、
 
山麓の段差がある谷間を[✖](堰き止める)にする

…と解釈される。古事記編者、会心の文字使いであろうか・・・恐れ入りました。

現物が残っている筈はないのでなかなか困難な比定となるのだが、地図をよく見ると、小森江貯水池の手前には幾つかの堰が設けられているように伺える。おそらく現在の形になる前から貯水の工夫がなされていたところと推察される。

「日子」の解釈は既出と同様とすると命の居場所は、上図<日子刺肩別命・日子寤間命>に示したところと推定される。
 
――――✯――――✯――――✯――――
 
またまた余談だが・・・昨今の◯池事件との重なりを感じてしまう。日本書紀の編者(勿論もっとお上の方の指示であろうが…)肝心なところを削除しろ!とのご命令があったに違いない。が、安萬侶くん達は消さなかった!…何としたか…これ以上はない程の難解な表現にしてしまったのである。1,300年間、ともするとこれからも暫くは続く「不詳」の世界に陥れたのである。勿論本著の読者以外は、であるが…。

当て字の時代だからできたこと、そうであろうが、現在ならばもっと良い手があるかもしれない。官僚諸君、いつ我が身に降りかかるかもしれない事態に備えて準備、夢々怠ることなかれ!…である。それにしても1,300年は長い…いえいえ、これからはAIが処理をしてくれる…筈、と思う。(2018.03.30)
 
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娶りの場所が出雲へと延びたと解釈される。また、それだけ少しは余裕が生まれたことも推し量ることができる。更に重要なことは「吉備国」対応の主要中間地点、淡道の確保が確約されることである。二人の御子に関する説話が挿入される。説話及び祖となった記述に従って述べることにする。

3-5. 御子達の活躍

大吉備津日子命與若建吉備津日子命、二柱相副而、於針間氷河之前、居忌瓮而、針間爲道口、以言向和吉備國也。故、此大吉備津日子命者、吉備上道臣之祖也。次若日子建吉備津日子命者、吉備下道臣、笠臣祖。次日子寤間命者、針間牛鹿臣之祖也。次日子刺肩別命者、高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖也。天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也。
[オホキビツ彦の命とワカタケキビツ彦の命とは、お二方で播磨の氷の河の埼に忌瓮を据えて神を祭り、播磨からはいつて吉備の國を平定されました。このオホキビツ彦の命は、吉備の上の道の臣の祖先です。次にワカヒコタケキビツ彦の命は、吉備の下の道の臣・笠の臣の祖先です。次にヒコサメマの命は、播磨の牛鹿うしかの臣の祖先です。次にヒコサシカタワケの命は、高志こしの利波となみの臣・豐國の國こく前さきの臣・五百原の君・角鹿の濟わたりの直の祖先です。天皇は御年百六歳、御陵は片岡の馬坂うまさかの上にあります]

彼女達が産む御子、二名は吉備臣の祖となって国の発展に貢献する運命を背負うことになる。本当かい?…と言いたくなるような周到な手配である。武器調達、農耕器具も合せて国力の増大に備える準備が整ったと古事記が伝えている。

①大吉備津日子命・若日子建吉備津日子命

「大吉備津日子命」と「若建吉備津日子命」の異母兄弟、今度は吉備上道臣及び吉備下道臣、笠臣となる。出雲の淡海育ちの彼らにとって吉備は決して遠くないところであったろう。豊かになった葛城の財力を背に念願の吉備に入り込んだのである。第七代孝霊天皇紀、天皇家の変曲点である。

短い文章だが伝えていることは豊かである。一つ一つ紐解いてみよう。「針間氷河」の「針間」=「針のように細い隙間」通説の「針間」=「播磨」に惑わされてはいけません。山と山に挟まれた細い谷間の地形象形の表現である。吉備国に入るにはここを通る。吉備国の位置については神武天皇紀の記述に従う。地図を参照願う。
 
