綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇

神武天皇                    孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇

綏靖天皇・安寧天皇・懿徳天皇


1. 神沼河耳命(綏靖天皇)

事績の記述は少ないものの、娶った比賣の出自である父親の在所と御子達の活躍は各々の名前から推測することができる。そして倭国の拡がりが見えてくるのである。神沼河耳命(綏靖天皇)は祖父の「三嶋湟咋」の在所近隣で育った。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山松田御手水近隣あったと推定した。

確かに周辺は三嶋湟咋らが開拓し谷は茨田(棚田)になりつつあるが、川下は大きく蛇行して流れる何本もの川が交錯するところ、とても手が付けられるような地ではないと判断したのであろう。更に統治するべきところとは山塊を越えて行かねばならず、決して近付いたとは言えない場所であった。

彼の信頼する兄、神八井耳命が奔走するも父親の神倭伊波禮毘古命の坐した畝火之白檮原宮の周辺は財を成すには不適な地形であり、また周囲は未だ信頼に足る連中ばかりでもなく、むしろ隙あらば、と狙われる危惧もあったのであろう。

何せ北は金属資源の採鉱/精錬場所、南西の開けた地は既に多くの人が棲み、割り込む隙は殆どない。「師木」「長谷」に坐することができるのはずっと後になってからである。一朝一夕の物語ではない、と古事記は伝えているように思える。

更にこの地に先陣を切った邇藝速日命の場合のこともある。「春日」現在の同県田川郡赤村にある戸城山に拠点を置き、その周辺の地に入り込み地元住民との融和施策も引き連れて来た一族の繁栄には程遠い結果を招いた。人々が畏敬する邇藝速日命は地元に吸収されてしまったかのようである。

赤村周辺は豊かではなく、これから豊かになるところであった。地元社会に埋没してしまったことへの反省が二代目の挙動の根本動機と思われる。邇藝速日命ばかりではなく高天原一族の祖先達も何度もこの地元への埋没を経験している。天菩比神、天若日子などは事件の度に高木神がシャシャリ出る、パターンである。

侵略、略奪戦略でなく「言向和」という極めて稀な戦略をとる「高天原」一族の悩みであった。では、どんな施策を採るのか、綏靖天皇が採った戦略はある意味とんでもない迂回作戦であった。深謀遠慮なのか、いや単に勇気のない、やる気のない戦略なのかそれは歴史が示すこととなる。

神(建)沼河耳命の決断

彼が採った戦略は未開の土地「葛城」の開拓であった。留まることを知らない河川の流れ、干からびてしまいそうな急斜面の山麓、がしかし、山塊からの豊富な水を制御し「茨田」を作ることができれば、河川氾濫水害の危険のないところとなり、作付けする植物の種類も一気に豊かになる。水田を河口付近に求める発想とは真逆である。

三嶋湟咋」の技術を知る神沼河耳命だからこその発想とも言える。「茨田」の技術、後の「筒木」の技術及び「水門」の技術を古事記は伝えているのである。より急斜面の土地を如何に利用し豊かにして来たか、これを読み解すことができなかったことに対して忸怩たる思いである。

ところで「葛城」の文字が古事記に登場するのは、これが初めてである。文字の解釈から上記のような古事記記述の流れを読取るのであるが、今一度「葛城」の文字を紐解いてみよう。「葛」=「艸+曷」と分解される。「曷」=「水分がない、乾ききっている様」を表す文字である。「渇」は正にそれを示している。即ち「水分がなく乾いている草木」を示すと解説されている。

既に登場した「城」=「整えられた(整地された)高いところ(高台)、なだらかに盛り上がったところ」を示すのが原義であって、城郭を意味するのはずっと後代になってからだと知られている。即ち「葛城」は…、
 
葛(乾く)|城(なだらかに盛り上がったところ)

…「水分がなく乾いているなだらかに盛り上がったところ」の地と解釈される。通説では「神武天皇が、葛で編んだ網で土蜘蛛を捕らえたためと伝えられる」と記載されているが、意味不明であろう。日本の地名の由来が全く体を成さない、典型的な例であろう。

