2017年11月25日土曜日

二羽の飛鳥は何処に?-ver.2 〔128〕

二羽の飛鳥は何処に?-ver.2


「飛鳥」=「アスカ」何故そう読むのか?…から始まった古事記の紐解き、月日を重ねてあらぬ方向に進んで来たが、それが今や納得の方向なのではと思い始めている始末である。そんなわけで「古事記新釈」なんて大それたことに手を付け始め、すると色々と修正・加筆も生じて来る。乗り掛かった舟なので飛び降りることも出来ず、只今鋭意検討中。

取り敢えず、大いに重複するところもあるが、構わず書き連ねてみようかと思う。古事記原文[武田祐吉訳]…

於是、其伊呂弟水齒別命、參赴令謁。爾天皇令詔「吾疑汝命若與墨江中王同心乎、故不相言。」答白「僕者無穢邪心、亦不同墨江中王。」亦令詔「然者今還下而、殺墨江中王而上來、彼時吾必相言。」故卽還下難波、欺所近習墨江中王之隼人・名曾婆加理云「若汝從吾言者、吾爲天皇、汝作大臣、治天下那何。」曾婆訶理答白「隨命。」
爾多祿給其隼人曰「然者殺汝王也。」於是曾婆訶理、竊伺己王入厠、以矛刺而殺也。故率曾婆訶理、上幸於倭之時、到大坂山口、以爲「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身。」是以、詔曾婆訶理「今日留此間而、先給大臣位、明日上幸。」留其山口、卽造假宮、忽爲豐樂、乃於其隼人賜大臣位、百官令拜、隼人歡喜、以爲遂志。
爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。故、參出石上神宮、令奏天皇「政既平訖參上侍之。」爾召入而相語也。
[ここに皇弟ミヅハワケの命が天皇の御許においでになりました。天皇が臣下に言わしめられますに
は、「わたしはあなたがスミノエノナカツ王と同じ心であろうかと思うので、物を言うまい」と仰せられたから、「わたくしは穢い心はございません。スミノエノナカツ王と同じ心でもございません」とお答え申し上げました。また言わしめられますには、「それなら今還って行て、スミノエノナカツ王を殺して上ておいでなさい。その時にはきとお話をしよう」と仰せられました。依て難波に還ておいでになりました。スミノエノナカツ王に近く仕えているソバカリという隼人
を欺いて、「もしお前がわたしの言うことをきいたら、わたしが天皇となり、お前を大臣にして、天下を治めようと思うが、どうだ」と仰せられました。ソバカリは「仰せのとおりに致しましよう」と申しました。依てその隼人に澤山物をやて、「それならお前の王をお殺し申せ」と仰せられました。ここにソバカリは、自分の王が厠にはいておられるのを伺て、 矛で刺し殺しました。それでソバカリを連れて大和にておいでになる時に、大坂の山口においでになてお考えになるには、ソバカリは自分のためには大きな功績があるが、自分の君を殺したのは不義である。しかしその功績に報じないでは信を失うであろう。しかも約束のとおりに行たら、かえてその心が恐しい。依てその功績には報じてもその本人を殺してしまおうとお思いになりました。かくてソバカリに仰せられますには、「今日は此處に留まて、まずお前に大臣の位を賜わて、明日大和に上ることにしよう」と仰せられて、その山口に留まて假宮を造て急に酒宴をして、その隼人に大臣の位を賜わて百官をしてこれを拜ましめたので、隼人が喜んで志成たと思つていました。そこでその隼人に「今日は大臣と共に一つ酒盞の酒を飮もう」と仰せられて、共にお飮みになる時に、顏を隱す大きな椀にその進める酒を盛りました。そこで王子がまずお飮みになて、隼人が後に飮みます。その隼人の飮む時に大きな椀が顏を覆いました。そこで座の下にお置きになた大刀を取り出して、その隼人の首をお斬りなさいました。かようにして明くる日に上ておいでになりました。依つて其處を近つ飛鳥と名づけます。大和に上ておいでにな仰せられますには、「今日は此處に留まて禊祓をして、明日出て神宮に參拜しましよう」と仰せられました。それで其處を遠つ飛鳥と名づけました。かくて石の神宮に參て、天皇に「すべて平定し終て參りました」と奏上致しました。依て召し入れて語られました] 

