2017年6月18日日曜日

垂仁天皇:御子達の活躍-その壱-〔051〕

垂仁天皇:御子達の活躍-その壱-

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
沙本毘賣の悲しい物語に感動したものの建国時の乗り越えなければならない課題への対応が記述されていたとわかった。有能な人材、優れた技術、また豊富な資源を手に入れることは不可欠であると同時に、自らがそれに取り込まれてしまうという危険性も含んでいる。

沙本毘賣に紹介された「旦波国」からの娶りに入る前に少々時間を頂いて…

神倭伊波礼比古(神武天皇)の東行に際して初戦敗退し、五瀬命が負傷、その遺言が「日を背にして戦え」であった。「日(邇藝速日命)」に向かうなら「日(太陽)」の助けなくしては勝てない、大きな戦略転換を行った。だが悪戦苦闘は続き、高木神の助けも借りねばならなかった。

後日にわかったことだが、どうやら、高木神は「八田山」そこの住人、熊の毛皮を纏い、熊野山中の道なき道を案内できる人物を道先案内人に雇ったようである。勿論、喋れます。吉野や宇陀の住人とも顔見知りだったかもしれない。言われる通りに後を追い吉野川の川尻に辿り着いた。

後世に某安萬侶氏がその住人を「八咫烏」と名付けたらしい、現住所は福岡県京都郡苅田町山口辺りの住人である。世界に羽ばたく日本サッカー協会シンボルマークになってるなんて…足が三本、じゃあ、人違いかな? 高木神は顔が広い、なんたって造化三神の一人だから・・・。

さて、何事も言われる通りにするのが好結果を生むそうで、垂仁天皇、早々に丹波の比売を娶ったのである。

1.    旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命、生御子、印色之入日子命、次大帶日子淤斯呂和氣命、次大中津日子命、次倭比賣命、次若木入日子命。五柱。

2.    其氷羽州比賣命之弟・沼羽田之入毘賣命、生御子、沼帶別命、次伊賀帶日子命。二柱。

3.    其沼羽田之入日賣命之弟・阿邪美能伊理毘賣命、生御子、伊許婆夜和氣命、次阿邪美都比賣命。二柱。

4.    大筒木垂根王之女・迦具夜比賣命、生御子、袁邪辨王。一柱。

5.    山代大國之淵之女・苅羽田刀辨、生御子、落別王、次五十日帶日子王、次伊登志別王。(三柱)

6.    其大國之淵之女・弟苅羽田刀辨、生御子、石衝別王、次石衝毘賣命・亦名布多遲能伊理毘賣命。二柱。
凡此天皇之御子等、十六王。男王十三、女王三(沙本毘賣の御子、一柱を含む)

丹波に加えて「山代国」の比売も三名娶ったとのこと。

氷羽州比賣命、沼羽田之入毘賣命、阿邪美能伊理毘賣命の三姉妹、前記で、彼女たちの旦波国にある在所を、珍しく、突止められて書き込んでしまった姉妹達、その御子達の働きに注目する。その前に父親の出自を簡単に記すと…

旦波比古多多須美知宇斯王は、あの日子坐王と近淡海国の天之御影神の娘の息長水依比売の御子である。先代の崇神天皇に旦波国に遣わされ、玖賀耳之御笠なる人物を亡き者にした経緯がある。息子に旦波国を治めさせていた様子である。大志を抱く丸邇の意祁都比賣命を母親に持つ日子坐王の血を引く旦波の王である。

この旦波国の三姉妹は次期の景行天皇を含め計七人の王子を産んでいる。中でも氷羽州比賣命の御子である景行天皇の弟、大中津日子命の活躍は目を見張るものがある。これを中心に紐解いてみよう。建国草創期に「言向」だけで領地の拡大をすることができたケースと思われる。古事記原文のまま…

大中津日子命者、山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也。

祖となる別(又は君)の記述がない御子に比べれば断トツの多さである。また、どうやら地域的に見ても多彩のようでもあるが、信じて良いものか…。

「中津」が示す地名は何処であろうか? 九州東北部に限っても多くある地名、だが、旦波国の中にある、正確には地名ではなく、それとなく残っている場所であろう。現在の福岡県行橋市稲童にある石堂池近隣、母親の氷羽州比賣命の在所(氷羽州)としたところに「仲津小学校、中学校」がある。この場所こそ「旦波国」の中心、宮のあったところであろう。

そこに生を受けた彼は兄の天皇の庇護のもと思い切り羽ばたいたのである。既述された順番に別()の場所を当て嵌めてみよう。

山邊


何の修飾もなくいきなり地名となる一般的な文字、読む者にとって判り切ってるから記さない、常套手段である。「師木」から見ての「山辺」であろう。近接するところは一である。大坂山山塊の西麓、香春町役場総合運動公園などがある場所、現在の田川郡香春町高野・中津原である。「中津」が残っている。現在の地名が示す領域とは異っていると思われるが…。

三枝


「中津」が残っている、と気を良くして…危険な作業であるが…すると現地名に福岡県京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝というところがある。生立八幡神社辺りで犀川に合流する喜多良川の川上である。当時は大字の喜多良、もう少し川下の大熊も含めての領域だったかもしれない。今回の各地名との兼合いを見て判断しよう。