上記したごとく葛城の地は急斜面の山麓に位置するところなのである。故に未開の地であったことを示している。これを読み解くことが大切であり、でなければ綏靖天皇以下数代の天皇がこの地に留まることの意味が伝わって来ないのである。

勿論、この文字解釈のみでは葛城の地を現在の田川郡福智町辺りに比定することは不可であろう。それが確信されるのは、多くの登場人物、地名が読み解かれて初めてなされるべきことなのである。尚、「葛」の地形象形表記としての解釈は、こちらを参照。結論的には葛城=山稜が遮られて閉じこめられたような高台と読み解いた。

古事記原文…、

神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。一柱天皇御年、肆拾伍。御陵在衝田岡也。

なんとも簡明な記述で終わる。そして短命であった。だが、古事記の中で彼が果たした役割は特筆すべきことである。邇藝速日命並びに高天原一族が果たせなかった倭国建国の戦略転換を行ったのである。そしてそれは単なる思い付きではなく、国を豊かにする「技術」に裏付けられたものであった。

<葛城高岡宮・衝田岡陵>
この名前だけでは一般的で特定は難しいのであるが、「岡」は山腹に稜線が描く地形を示していると解釈する。

図に示した通りに稜線に囲まれて更にその中に山稜が延びる地形を表したものと思われる。類似の表現は神倭伊波禮毘古命の筑紫之岡田宮などに多用される。

葛城高岡宮は田川郡福智町上野にある堀田稲荷神社がある近隣にあったと推定される。一段と高くなったところである。

御陵は「衝田岡」とある。「田を突き動かす」と「田を掘る」とは同義と見做せる。現在の同町上野堀田辺りではなかろうか。その山麓側を「衝田岡」と称したと思われる。図の「岡」に含まれる場所と思われる。

他の天皇の寿命からしてかなり短命であったろう。「師木」との繋がりを保ちつつ地道な努力を続けたと思われる。系譜が切れなかっただけでも立派な事績と評価できるであろう。

通説の「葛城」比定地を放棄しない限り古事記からは何も伝わって来ないと断じる。言わずもながの通説「神武東征」も、である。尚、娶りで登場する人物の所在は次の段で記述する。
 
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ブログ公開時には以下のような記述を追加していた。ご参考…未開の地「葛城」に着目し、それを開拓していった神武一家の発展に「欠史八代」の天皇達が果たした役割に称賛の拍手を捧げよう。そして安萬侶くんが伝えようとしたこの一大転機の背景と意味を読み解せなかった日本の歴史家に鉄槌を下そう…と、まぁ、落ち着いて、落ち着いて・・・。
 
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2. 師木津日子玉手見命(安寧天皇)

未開の地「葛城」に飛び出した神沼河耳命(綏靖天皇)、祖父三嶋湟咋の「茨田」の技術で何とか開墾に着手したものの悪戦苦闘が始まったであろう。「茨田=八井」の地は多くの河が緩やかに流れ水源の確保が容易であり、田を積み上げるだけで、と言っても簡単ではないが、棚田を作ることができた。

<師木津日子玉手見命>
「葛城」は予想を遥かに越える急傾斜の地、谷間に沿って多くの河が流れるが、田に水を貯め、穏やかな水の流れを望むことはできない。


この矛盾をどう解決するか?…思案に思案を重ねた結果は「衝田」と「池」であった。

傾斜を滑らかにするために山麓を掘ることと水の流れを池によって制御することであった。

例え出来たとしても収穫を得るには一年、いや二年はかかる。気が遠くなりそうな地道な努力を、土との戦いを継続したのである。

開拓民と化した彼らの支えは、豊かな海と山の自然、その恵みに溢れ、一面に稲穂が棚引く光景を思い描けることであったろう。

それはさて置き、師木津日子玉手見命は何処に坐していたのか?…どうやら彼らの苦悩を偲ばせる命名のような感じである。「師木」=「諸々とした山稜」と読み解いた。すると…、
 
