2017年6月12日月曜日

倭国の繁栄を示す地名:その参〔048〕

倭国の繁栄を示す地名:その参


開化天皇より始まる姻戚関係の拡大、また御子達の派遣そしてその地の「祖」となる展開、それを示すことによる倭国の拡充発展の記述、無尽蔵に増やすのかと思いきや、決してそうではないことがわかる。倭国の誇大膨張を記すならば意味不明の国名、地名を論えばよいように思うが、決してそうではない。

間違いなく古事記の記述は真摯に当時の国の有様を伝えようとしていると考えるべきであろう。安萬侶くんの戯れに惑わされることなく、その裏に潜む「真実」を読取る努力を怠ってはならない。それが現在の日本、そして明日の日本の姿に繋がる、と信じる。

前記した第十二代景行天皇の記述は、多くを「倭建命」の説話に割く。第十三代成務天皇の娶りは身内からと伝え、坐した志賀之高穴穂宮、「志賀」=「之賀()(福岡県行橋市・京都郡みやこ町)と紐解いたが、正に「欠史」の記述である。

続く第十四代仲哀天皇も坐した穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮、「穴門」=「峠に向かう山の入口に繋がる道」、「訶志比」=「傾(山の斜面)」としてそれぞれの場所を確定することができた。説話は「神功皇后」の活躍で終わるが、征伐という恣意的な解釈を除けば、その意味するところは極めて重要であった。

第十三代、十四代の二人の天皇については略し、「倭建命」、第十五代応神天皇及び第十六代仁徳天皇ついて調べることにする。倭国が発展し栄華に包まれた雰囲気を醸し出す時である。今回:太字。


1.倭建命 
近淡海之安 吉備 山代 讃岐 山代 伊勢
袁 鎌倉 小津 石代 漁田 淡海(之柴野入杵)

2.応神天皇
  丸邇 櫻井田 日向 葛城

3.仁徳天皇
葛城 日向 八田 宇遅 大江 墨江 蝮


「倭建命」の記述が異常に多い。かつ、かなりローカルな地域名のような気がするが、何かを伝えんとするのであろう。山代之玖玖麻毛理比賣との御子、足鏡別王に係る地名から紐解いてみよう。

小津・石代・漁田・鎌倉


「小津」=「尾津」気付く。ならばこれは東奔しての帰途に、命とも言うべき剣を忘れた「尾津の一本松」に関連する。むしろこれは「尾津」の具体的な場所を伝えていると思われる。「小津」が「石代」と「漁田」の「別」となったと記述していると解釈される。

「倭建命」は瀕死の重傷を受けながら尾張国から當藝野に至り、そして「尾津」に向かう。既述のルートを参照願う。「尾張国」現在の北九州市小倉南区貫・長野から出発して「タギタギ」しながら「小()津」に至る。「石代(田と同義)」=「同区石田」、「漁(魚、貝を捕る)田」=「同区蜷(巻貝の総称)田若園」である。

現在の行政区分名は細分されており、一に比定することは難しいが、地形的な特徴は極めて明確である。そして、このことは同区北方辺りまで淡海が侵入し大きな湾を形成していたことを如実に示すものである。縄文海進及び沖積の進行が進んでいないという古代地形に関する報告結果と全く矛盾しない重要な記述であろう。

既に前記の「倭建命」の帰還ルートを修正済である。日本列島の海岸線の地形が古代と大きく異なることを考慮しない地名比定は根本から考え直すべきである。そしてそれから導き出された所謂「・・・説」は改められるべきであろう。

「鎌倉」なんとも聞き慣れた言葉である。それ故か「鎌倉」の比定は、スルー、であるか、そこまで勢力範囲が届いていたことを示す例示であろう、という考えである。飛び跳ねた地は、勢力範囲の例示、万能の解決策である。「鎌倉」=「鎌(抉ったような崖地)倉(谷)」である。

「鎌倉」=「カルスト台地の崖にある岩屋」、「葛城」の地にあったところ、それを葛城とは言わないのは、より大きく、また別のところにあったからであろう。現在の福岡県田川郡夏吉、福智山山塊にある岩屋キャンプ場、第一から第三まである鍾乳洞がある場所の麓を示すと思われる。第二十代安康天皇の石上穴穂宮があったところと思われるが、詳細は後日に記述する。

「鎌倉」の文字が示す意味を的確に捉えているサイトもあったが、カルスト台地との関連、その場所の比定などには至っていない。古事記が描くシナリオのメインステージはカルスト台地という、全く気付かれなかった解釈がなければ到底行き着くことができない結果なのである。

淡海(之柴野入杵)・高木


古事記は「淡海」と「近淡海」を明確に区別する。日本書紀は前後の記述から「近江」とは言えない場合にのみ「淡海」と記述し、他は全て「近江」である。古事記の解釈が「淡海」と「近淡海」を区別されて来なかった、しようとしなかったから、この極めて重要な矛盾をスルーして来たのである。