<大吉備津日子命・若日子建吉備津日子命>
山裾が海まで届くその直前に窪んだところが見える。この狭い峠を越えて吉備に届くのである。そこに「氷河」があった。

現在の地図でも辛うじてであるが、二つに分かれて、また合流して海に注ぐ川が見つかる。「氷」=「二つに割れる」と解釈される。山口県下関市吉見下船越辺りである。

忌瓮」=「祭祀に用いる神聖な器」を置いて武運を祈る、とのこと。儀式のようでもあり、ならば絶対に欠かせない行動であろう。

その後の戦いの前に忠実に記述されるところからも当時は極めて重要なものであったと思われる。そうして、吉備を「言向和」したと伝えている。

記述がないので後の仁徳さんと同様に吉備国に向かったとして、初めは省略して「佐氣都志摩(現在の六連島)」から下関市福江辺りにある港まで船で行き、そこから陸上を北に向かう。

通説との比較は殆ど意味がない有様であるが、「針間」=「播磨国(兵庫県西部)」、「吉備国」=「吉備国(岡山県東部)」としても「針間爲道口」の解釈が不自然となる。武田氏訳は無視している。
 
吉備上道臣・吉備下道臣

現在の吉見の地名には「吉見上」と「吉見下」がある。残存地名として受け取れる。二人の命がそれぞれ担当したのこと。何故、そんな細かいことを?・・・「吉見上」は鉄に絡む、特別な場所だったのであろう。

天之金山鐵、天(伊都)之尾羽張神など「鉄」に関係する記述はごく限られている。吉備に関しては、仁徳天皇紀の歌以外には見当たらない。しかも決して単純な表現ではない。真に無口な古事記である。いずれにしても神倭伊波禮毘古命に始まる吉備国への侵出は、その後の天皇達も確実に引き継いでいることが判る。

吉備国での上陸地点については、この段の時点では全く不明であるが、後の景行天皇紀に大碓命・小碓命(倭建命)が誕生する。彼らの出自の場所が下関市福江辺りと比定される。この大小の入江が、おそらく、最も適したところであったと推測される。当時は図中の龍王神社近くまで、大きな入江であったと思われ、忍び寄る場所ではなかったであろう。
 
<竜王山・吉備上(下)道臣・笠臣>
初見ではもっと南側の
安岡本町辺りかと思われたが、縄文海進の威力は凄まじく、現在の広い台地は複雑に入り組んだ入江を形成していたと推測された。

山麓は大きく変化する地形なのである。それを十分に考慮に入れることが重要であることをあらためて気付かされたようである。
 
笠臣

あらためて振り返ると、吉備上道臣、吉備下道臣の上下の臣の記述、現在に残る吉見上、吉見下の地名との合致は感嘆に値する。更に笠臣の「笠→龍」の置換えに気付いたことも加わる。

図に示した通りに、この山の吉見下から眺める姿は真に「笠」である。検索ではこの関連を見出すことはできなかったが、見事な象形であろう。各「臣」(小ぶりな谷間)の場所も併せて図に示した。

一方、この神社の由来が記されている。「…乳母屋神社は第八代孝元天皇の御代に御鎮座され第二十七代安閑天皇三十二年現在地に社殿を建立し第四十三代元明天皇の御代社殿を再建され長門国第三鎮守の社とも云われた由緒の社…」とある。

孝霊天皇の御子、若日子建吉備津日子命が祖となった時代と符合する。上記されている通り、大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)とは異母兄弟である。「吉備国」=「下関市吉見」・・・吉見の地の古代があからさまにされることを祈るばかりである。

②日子刺肩別命

と、まだ続きがあった…意富夜麻登玖邇阿禮比賣命の長男「日子刺肩別命」が「高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖」となる記述があった。サラリと書かれた地名、とてもこの段階で紐解けるところではない。

伊邪那岐・伊邪那美の国生み「淤能碁呂嶋」など仁徳天皇紀で初めてその場所の詳細を明かすのである。この記述に惑わされてはならない。全体をよく読めばちゃんと書いてありますよ…安萬侶くんが微笑んでいるようである。
 