師木(諸々とした山稜)|津(集まる)|日([炎]の地形)|子(生え出たところ)

…「諸々とした山稜が集まって[炎]の地形から生え出たところ」と紐解ける。図に示したように大きくは二つの山稜の端が寄り集まっている場所を表している。その生え出たところ、現在の若八幡神社の辺りが求める場所と推定される。

母親の河俣毘賣は、金辺川の蛇行が激しく、直角以下に曲がるところを「俣」と表記したと思われる。その「俣」の間の小高いところ(標高22m)に坐していたと推測される。

母親の河俣毘賣、祖父及び娶ることになる伯母の場所(下図参照)からも頷けるところと思われる。しかしながら更に「玉手見命」が付加される。「玉手」の地形は上記の周辺には見当たらず、この御子との名前が複層化しているように見受けられる。先に論を進めてみよう。

師木津日子玉手見命の苦闘

そんな光景を見ることはなかったであろう、先代綏靖天皇は亡くなった。まだ三十歳前(?)で、おそらく引継いだ師木津日子玉手見命(安寧天皇)も幼い時期であった。父親の思いを遂げるよう、ひたすら開拓に心血を注いだ姿が目に浮かぶ。娶る比賣の出自も同じく師木に絡む。

古事記原文…、

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命、自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

師木で生まれて、幼い時期での日嗣であったろう。師木津日子玉手見命には「師木」が含まれ、また「玉手見」が加わる。「玉手」とは?…地図から一目で見出だせる。
 
玉(勾玉のような)|手(の形をした)

…特異な山裾を形成している。見事に、五本指まで揃えて勾玉の姿をした地形である。真に葛城のランドマークであり、この地を中心に開拓が行われていったと思われる。

「玉手見」=「玉手の地を目の当たりにするところ」と解釈できる。尋常ではない日嗣であったことを示す命名と解る。彼自身が「師木津日子命」と名付けた御子を誕生させる。「玉手」移って空いた地に息子を納めたのであろう。

「片鹽浮穴宮」の在処は以下のように紐解いた。当時の海抜0mの彦山川流域(現在の田川郡福智町赤池上原辺り)は潮の干満によって海水、川水の混じるところであったろう。


<玉手・片鹽浮穴宮>
「片」=「僅かに、完全ではない」の意味から「片鹽」は…、
 
僅かに塩が混じるところ

…と紐解ける。文献に示された赤池上原の対岸の葛城の地を示していると解釈される。上図の「中指」の先に当たるところと判る。

「浮穴」は何と紐解けるであろうか?…天浮橋の「浮」=「[浮]の地形」と同様であろう。

「穴」=「宀+ハ」=「山麓の谷」の象形であり、大穴牟遲神に含まれていた。

「浮穴」は…、
 
山麓の谷にある[浮]の形のところ

…と読み解ける。「玉手」奥に父親の高岡宮、衝田岡陵があった。今は亡き父親を見る天皇、父親の後を引き継ぐ天皇と解釈できるのではなかろうか。玉手は父親の手を借りたい気持ちを暗示しているようでもある。

2-1. 縣主波延之女・阿久斗比賣

娶ったのが従兄弟にあたる縣主波延之女・阿久斗比賣であった。母親の「河俣毘賣」伯父の「縣主波延」は師木の何処辺りに居たのであろうか?…「波延」から紐解いてみよう。「波延」=「波()・延(尾根がずっと延びたところ)」とすると、英彦山系岩石山の北方の稜線の先端を示すと読み解ける。
 
<阿久斗比賣・河俣比賣>
阿久斗比賣・河俣比賣

阿(台地)|久(久の字形)|斗(柄杓)

