2017年11月26日日曜日

蝮の反正天皇 〔129〕

蝮の反正天皇


伊邪本和氣命(履中天皇)が「伊波禮」の開拓に力を注いで倭国はその精神的な支柱である畝火山(現在の香春岳)を中心とした国へと名実ともに歩み始めた。その後を継いだのが御子の葛城之曾都毘古の血を引く市邊之忍齒王等ではなく、弟の水齒別命(反正天皇)であったと古事記は告げる。

強大な力を付けて来た葛城一族の御子ならスンナリと行きそうな流れなのだが年齢もそう大きく変わらない弟への譲位は紆余曲折を生じるように感じるところである。後に少し推察してみよう。ともあれ、当然のことながら事績もなくあっさりと記述されるが、これがまた何とも捻くれた表現をしているようである。

些か考えさせられた紐解きを逐次述べてみる…古事記原文…

弟、水齒別命、坐多治比之柴垣宮、治天下也。此天皇、御身之長、九尺二寸半。御齒長一寸廣二分、上下等齊、既如貫珠。天皇、娶丸邇之許碁登臣之女・都怒郎女、生御子、甲斐郎女、次都夫良郎女。二柱。又娶同臣之女・弟比賣、生御子、財王、次多訶辨郎女。幷四王也。天皇之御年、陸拾歲。丁丑年七月崩。御陵在毛受野也。

坐したところは「多治比」仁徳天皇崩御の後に直ぐ下の弟の墨江之中津王に焼き出されて逃げた時立ち止まる場所である「多遲比野」を指すと思われる。実のところ「遲=治」であることを気付かされた記述なのである。「多遲比」=「田が治水されて並んでいる」の解釈に進み、更に「多遲摩国」の理解が納得へと導かれたことを思い出す。

現地名は福岡県京都郡みやこ町勝山大久保辺りで、その西側の勝山松田(茨田)から続く古くからの広大な治水地帯であると紐解いた。「蝮之水齒別命」と記されるが「蝮」=「タジヒ」であり、そもそも住んでいた場所なのである。


柴垣宮

柴垣宮の「柴」=「雑木の小枝、垣根、塞いで守る」のような意味を示すとある。それはそれで宮を取り囲む垣根として不都合はないように思われるが、これまでに幾たびも遭遇した、一見普通に思える記述は要注意である。何かを意味しているのではなかろうか・・・。

「柴」=「此+木」この字が垣根、塞ぐというような意味を示すのは「此=比」として解釈することに基づくとのことである。「比」=「並ぶ(べる)」である。多治比、多遲比野に含まれる。既に何度も出現した「木」=「山の稜線」とする。辞書に倣って「垣」=「間を隔てる」と解釈すると…


柴垣宮=柴(山の稜線に並ぶ)|垣(間を隔てる)|宮

…と紐解ける。御所ヶ岳山系の麓にあって、燃えて焼失した難波之高津宮と並ぶ位置にある場所を示していると思われる。

更に付け加えると「此」は「妣(亡き母)」に通じる。即ち亡き人と並ぶという意味も含まれることになる。既述した「柴野入杵」の「柴」も、亡き須佐之男命と並ぶという意味を示すものと解釈される。「塞いで守る」その対象が大切な「亡き人」であった。


上図中央部右側の住吉池傍のが難波之高津宮、左の図師の上にある、ここが水齒別命の「多治比之柴垣宮」であったと推定される。現地名は京都郡みやこ町勝山大久保図師、は八幡宮と記載される。勝山御所CCにある複数の南北の稜線が「垣」を表している。「難波之高津宮」は履中天皇、反正天皇にとって忘れられない宮であり、その鎮魂の意味を込めている、と思われる。

おそらく宮の周りに柴垣があった、それも的外れの解釈ではないのであろう。異なる意味の潜め方が実に巧妙であると言わざるを得ない。この地多遲比野の中で宮を造るとすれば図師の地が筆頭に浮かんでくる。直観的にも宮に相応しい地形を示す場所である。その地の表現に「柴垣」を用いた。恐るべし、安萬侶くんである。