高志之利波臣・角鹿海直

「高志」は須佐之男命が出雲で退治した「高志之八俣遠呂智」に冠された地名に登場する。その説話の前に天照大神と須佐之男命の誓約によって誕生した御子に「天菩比命」が居る。が、この命が役立たずで、その息子の「建比良鳥命」の活躍が記述される。

多くの地の祖となるのであるが、その中に「上菟上國造・下菟上國造」があった。見慣れぬ文字「菟上(ウナカミ)」が現れた。で、チラッと通説を眺めると「上総」「下総」の各々にある「海上郡」のこととある。千葉県の登場である。何故東方十二道にも入ってない国がシャシャリでるのか?…宣長くんが古文書眺めて見つけた言葉をそのまま持ってきた、それだけのことであろう。前後の脈略皆無である。

と、偉そうなことを言って、何と解釈する?…「菟上(トガミ、トノウエ)」と読む。漸くにしてこの地の「ト」という表現の由来を語る時が来たようである。「戸ノ上山」勿論、同根である。造化三神を含む五つの別天神に続いて生まれた神々、伊邪那岐・伊邪那美と同世代の神に「意富斗能地神」、妹の「大斗乃辨神」の二神がいる。

この二神に共通する「斗」の文字の紐解きが全てを明らかにすることになる。「斗」=「柄杓」である。柄杓のよう地形を示す。最も典型的で尚且つ大きな「斗」が「大(意富)斗」=「出雲国」なのである。これは地形象形そのものの表現である。「大」の由来は「大斗」にあった。

山に囲まれて凹になった地形、それは古代においては最も好ましい住環境を提供してくれる場所であり、近隣の自然環境と異なり穏やかな佇まいを示す処なのである。その地を「ト」と表した。そしてその地の上方にあるところを「トのウエ」と表現したのである。

「戸ノ上山」=「斗()の上にある山」そのものを表している。その「戸ノ上」にある国とは?…大長谷、現在の門司区奥田を通り淡島神社の脇を通り過ぎると、行き当たるのが天菩比命の御子、建比良鳥命が祖となった「上菟上國」、少々下ると「下菟上國」となる。「上」は現在の同市門司区伊川、「下」は同市門司区柄杓田・喜多久となる。

彼らの視点は常に淡海から眺めているのである。柄杓の底から山を上がり、その上がった先にある国々を表した国名である。都の位置など無関係、実際の行動に全てが準拠している。単純であり、明快であると思われる。
 
<高志之利波・角鹿>
「高志之八俣遠呂智」と「上菟上國・下菟上國」がここで繋がることになる。「高志国」は現在の北九州市門司区伊川・柄杓田・喜多久、当時は未開であった猿喰を示していると思われる。

後に「鵠」を求めて彷徨う物語が記述され、この地に行き着く。寸分違わずとは言えないまでもピシャリと納まる。

「高志之利波」=「柄杓田」と解釈される。「利(ト)」→「斗(ト:柄杓)」未だ田にはなっていなかったから「波」と表現したのであろう。

これも一つの解釈として有効のような気もするが、「利波」そのもののは何を意味しているのであろうか?…「利」=「禾(しなやかに曲がる)+刀(細い)」と分解できる。「刀」は地形象形として、細い刀の形を示していると紐解ける。「利波」は…、
 
利(しなやかに曲がる細い刀の形)|波(端)
 
<高志之利波臣・角鹿海直>
…「端にあるしなやかに曲がる細い刀の形のところ」と解釈される。

古事記は「斗」=「戸」=「刀」を「ト」と読ませ、凹の地形(垂直方向だけでなく字形そのもの)の大きさ、形で使い分けていると紐解いて来た。

その最も細く小さな凹の地形であると記しているのである。越中富山の「砺波」国譲りをした連中は決して角鹿…いや馬鹿ではない、良くできている。

「角鹿」は、二つの見事な角に挟まれたところ、当時はその大半が海であって、大きな湾を形成していたと推測される。

「海直」は何を意味しているのであろうか?…「直」(真っすぐな隙間:谷間)と紐解いたが、この地に求められる地形ではないようである。それが「海」の示す意味を示唆していたのである。