…「久の字形をした柄杓の台地」と紐解ける。上記で登場の「河俣毘賣」は現在の田川市糒の日吉神社辺りではなかろうか。

その場所は金辺川が直角に曲がるところの近隣であり、現在も複数の川の分岐が見られるところである。間違いなく師木の中でも縁に居た一族である。

現在の日吉神社を中心に配置した図を下に示す。古代の地形が残っているのは奇跡に近いであろう。現地名は田川市大字糒である。

2-2. 師木津日子命の御子

幾らか時代が進んだ後の出来事になる。三男の師木津日子命の御子の活躍が記述される。「伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置」の祖となるのである。名前は不詳。

伊賀須知・那婆理・三野

いきなりの地名である。が、現在の三重県に絡むところであろう。ならば「伊勢国」近隣と連想する。「伊賀須知」は…、
 
伊(僅かに)|賀(押し広げられた谷間)|須(州)|知([鏃]の地形)

<伊賀須知・那婆理・三野>
「須(州)」に関わるところなら、現在の北九州市小倉南区守恒辺りと推定される。

現在は立派に宅地に開発されて当時を偲ぶには若干の困難を感じるところではあるが、陰影起伏図などを参照しながら求めてみよう。

紫川と志井川の合流するところは、頻出する「鏃」の地形を示していて当時もおそらくその形をしていたのであろう。

するとその背後は高低差では高々数m程度だが谷を形成していたと伺えるようである。

そこに田が作られていたならば、これも頻出の「賀」の表記に合致する。「鏃」のところは現地名は小倉南区徳力新町となっている。

いずれにせよ地形的には判別が曖昧であることは否めない。何故伊勢?…これも師木津日子命の娶り記述がない以上突止めがたいところである。山腹の急傾斜の地ではなく、師木と類似する地形の場所を開拓して行ったことを伝えているのではなかろうか。

「那婆理」は上記が解ければ現在の同区葉山町辺りと推定できる。山稜の端にあって伊賀に隣接する地であろう。現在とは大きく異なるようであるが、山稜の端が区切られた地形を有していたのではなかろうか。後の倭建命の段に登場する邇比婆理の地は辛うじて読み取れるが、この地は難しいようである。
 
那(ゆったりとした)|婆(端)|理(区切る)

後の倭建命関連で出現する「石代」(現同区石田)「漁田」(現同区蜷田若園)は近接の地であることがわかる。地名ピースはピッタリ納まったが、これ以上出てくると大変?…であるが・・・。

「三野」は「隠蓑」に騙されそうであるが、上図の場所を国土地理院陰影図で見ると明らかな「箕」の地形を示していることが判る。現在地名は同区横代南町。尾張國之三野別とも言われた。師木津日子命の后の出自は、おそらく尾張国だったのであろう・・・。「三野」を除き「伊賀須知」、「那婆理」の登場はこの段のみである。

それにしても「国譲り」は徹底しているようである。しかも能くできている。白地図に地名をやたらと書き込んでいく作業であったのかもしれない。さて、もう一人の孫の話に移ろう・・・。
 
和知都美命:淡道之御井宮
 
和知都美命が坐したところ「淡道之御井宮」とは?…間違いなく淡海、現在の関門海峡であり、その道に面したところと思われる。下関市の彦島公園の西側、「由良能斗」と特定したところの北側土手は「向井」という地名である。現在の田ノ首八幡宮辺りが「淡道之御井宮」と言われたところと特定できる。

確かに状況証拠的には確度の高い比定であろうが、名前に刻まれて意味は何と紐解けるであろうか?…、
 
和(ゆったりと曲がる)|知([鏃]の地形)|都(集まる)|美(谷間に広がる地)

<和知都美命・淡道之御井宮>
…「ゆったりと曲がる矢の口(鏃)のような地と谷間の大地が寄り集まるところ」の命となる。

「知」=「矢+口」として「鏃」と解釈し、「美」=「羊+大」として羊の甲骨文字の象形から求めたものである。

「美」=「谷間に広がる地」の地形象形に気付かなければ到底行き着くことのない解釈であろう。他意にも使用される「美」を使った見事な象形表現と思われる。

神八井耳命が入り込んだ出雲国の対岸にあり、後に仁徳天皇紀の説話で出雲にあった高い木の影が延びるところである。

周辺諸国の記述の少ない古事記の中で貴重な情報と思われる。古事記記述の初期に登場する出雲と淡道嶋、これらの地が飛び離れたところにあるという理解を受け入れることは到底できない。