仁徳天皇崩御の後に起こった騒動である。次男の墨江之中津王が火を放った宮殿から、伊邪本和氣命(後の履中天皇)が部下の阿知直(後に蔵官:大蔵大臣に任命される)の機転で逃げ出すことができて、一息ついた石上神宮で反撃に出ようとしていた時の物語である。

墨江王は計画的、用意周到で万が一逃しても幹線ルートに大勢の味方を配置して取り押さえようとしていたと古事記は伝える。何はともあれ地元の女性が教えてくれた「當岐麻道(分岐が消えかかった道)」の選択が命拾いとなった。

危機一髪を逃れたがさて如何に反撃する…「當藝麻知(弾碁待ち)」に気付いた。あの「之江(蛇行する河)」を整備したばかりではなく港にまでした墨江王の勢力は計り知れない。力を持った次男に味方する多勢に対し我が方は優秀なのもいるが無勢、ここは斬首作戦しかない、と思っているところに三男の水齒別命が現れた。

こやつは大男で歯がでかいのが取り柄の男だがどっちつかずと思われているに違いない。ならば「弾碁」の手当てをさせよう…伊邪本和氣命、暢気な性格ではあるが頭は悪くない・・・そんな背景で上記の説話が始まる。

武田氏の訳の通りに読み下せば何とも凄惨な事件であることを述べている。ギャング映画のよう、と初見で書いたが、読み返しても同じである。「弾碁」は鉄砲玉と言われる役回りそのものである。因みに「弾碁」は中央が山のように盛り上がった碁盤上で片端からもう一歩の端にある碁石を弾き飛ばす遊戯のようである。遊戯は文化、であろうか…。

見事に、いとも簡単に役割を果たした墨江王の幹部、「隼人・曾婆訶理」の事後処理:「曾婆訶理、爲吾雖有大功、既殺己君是不義。然、不賽其功、可謂無信。既行其信、還惶其情。故、雖報其功、滅其正身」…勝手な言い分だが、所詮は裏切り者の運命なのだと述べておられるようである。そんな事件の中に時代を表す言葉が出現する。

二つの飛鳥


我々はこの文字を見ると、「アスカ」と読んでしまうほど慣れ親しんだ、だが、なんで「アスカ」なの?なんて気にもしない。そのまま読めば「飛ぶ鳥=トブトリ」である。「鶏」ではない。


これは、何を示すのか?…「飛ぶ鳥」=「隼:ハヤブサ」と置換えてみる。


「飛鳥」=「隼」=「隼人」=「曾婆加理(ソバカリ)」

となる。これでギャング映画の出来事と地名の繋がりが見えてくる。

近 と 遠

「飛鳥」=「曾婆訶理」だから…、

近・飛鳥=近・曾婆訶理(曾婆訶理を近づける)
遠・飛鳥=遠・曾婆訶理(曾婆訶理を遠ざける)


「雖報其功、滅其正身」は…

近づけて報い、滅して遠ざける

…と告げてる。「滅正身」は「祓禊:祓って禊ぐ」で完了する。

こう見ると、出来事そのものを名付けており、生々しさしか残らない。先人達の知恵の出しどころ、その読みを変えてしまった。

飛鳥=アスカ

再度、関連する原文は…爾詔其隼人「今日、與大臣飮同盞酒。」共飮之時、隱面大鋺、盛其進酒。於是王子先飮、隼人後飮。故其隼人飮時、大鋺覆面、爾取出置席下之劒、斬其隼人之頸、乃明日上幸。故、號其地謂近飛鳥也。上到于倭詔之「今日留此間、爲祓禊而、明日參出、將拜神宮。」故、號其地謂遠飛鳥也。