本ケース、日本書紀はどう処理したか? この文字句に含まれる「入杵*」に係る重要人物を抹消したのである。全てではなくこの人物の存在を無にすることによって「淡海」の意味を包み隠した。そう判断することが古事記、日本書紀の本質を理解する上においての基本である。

実は本ブログでもこの人物の記述をスルーして来た。何故か? 現在地名の比定に重点を置いた記述を進行させているが、地名とは判断し辛い記載であった。崇神天皇紀、尾張連之祖・意富阿麻比賣を娶り、生れた御子、「大入杵命」である。「意富」=「大」であることは重々承知、だが、前後の記述からして、「大」=「出雲」=「肥国」を示している、と解釈するべきであった。

「大入杵命」=「大の入杵命」「出雲国」との関係は深い、というか肉親に近い関係と思われる。当然、素戔嗚命に関係するところであり、彼らの出自と深く関連する。彼らにとっても重要な「国」の一つである。頻度高く出雲の神様にお叱りを受けて右往左往する有様、その説話が挿入されている。

「大」が国名、ならば「入杵」は何を意味するのであろうか? 「出雲国」とした現在の企救半島西側、北九州市門司区大里近辺に関連する地名は見当たらない。「杵」の意味は? 臼、杵以外は「金剛杵(ショ)」という武器を表す等々が見出せるが、地名との関連は見当たらない。

古事記中の「葦原中国」の平定説話に「鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵」[(武田祐吉訳)海草の幹を刈り取って來て燧臼ひうちうすと燧杵ひうちきねを作って]、その場所が「出雲」とある。現在の出雲大社関連の情報を入手すると、なんと「杵」に関する記事が多数あることがわかった。例示すると、出雲大社の旧名「杵築大社」、現在の大社境内には「杵那築の森」そしてお土産の「杵つき餅」等々。

「杵」は「出雲」の神々が葦原中国を平定する時に欠かせなかった道具に関わるものであった。ならば「入杵」=「出雲の神々に必要なもの(道具)」を端的に示していると解釈される。「大入杵命」とは大変重要なネーミングであったと思われる。「淡海」を目くらましにするために、これを日本書紀は省略したのである。

「倭建命」の弟橘比賣命との御子が若建王、その彼が娶ったのが淡海之柴野入杵之女・柴野比賣であるという。「柴野入杵」は人名として扱うのが通常。しかし出雲の神々に仕える身を示す「入杵」とわかれば、その居場所も示すと解釈できる。

「柴野」=「柴(守る、防ぐ)野」即ち出雲大社の裾野に広がる野となる。<追記>現在の関門海峡(淡海)を見下ろす、戸上神社の裾野、北九州市門司区戸ノ上・柳町辺りを指し示すと紐解ける。「出雲」の在処、「入杵」の意味、全てが矛盾なく理解できる結論に達する。危く見逃すところであった、反省である。



「大入杵命」は「能登之臣」の祖となる。企救半島を越えればそこは「能登」である。前記で求めた地(現在の同市門司区伊川辺り)、その西側と繋がった。この地が早くから発展したように感じていたが、その実態が見えた気分である。安萬侶くんは、また、忍ばせていた。

戸上神社の北方に「矢筈山」がある。「矢筈」=「弓矢の尾、弦に合わせる部分」なんとも物騒な…今では北・・鮮が…、悪い冗談ですが、これが北方を向いている。彼らの北側は「熊曾国」そんな気持ちも込められてるかも。その山の南に無名の山がある。麓を城山町、「城()」=「杵()」かも、である。弓矢と金剛杵で守っていたのであろうか・・・。

Wikipedia、いつも世話になっている、貴重な情報源。がしかし、今回は少々驚いた。コメント述べる質ではないが、「キ(称号)」のタイトルで書かれたところ、編集された背景など知る由もないが、関連する「キ」が目白押し。ご興味のある方は参照願いたいが、「杵」「木」「城」など13種の「キ」が称号として挙がっている。この記事が罷り通る世界、悲しい現実に、少々落胆である。

応神天皇紀の「高木」この「木」も称号なのであろうか? 何の称号? 意味不明にするための称号である。五百木入日子命の孫、高木之入日賣命である。これは明らかに地名。「五百木」に関連するなら「伊豫之二名嶋」の「粟国」に聳える「石峰山」を指す。その麓を含め、現在の北九州市若松区藤木にある。

何の矛盾もなく「伊豫之二名嶋」の四つの国が示された。決して手を抜くことなく、判ることは徹底的に省略するが、さらりと書き記した古事記である。

近淡海之安国・八田・櫻井田・登袁


倭建命が娶った相手が「近淡海之安国」の祖・意富多牟和氣之女・布多遲比賣、その御子が「稻依別王」である。「牟」=「麦」であり、子供名前に「稲」が付く。穀物の栽培に適する場所であろう。「近淡海国」は現在の福岡県行橋市の入江を中心としたところと思われる。