既に述べたように出雲国の中心(特に南部)には入り込めない状態が続いているのである。大年神一族との諍が静まるのは英雄倭建命の出番まで待つしかないのである。それもやはり北部であって古事記が記載する範囲においては完全な融和は起こらなかったと推測される。
 
<畝火山之美富登陵>
それまでは国境付近、戸ノ上山山系の東南麓に限りなく接近した場所を抑えて行くしか道はなく、この御井宮は西南の方向、海からの監視に極めて有利な場所であったろう。

誕生した「意富夜麻登久邇阿禮比賣命」は後に登場する。その段で記述する。

先代と同じくこの天皇も若くして亡くなってしまう。「御陵在畝火山之美富登」と記述される。

度々登場の「富登」畝火の近く…現在の地名に「殿町」というのが見つかる。福岡県田川郡香春町殿町、香春一ノ岳の北東麓にある。

九折の道を辿れば一ノ岳に届く道(現在は立入禁止?)がある。九折の車道が通っている中腹の場所と推定される。

「殿」⇒「臀」⇒「尻」なんていう置換えも考えられないこともないが、地形象形からの「美富登」であろう。単刀直入の表現、正に古事記の魅力であろう。単刀直入に解釈することこそが要である。
 
美(谷間に広がる地)|富(山麓の坂)|登(山稜が分れる高台)

…「山麓の坂がある広がった谷間の奥にある山稜が分れるところの高台」と紐解ける。「美」は上記と同じ解釈である。甲骨文字の上部の三角の山形二つが香春一ノ岳と二ノ岳を表しているのである。少々特定するには曖昧な表現ではあるが、現在高座石寺の近隣ではなかろうか。流石に墓所の名前で別名は無いようである。「登」は夜麻登、「富」の解釈は大国主命、大年神の段で解釈済み。
 
常根津日子伊呂泥命

重要な情報を潜めている名前であることは承知の上だが、次の天皇のところで記述する。葛城を豊かにするために黙々と努力をした御子の名前と思われる。

そろそろ動きが出ても良い時期になるのでは?…宮が動く筈である。師木に近付くのか、それとも更に開拓を拡張するのか、そんな背景を踏まえて「大倭日子鉏友命」を紐解いてみよう。
 
3. 大倭日子鉏友命(懿徳天皇)

葛城に移ってからの三代目は何を探し求めたのであろうか・・・。

古事記原文…、

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。
 
大倭日子鉏友命の冒険

懿徳天皇は「軽之境」に飛んだのである。師木とは益々遠くなる道を選んだ。もっと国を拡げるため、もっと力を蓄えるには土地が必要だったから、彦山川と遠賀川の合流地点、その先は古遠賀湾の淡海であった。厳しい環境ではあるが、開拓すれば大きな収穫を望めるところと推し量ったのであろう。

「軽之境」は何処を示すのであろうか?…現在の福岡県直方市に上境、下境という地名がある。「軽」=「車が敵陣に真っすぐ突っ込んでいく様」=「遠賀川と彦山川が作る川中島」と解釈される。「軽之境」は葛城の延長にある「上境」と紐解ける。

そこにある岡の上にある福地神社(図中上境左斜め下の)もしくはその東の法喜寺()辺りではなかろうか。和風諡号「大倭日子鉏友命」に含まれる「鉏友」を何と解釈するか?…「鉏友」は…、
 
鉏(鉏く)|友(仲間)