稻木


そのままの意味は刈取った稲を掛ける木組みの名称である。残念ながら残存地名は見当たらない。「木」=「城」として、沙本毘古王が立て籠もった稲で作った城のあった場所とも考えられるが、「沙本」では「春日」に含まれてしまう。残った手は「中津」の地名…ありました。現地名は田川郡添田町中元寺(中津)である。

かなり飛んだところになったが、山間に広がり、中元寺川の利水が容易な場所と思われる。「中」が付くのもあながち由来の一つかもしれない。これも地名だけであり、全体の兼合いから判断しよう。

阿太


阿太の「阿」=「阿()」=「赤」村と解釈し、「太」を探す。現地名は田川郡赤村赤(大原)、近隣は大伊良、岡本、「オ」が付く地名が並んでいる。彦山川支流の十津川…どこかで聞いたような川の名前…の傍にある。山間の開けたところでもある。この地名はかなりの確度であろうが、最後の見直しは欠かせない。

尾張國之三野


「三野国」と区別して記述していると考えるが、最も探し辛いところである。「三野」=「蓑」と置換えると、現地名の北九州市小倉南区隠蓑が該当するかも、である。この地名の由来は戦いに敗れた平家の安徳天皇が蓑に隠れたところとのことであるが、元々「三野」と言われた処かもしれない。

吉備之石


「石无」=「石梨」であろう。石が役立つところ、「石の町」である。容易に見つけることができる。現地名は山口県下関市大字永田郷(石王田・石原)である。どんな処? 近くの遺跡から縄文時代のガラスが出土したとか…。吉見、永田郷の考古学的探査、必至かな? 歴史学、考古学分野に携わる若者達へ、これらの場所は「宝」の山ですよ、吉備…違った…吉見…違った…君が立ち上がらねば!

許呂母


「許呂母」=「衣」あろう。と、すると「三川之衣」は? 足立山の「襟巻」ではないということか…。「衣」の語源は「襟」の象形である。切立つ山の麓を「襟」に象形した、見事な表現である。それはそれとして、三川のではないとなると、やはり師木の近く、である。

香春一ノ岳の南西側から見た「襟」、金辺川と五徳川に挟まれた三角州を指す。現地名は田川郡香春町香春長畑・中組である。いやぁ、それにしても多彩な統治領域、獅子奮迅のお働きである。

高巢鹿


一見、難しそうな文字列であるが、なんともトンデモない場所であった。「鷹()巣山」高住神社、鷹巣高原そして英彦山に連なる。「鹿」=「峻険な山岳地」である。もうこれは国境、現在は県境、である。正に「言向」の世界であった。大中津日子命の後裔が知りたいところである。

飛鳥()


これのみ「君」である。飛鳥は香春一ノ岳周辺で、その領域の確定は難しいが、上述の「許呂母」からすると、現在の香春神社辺りを示すものと解釈される。地名は田川郡香春町前村・下山辺りであろう。最も古く正一位を授かったこの香春神社、倭の歴史を目の当たりしてきた神が宿る場所である。

牟禮


最後の「牟禮」はなんとも牧歌的な雰囲気、「牛の鳴き声が時を知らせる」ちょっと飛躍があるかも…。田川郡赤村にある「犢牛岳(コットイタケ)」の近くであろう。子牛の山、その鳴き声響く山並みの村、現在の田川郡添田町津野迫田辺りではなかろうか。

図を参照願いたいが、なんとも出来上がった図が示すものは香春一ノ岳、畝火山を中心として、北限の吉備(更にその北限)と南限の高巣鹿に跨る南北ラインを統治したことを表しているものと思われる。

師木に都を敷いた崇神天皇の次期天皇である垂仁天皇は、旦波国出身の大中津日子命に都近隣の土地を抑えると共に南限北限を見極めさせたのであろう。

これから拡大膨張する国の将来に向けて、その地の情報、衣食住及び戦闘に不可欠な人材と資源の確保に動いた、と思われる。

草創期に打つ手として重要なことに最善を尽くした、というべきであろう。どうやら上記で仮置いた地名は的を外していなかったようである。

先に進めば、倭建命の登場となるが、「言向」で統治へと進められた地域以外の場所の「和平」であった。既にそれらしき記述をしてきたが、これらの「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。重要な戦略である。この見方からまた後日あらためて考えてみたい。

本日はここまで…前記で「無口な御子」の理由、言葉を濁したが…旦波国の「淨公民」に含まれる意味、更に勘ぐれば、「沙」=「辰砂」に侵されていない、ともとれる。この極めて有益な、だが極めて有害なものをつい最近、いや現在もその後遺症の悩みが続く。放射性物質の「益だが害の矛盾」をいつまで引き摺るか、答えを持ち合わせてないが・・・。

最後にもう一つ…日本書紀には「大中津日子」に該当する重要人物名は「大中姫命」のようである。「中津」は抹消された。しかも女性らしき命名である。日本書紀から古事記のような「史書」に還元するのが楽しみである。

…と、まぁ、中締めて・・・。

詳細地名はこちらで…



古事記新釈の垂仁天皇紀を参照願う。