湾となった「海が直なところ」と読み解ける。単に「直」と表記せずに「海直」としたのには訳があった、と解る。この角鹿(都奴賀)の地から後に天皇が誕生する。それは天皇家の長い開拓の礎があったと告げているのであろう。
 
豐國之國前臣・五百原君
 
<豐國之國前臣・五百原君>
豐國は筑紫嶋の四面の一つであろう。「國前」を如何に解釈するか?…「高志前」のように「前」は麓の方向にある地と解釈できる。

そうすると「豐」の麓の全てが該当する地となり、そんなあやふや表記をしているとは到底思えない。墨江之三前大神と同じく、「前」=「揃」の略字体と見做す。

「國前」は…、
 
大地が揃って並んでいるところ

…と紐解ける。多くのギザギザの山稜の端の中に辛うじて並んでいるように見える場所が見出せる。

「臣」=「小ぶりな谷間」が付くのは、この並んだ山稜の隙間を示していると思われる。勿論、この地は「前(サキ)」の場所でもある。重ねた、いや、両意を満たして地形象形しているのであろう。
 
<日子刺肩別命(祖)>
「五百原」は…、
 
交差するように連なる小高い野原

…と紐解ける。既に幾度か登場した。最初は天石屋の段の「八尺勾璁之五百津之御須麻流」に含まれる五百津である。「五」の古文字は「✖」の形を示している。忍穂耳命の「吾勝」の「吾」も同様な解釈であった。

現地名は北九州市小倉南区葛原(本町・高松)辺りと思われる。「君」は整えられた台地のイメージだが、現在は住宅開発が進み、当時の様相とは異なるようである。

彼は海が間近に迫る風師山西麓の急斜面の地で水田を整備したのである。彼が向かうところはこの地に類似するところと見做して間違いないであろう。

北九州市小倉南区葛原辺りは「州羽海」の面するところである。正に符合する地形と思われる。幾度も登場する御子が祖となる記述、それは重要な意味(目的)があって行われた結果であろう。古事記はあからさまには語らないが…ちゃんと書いてありますよ、と言われそうだが…御子の生い立ちを探って初めて晒されるのである。
 
<針間牛鹿臣>
やや、反省も込めて実に論理的な記述であることが判る。むしろ、それは本当の出来事かと思われるくらい辻褄があったシナリオなのである。


今回もそれをしっかり噛みしめることになったようである。

③日子寤間命

ちょっと順不同になってしまったが、「日子寤間命」も祖となっと記述されている。

「谷川を堰き止める」技術はニーズがあったようである。「針間牛鹿臣」とは牛鹿飼いのような…と言っても牛馬なら判るが鹿が入るとは?…やはり地形象形の表現と見做すべきであろう。
 
牛(牛の角のような地)|鹿(鹿の角のような地)

…「牛と鹿が連なり並んでいるところ」と紐解ける。「深い谷間の堰作りに長けた命」の関係であろう。現在もかなり大きな堰(池)が見受けられるが、当時の出来事と繋がっているのかどうかは定かではない。がしかし、心強い心証を得た気分である。「臣」の場所は、「鹿」の谷間と推定した。
 
<片岡馬坂上陵>
「天皇御年、壹佰陸歲。御陵在片岡馬坂上也」と記述されて孝霊天皇紀は終わる。天皇一家の興隆を実感として眠っておられることであろう。

「片岡馬坂上」とは…、
 
片岡(平たく低い岡)|馬(馬の背)|坂上

…平坦で窪んだところがある場所と思われる。現在の田川郡福智町弁城、岩屋神社辺りであろう。

図に大きく広がる「玉手岡」を示した。一段低くなったところの上にあったと思われる。

繰返しになるが…、

第七代孝霊天皇紀は大きな時代の転換期

倭国繁栄の兆しが伺える天皇紀である。



懿徳天皇・安寧天皇・懿徳天皇               孝元天皇・建内宿禰

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