…と読める。「仲間(連なる山稜)をすき取るように隙間を作る」と解釈できる。


<大倭日子鉏友命・輕之境岡宮>
福智山・鷹取山山稜が延びた端を分断したような地形の象形である。

現在は水田となっているが、おそらく当時は彦山川の川中にあって山稜が分断され(諏訪山)、一層明確に見られたのではなかろうか。

ならば輕之境岡宮は現在の法喜寺(卍)辺りと特定できる。合流地点の傍にある台地、即ち岡の上にあった宮である。

福地川も合流する水利に極めて優位なところである。福智山山塊の雲取山などの山稜が長く延びる「師木」に類似する大地だった。

「茨田」の技術が活かされたであろう。しかも大面積の耕地を造成することができたのである。おそらく歯向かう相手もなく、着実に、決して楽なことではなかったであろうが、開拓を進めて行ったと思われる。

彼らは途轍もなく大きな財源を確保したのであった。勿論それが実現するためには、更に多くの労力と時間が必要であったことは言うまでもない。

3-1. 師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。珍しく末子相続ではなかったと伝える。「多藝志」出雲国之多藝志之小濱多藝志美美で出現したところであろう。すると母親の居場所もその近隣ではなかろうか?…何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。

が、母親の名前に隠されていた。少々通説に引き摺られて「賦登(肥or太)|麻和訶(真若)|比賣命」などと紐解き、気にはなったが、これでは地形象形とは無縁の表現となってしまう。しっかり文字解釈をしてみる。「賦」=「貝+武」=「谷間にある矛のような山稜」、「登」=「癶+豆+廾」=「谷間の奥にある高台」、「麻」=「狭い」の解釈とすると…、
 
賦(谷間の矛のような山稜)|登(谷間の奥の高台)|麻(狭い)
和(しなやかに曲がる)|訶(谷間の耕地)

 
<多藝志比古命・賦登麻和訶比賣命>
…「谷間の奥に高台にあって前に矛のような山稜がある地で狭くしなやかに曲がる谷間に耕地があるところ」に坐した比賣命と読み解ける。

「比賣」=「田畑を並べて生み出す女」の解釈を付加することもできる。

また別名が「飯日比賣命」と記される。「飯」=「食+反(山麓)」更に「食」=「山+良(なだらかな)」として、讚岐國謂飯依比古の「飯」と同様に解釈する。


「日」=「火:三つの火頭」を意味すると思われる。同じような大きさの山が三つ並んでいる様を表している。

神倭伊波禮毘古命の段で登場した畝火山の「火」(現香春一ノ岳、二ノ岳、三ノ岳)の表現と同じと解釈できる。

「飯日比賣命」は…、
 
飯(なだらかな山稜の麓)|日([火]の地形)

…の傍らに坐した比賣命と紐解ける。最も西側にある山は大国主命が建御雷之男神に「言向和」され、多藝志の宮で大宴会の料理を準備した「櫛八玉神」で登場した山である。

「賦登麻和訶比賣命」は玉の山の麓で輪になったところの近くを登った場所に坐していたと読み解ける。現在の貴布祢神社がある辺りではなかろうか。大国主命が隠居した場所と重なるようでもあるが、定かではない。
 
<俯瞰図>
「多藝志」は「美美」を付加する場合も含めると、それなりの頻度で登場する地名である。淡海に面して早くに切り開かれた地であったと推測される。

人名に潜められた地形、その捻れた表現に今尚戸惑いは隠せない有様である。

が、これこそ古事記というものであろう。

賦登麻和訶比賣命には「師木縣主之祖」と冠される。その子孫が師木で繁栄したのであろう。出雲の地から広がって行った天皇家の有様を伝えている。

葛城の「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには、未だ至ってなかった。大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。

土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。
 
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常根津日子伊呂泥命

少し話が遡るが、前記の安寧天皇には長男の「常根津日子伊呂泥命」が居た。たった一度だけ登場するだけで何らの記述もないが、文脈を辿れば、彼こそ、その後裔も含め、天皇の地に居付き、その亡き後もその地を開拓していったと推測されるのである。常世国の「常」=「大地」として…、
 
(北向きに延びる山稜)|([根]の形)|津(集まる)
 
<常根津日子伊呂泥命>
…「北向きに延びる山稜がある根のような端が集まったところ」と紐解ける。「伊呂泥」は…、
 
伊(僅かに)|呂(高台)|泥(くっ付く)