ここで重要な言葉「波邇賦坂」が紐解けることを気付かされた。「埴生田」に向かう坂と解釈して来たこの名付け、漸くにして納得の解釈となった。稿をあらためて述べることにする。


丸邇之許碁登

丸邇の姉妹を娶る。「丸邇之許碁登」は何処であろうか?…ポイントは「碁」の解釈であろう。碁石でもなく、字源から導かれる「崖下の石」では何ら地形の特徴を示さない。上記と同じく分解してみると「碁」=「其+石」更に「其」=「箕」に通じると解釈すると…、


許碁登=許(もと:下)|碁(箕の地形)|登(登る)

…丸邇にあって「箕(農具:右図参照)の地形の下を登ったところ」と紐解ける。

現在の田川郡香春町柿下の近隣でその場所を探すと、「柿下大坂」の地名が見つかる。大坂山南麓の坂を登った場所である。

地図を参照願うが、稜線の端が「箕」の形をしていることが判る。数少ない地形象形と思われるが、それだけに特徴的な地形を示している。


 
この地は孝昭天皇の御子、天押帶日子命が祖となったと記述にあった「大坂臣」の近隣に当たると思われる。現在も「大坂」「柿下大坂」と別記されるように異なる集落であったようである。兎も角も「許碁登」が「大坂」に繋がり、詳細地図のピースが埋まるとはビックリである。

娶った比賣が「都怒郎女」とその妹、産まれた御子が「甲斐郎女」「都夫良郎女」「財王」「多訶辨郎女」と記載される。地名を直接的に表現しているであろう「甲斐」は既に登場の「甲斐酒折宮」に関連すると思われる。現地名は北九州市門司区恒見の鳶ヶ巣山の西~南麓である。

「都夫良」は後の安寧天皇紀に出現する「都夫良意富美」の居場所と思われる。詳細は省略するが、「都夫良」=「螺羅(ツブラ)」と解釈して、現在の北九州市門司区大字畑にある鹿喰峠近隣と比定した。そう解釈できるとするとここで出現する名前は「高志国」関連地名のように思われる。

「都怒」=「都怒賀(ツノガ)」幾たびか登場した角鹿、都奴賀である。現地名門司区喜多久であり「財」=「江野財」建内宿禰の子、若子宿禰が臣の祖となった地である。同じく喜多久の内陸側と推定される。多訶辨」は不詳であるが「田花弁」と置換えてみると田が入江を塞ぐようにある場所を示しているようである。現地名は「猿喰新田」と呼ばれた門司区猿喰辺りではなかろうか。

かなり遠くの地名が当てられている。反正天皇は五十五歳前後での即位と思われ、即位前の御子達の食い扶持を与えるには距離を障壁にすることができなかったのかもしれない。その一方で、仁徳天皇が開拓した難波津から海路で往来することを思うと全く問題ない場所とも思われる。むしろ、仁徳天皇紀以降のこの交流の容易さを示すために記述されたようにも受け取れる。

履中天皇を引継いで五年後に崩御する。極めて短い「天下」であったと伝える。坐した宮は多治比之柴垣宮であり、「多治比」は元々住んでいたところである。晩年での即位と兼ね合わせて最もらしい選択であったようである。御陵も父、兄に次いで「毛受野」現在の行橋市長尾辺りの草原地帯と思われる。

葛城と丸邇

水齒別命は「丸邇之許碁登」の比賣二人を娶る。葛城系の市邊之忍齒王等の即位が叶わなかった主要因のようにも思われる。「許碁登」は壹比韋(辰砂の産出地)に近く、また現在の地形からではあるが、豊かな茨田(松田)を持つ地域となっていたのではなかろうか。それを背景とした「財力」が起死回生の姻戚回復に向かわさせたと推測される。

古事記はこの争いについては全く語らないが、履中天皇後の皇位継承の「異常」さがそれを如実に物語っているようである。従来より解説されてきたことではあるが、その「実態」らしきものが垣間見えた。本ブログも少しは進化したのであろうか・・・この係争はしばらく尾を引くことになる。後日に述べてみよう。

…全体を通しては「古事記新釈」の履中天皇・反正天皇の項を参照願う。