また、開化天皇の孫「水穗眞若王」が「近淡海之安直」之祖という記述があった。「安(ヤス)」=「谷州」とすれば、河口付近にある「州=中州」を示している。「水穂」=「水の穂(泡立つ)」と解釈されることより、「安国」は当時の岬近辺、現在の京都郡苅田町上/下片島・岡崎辺りと思われる。

仁徳天皇紀の「八田=谷田」も同じく近淡海国の難波津に近い場所かと思われる。「安国」の北側に「八田山」という地名が残っている。現在の行政区分では同町山口である。「安国」も含めて、近淡海国の中では早くから稲作などの穀物の収穫が豊かなところであったろう<追記>

「稻依別王」に関連する「登(登る)袁(裾が長い)」は情報少ないが、現在の同町谷辺り、背後に青龍窟があるところではなかろうか。<追記:登袁の修正>

こうして比定を行ってみると、確実に衣食住が豊かにするための人材配置のように思われる。国家戦略として当然のことではあるのだが…。

さて、最後の応神天皇紀の「櫻井田」、櫻井田部連之祖嶋垂根之女・糸井比賣について。履中天皇の「伊波禮之若櫻宮」に関連すると思われる。「嶋垂根・糸井」がヒントであろう。この宮の北側に今も多くの池が残っている。現在の福岡県田川郡糸田町原辺り。垂根の植物の栽培に力があった父親の娘を貰った、という記事である。


漸く今回の予定終了である。仁徳天皇紀の大江、墨江、蝮は後日に回そう。

国家領域の拡大膨張とその基盤の整備を娶りと御子の派遣という側面からみた結果纏める予定である。

明らかに景行天皇までの拡大と応神、仁徳天皇のインフラ整備という流れが読み取れる。

それを具体的に示すことが目的である。

最後に本日の地図…

…と、まぁ、こんなところで、ボチボチである・・・。



<追記>


2017.06.17
「八咫烏」=「八田烏」であった。前記「神伊波礼比古」を参照

2017.10.16
登袁の修正。この地の祖となったのは建貝兒王であった。比定場所は「十市縣」として登場していたところとする。詳細はこちらを参照願う

2017.10.18
「八田」の地の「八」は八の字の扇状地となっていることに由来すると判った。八瓜しかり、「八」で表現されている。更に「犬=戌」による象形も登場する。豊かな実りを提供するこの地のイメージ合致した表記であろう。詳細は後日の「犬上君:稲依別王」を参照願う。

2017.11.27
柴野の「柴」の文字解釈を行った。反正天皇の「多治比之柴垣宮」についてのブログはこちら

一部転記すると…、

柴垣宮の「柴」=「雑木の小枝、垣根、塞いで守る」のような意味を示すとある。それはそれで宮を取り囲む垣根として不都合はないように思われるが、これまでに幾たびも遭遇した、一見普通に思える記述は要注意である。何かを意味しているのではなかろうか・・・。

「柴」=「此+木」この字が垣根、塞ぐというような意味を示すのは「此=比」として解釈することに基づくとのことである。「比」=「並ぶ(べる)」である。多治比、多遲比野に含まれる。既に何度も出現した「木」=「山の稜線」とする。辞書に倣って「垣」=「間を隔てる」と解釈すると…


柴垣宮=柴(山の稜線に並ぶ)|垣(間を隔てる)|宮

…と紐解ける。御所ヶ岳山系の麓にあって、燃えて焼失した難波之高津宮と並ぶ位置にある場所を示していると思われる。


更に付け加えると「此」は「妣(亡き母)」に通じる。即ち亡き人と並ぶという意味も含まれることになる。

既述した「柴野入杵」の「柴」も、亡き須佐之男命と並ぶという意味を示すものと解釈される。「塞いで守る」その対象が大切な「亡き人」であった。

…実に巧妙な文字使いと驚嘆する。

「柴野」の現在の地名を戸上神社の門前である門司区大里戸ノ上・柳町辺りしたが、「柴」の対象はこの神社ではなく須佐之男命が祭祀される場所であることになる。それは「出雲之石𥑎之曾宮」である。現在の門司区にある寺内団地となっているところと推定された。

とすれば、「柴野」は現在の門司区大里戸ノ上・寺内辺りと比定される。この小高い丘の裾野に広がるところである。「柴」の意味は難波、出雲の地の詳細を明確に示していたのである。日本書紀の編者等が神経質になるのは当然であったろう。
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入杵*
「入杵」は地形象形しているのであろうか?…状況証拠的には上記のように「杵」と出雲は密接な関係にあることは判るが・・・。「入」=「谷の入口」の地形を表しているとして…、


入杵=入(谷の入口)|杵(杵の地形)

…と紐解くと、そのズバリの山(丘陵)が見出だせる。下図を参照願うが、現在の下関市門司区にある観音山団地、命名からその地は観音山と呼ばれていたところであろう。出雲、即ち大国を示すランドマークして「杵」の文字が使われていたのではなかろうか。(2018.05.15)<詳細はこちらを参照>


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