…と紐解ける。全体を通してみると「北向きに延びる山稜がある根のような端が集まった地の高台が僅かにくっ付いているところ」に坐した命と解釈される。

「泥」=「氵+尼」と分解され、更に「尼」=「尸+匕」と分解されて、背中合わせに接している様を象った文字と解説される。

「泥(ドロ)」は正に土が水でくっ付けられた状態を示している。後に登場する景行天皇の御子、大碓命の子、押黑之兄日子王が祖となった三野之宇泥須和氣の解釈と同様である。

「日子」=「[炎]の地から生え出たところ」として図に示した現在の福丸神社の近隣とした。おそらくこの命が坐していた場所と推定される。

彦山川、弁城川、中元寺川が合流する近傍であって、肥沃な泥に恵まれた場所であることを示している。福智町弁城の迫という地名である。現在も長く繋がる棚田を見ることができる。

父親である天皇の思いを遂げるために土地を耕し切り開いていく役割を担った、表の歴史に埋もれた人材であったと思われる。

上記の川縁を如何に活用するかが葛城の命運を大きく左右したであろうし、また、それには多くの時間と労力を要したのであろう。各天皇は臣下の者にその役割を与えたのであろうが、息子に託せればそれに越したことは無い。ポツンと現れた歴史の雲間の太陽である。

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多藝志比古命

「多藝志比古命」の活躍の場所を見てみよう・・・「當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖」と記述される

どうやら「多藝志」出雲の北端から一直線に南下である。「血沼」「多遅麻」「葦井」共に初出である。前二者は後に関連する地名として記述される。それを引用する。

❶血沼之別
 
<血沼之別>
「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国に当たるところと思われる。

倭建命が「言向和」では効かず血祭りにして名付けた沼の名称である。

この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう

左図に示した通り、高蔵山の山麓に血が吹き出し流れているように見える諸々とした稜線がある。

後に登場する「血原」も全く同様の地形を示している。全て主役が歯向かう者共を血祭りに上げる場面で登場である。急峻な崖にできる特異な地形でもある。それを捉えて用いたのであろう。

<多遲麻之竹別>
❷多遲麻之竹別
 
「多遲麻之竹」の「多遅麻」は垂仁天皇紀の「鵠」の探索で出現する木国から高志国まで一連の国に含まれる。

稲羽国と旦波国の間にある地と推定した。音無川と城井川に挟まれたところ、現在の築上郡築上町の一部に当たる。

英彦山山系の枝稜線が大きく延びた、その先端に当たるところである。山稜と言うより既に丘陵の様相を示し、長く連なる地形である。

この細長く延びたところが無数に並ぶ姿を細く真直ぐに生える「竹」(林)に模したと推測される。同じ地形が「旦波国」にも見られるが、後に旦波の竹野として登場する。


更に後の宗賀一族にも小貝王(別名竹田王)現れる。山稜の端が細長く真っすぐに延びた谷間を切り開いた地形を示すと思われる。「多遲麻之竹別」も同様の地形を表していると読み解ける。安萬侶コードは「竹=細長い地形」である。

少し内陸部に入り込んだところに、現在の地名「弓の師」(築上郡築上町)と記載されている。現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と置換えられそうではあるが・・・。
 
<葦井之稻置>
多遲麻

初登場であり、この後頻出する「多遲麻」を紐解いておこう…「多」=「山稜の端の三日月のような地(三角州)」、「麻」=「擦り潰されたようなところ」と読んで来たが、「遲」はどんな地形を表してるのであろうか・・・。

「遲」=「おそい、おくれる」の意味を表すが、地形にそのまま適用するには困難であろう。「遲」=「辶(足)+犀」と分解され、「犀」の動作が字源となっていると解説されている。

ここで文字と地形を関連付ける作業が停止してしまったようで、後に「多遲比」→「多治比」の別表記があることから下記のような解釈に至った。
 
多(山陵の端の三角州)|遲(治水された)|麻(擦り潰された)