どうやら王子が「明日、明日」と地名を付ける前に宣っておられることに目を付けたようである。

明日の場所=明日処(アスカ)
「処」は場所を示す接尾辞(ex.すみか)

近飛鳥⇒アスカソバカリチカづけるソバカリ省略
アスカチカづける⇒チカアスカ

遠飛鳥⇒アスカソバカリトオざけるソバカリ省略
アスカトオざける⇒トオアスカ

先人達の素晴らしい知恵で、その生々しくておどろおどろしい内容を…


飛鳥=明日処(アスカ)(明るい日の場所)



に変えた。その現在の地名は…、

近飛鳥:京都郡みやこ町犀川大坂字大坂
遠飛鳥:田川郡香春町香春(の香春一ノ岳東南麓)

…と推定される。下図を参照願う。破線は水齒別命(曾婆訶理は一部)が通ったと推定されるルートを示す。


近飛鳥・遠飛鳥は決して広い範囲を示すのではなく、限られた場所であることが判ってきた。宮(若しくは神社)の中心とした地域の広さと思われる。垂仁天皇紀の大中津日子命が祖となった飛鳥君として登場している。後に名付けられた遠飛鳥に由来すると解釈した。

倭国における神、石上(イソノカミ=五十神=多くの神)が宿る場所として、そして「伊波禮」はその傍らにあって、人々が住む国の中心として位置付けられていると思われる。神が実在するという観念に基づく古代の国の有様を伝えているようである。

地図(国土地理院)を眺めてると、香春一ノ岳の南西麓で金辺川と合流する御祓川(ミソギガワ)なんていう川が香春町を流れている。その謂れなど全く不明だが、「御」がついてるから高貴な方が禊されたか?…後世の出来事に由来するのかもしれないが・・・。

この川は嘗ては「犀川(現在名今川、何故変えた?)」の支流の大河であったとも言われる。大倭豊秋津嶋を「島」と見做すことと密接に関連する。断片的な情報が古事記の中で集約されて記述されているように感じる。ただ、読取れなかっただけなのである。

犀川(古事記では狹井河、佐韋河)は英彦山麓を源流に持ち平成筑豊田川線(平成筑豊鉄道)の傍を走り、行橋市市役所の脇を通って周防灘に注ぐ。昭和の時代、ゴールドならぬコールラッシュを見てきたのであろう。万葉歌にも登場する。豊かな自然の恵みに加え、時には穏やかに時には荒々しく、その姿に詠む人が己の姿を映し出したことであろう。

最後になるが、石上神宮について…既に記述したごとく、現在の香春一、二、三ノ岳にあった神社を現在の香春神社に祭祀したと言われる。その由来は奈良大和の石上神宮よりも歴史が古い。正一位となるのが九世紀半ばである。これを一地方の戯言という歴史認識を保守する、その図太さに呆れるのである。

我が町でもセミナーなどで古事記が語られているようである。「古事記は物語、日本書紀は史書」だから気楽に楽しく読み下そう、なんていうものが開催されているとか。次田潤氏の古典的「古事記新講」にどれだけの不詳事項があるのか、それを自ら解読されているならまだしも、そうでないなら無神経で図太いだけの教授となる。「弾碁」でも…いえいえ、暇が取り柄の老いぼれのは正真正銘の碁石であるが・・・。

超高齢化社会に向けて、一つの解決策として移民の受入れがあるが、その体制が整ってないという論議がなされている。古事記の時代、多くの渡来人達がやって来て、それを受け入れて来た時代である。時を経ての様変わり、更にはその時代と国が成熟し切った現在との対比に歴史というものの非情さを感じる。このまま立ち枯れて行くのか、はたまた弁証法的飛躍が発生するのか、歴史は非情な眼で見ているのであろう

…全体を通しては「古事記新釈」の履中天皇・反正天皇の項を参照願う。