…「山麓の三角州が治水されて擦り潰された地」と紐解ける。谷川に挟まれて長く延びた山稜の端が治水され、整地された田がある場所を表していると解釈される…となるが、やはり直接的な地形を表している解釈とはなっていない。

あらためて文字を見直すと「治」=「氵+台」と分解される。この文字も決して簡単な文字ではなく、この「台」=「ム+囗」と分解され、「ム」=「耜(スキ)」を示す文字要素と解説されている。これで「治水」の意味が理解できることになる。「治」=「水際の大地を耜く動作」を表している。地形象形としては、簡明である。「治」=「水際の大地が耜の形をしているところ」と読み解ける。

「多治」=「山稜の端の三角州が耜の形をしているところ」と読み解ける。これで地形を表す「遲」の文字解釈に明かりが見えて来た。「犀」の別字に「屖」がある。即ち「牛」ではなく「辛」(刃物)の文字要素を用いた表記である。「犀」には「牛」のような「おそい」動作と「辛」が示す「刃物」の両方を併せ持つ姿を反映した文字であることが解る。即ち、「耜」=「刃物」と見做していると解読される。「遲」=「山稜の延びた先(足)が刃物のような形(犀)をしているところ」と読み解ける。
 
多(山稜の端の三角州)|治(水際の大地が耜の形)/遲(延びた山稜が刃物の形)

…刃物の先が二つ以上揃って並んでいる時には「治」、そうでなければ「遲」と表記することができる、と述べているようである。ただ「遲」の解釈は、解けてみれば決して曖昧ではないが、かなり回りくどい解釈となろう。古事記故の真面目な表記なのかもしれない。

いずれにしても当時の水田稲作、とりわけ山間の谷ではなく、最も適した広々とした地形ではなかろうか。草創期に開発された地(國)であったと古事記が伝えている。

❸葦井之稻置

「葦井」葦(ヨシ)と読む。たった一度の登場で、しかも国名らしきものも付加されていない。困ったものだが、古事記読者にとっては周知の地名なのかもしれない。これまでの記述で登場し、「多遅麻」の南方にあるのは「木国」である。


<多藝志比古命(祖)>
その地の範囲も決して明確ではないが、地図を探索すると・・・山国川と佐井川に挟まれたところに大ノ瀬大池がある。小高い山稜に囲まれた池のように見受けられる。

「葦」=「艹+韋」と分解される。「韋」=「圍=囲」の意味とすると…「葦井」は…、
 
囲われた水源(池)

…と読み解ける。葦原中国葦原色許男の「葦」であろう。

木国に関する記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点である。建内宿禰の出自に関連するが、もう少し後に記述することになろう。

祖の地を纏めた図を眺めると海路を使った盛んな交流を示しているようである。また「祖」となった記述も違和感なく受け入れることができると思われる。
 
<畝火山之眞名子谷上陵>
通説は出雲(島根)から相武国(神奈川)辺りに広がるが、神話の世界で片付けるにも、やはり無理であろう。

當藝志比古命」の名前が表すように蛇行する川(志)を活用した治水の技術を保有していたと思われる。その先進技術を持ってこの地の祖となったのであろう。

出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなって行くが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて・・・。

先々代、先代と変わらない短命さで亡くなる。御陵は「畝火山之眞名子谷上」とある。
「天之眞名井」で出現した真名=山稜の端の三角州に満ちたところと解釈した。

「子」が付くのは、その州が長く延びた地形を表しているのであろう。現在の同県田川郡香春町五徳、その谷の上を示していると思われる。
 
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懿徳天皇の冒険、その目の付け所は確かに当たっていたようである。現在の地形を見ても福智山西麓を占める広く豊かな田園地帯を形成している。

がしかし、それは多くの時間と労力が注ぎ込まれた後であって当時はほんの少しばかり手が付いた状態であったろう。若くして世を去った天皇、日嗣の御子はどんな決断をするのであろうか・・・欠史から読み取る歴史、なかなか興味深い、ホンマに欠史か?・・・。



神武天皇                    孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇
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