大中津日子命が祖となった地
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)が旦波比古多多須美知宇斯王之女・氷羽州比賣命を娶って誕生したのが三男の大中津日子命であった。長男が印色之入日子命で次男が大帶日子淤斯呂和氣命(後の景行天皇)という錚々たる顔ぶれの中にいた命である。それだけに活躍も極めて広範囲に行き渡り、初期に登場した天津日子根命に匹敵するように見受けられる。説話が記載されることはなく、建国草創期に「言向」だけで領地の拡大をすることができたケースと推測される。祖となる記述…「山邊之別、三枝之別、稻木之別、阿太之別、尾張國之三野別、吉備之石无別、許呂母之別、高巢鹿之別、飛鳥君、牟禮之別等祖也」
既に(垂仁天皇:御子達の活躍-その壱-)として紐解いたが、多くの修正と加筆を余儀なくされる状況となった。とりわけ前記(飛鳥と鳥髪)で読み解いた「飛鳥」は上記の「飛鳥君」と関連し、また「遠飛鳥・近飛鳥」の場所とも深い繋がりがあることも示唆された。
大中津日子命の名前の謂れなどは前記を参照願うとして…現在の福岡県行橋市稲童にある石堂池近隣、「仲津小学校、中学校」…「旦波国」の中心…として祖となった地をあらためて紐解いてみようかと思う。少々前記と被るところもあるが、書き直して記す。既述された順番に別(君)の場所を当て嵌めてみよう。
山邊之別
<許呂母・飛鳥・山邊> |
「師木」から見ての「山辺」であろう。近接するところは一である。大坂山山塊の西麓、御祓川の北岸の場所と推定される。現地名は田川郡香春町中津原である。
「中津」が残っている。現在の地名が示す領域とは異っていると思われるが…。近隣と思われる「許呂母」「飛鳥」も併せて示した。
三枝之別
<三枝之別> |
現地名、京都郡みやこ町犀川喜多良三ツ枝である。生立八幡神社辺りで犀川に合流する喜多良川の川上である。
当時は大字の喜多良、もう少し川下の大熊も含めての領域だったかもしれない。
現地名との類似性からの判断だけでは何とも心もとない、図に示したように三本の稜線が集まったところを意味しているのではなかろうかと推測した。
安萬侶コード「木(山稜)」を用いて「枝」=「木(山稜)+支」と分解すると…、
枝=山稜が分かれた
…ところとなる。集まる感じではない。更に詳細に地図を眺めると、稜線の端が三つに分かれていることが見出だせ、この特徴的な地形を象形した表現と思われる。
<三枝> |
大坂山南麓のルートは急坂の連続であり、馬による移動でなければかなりの労力を必要としたのではなかろうか。
修験道については古事記は語らないが、英彦山登山道への追分(分岐点)でもあったと推測される。当時は重要な交通要所であったのではなかろうか。
尚、師木へのルートとして要所であったかと思われる「阿太」の場所を示した。詳細は下記に述べる。以前にも書いたが、天津日子根命と大中津日子命との名前の類似性が興味深い。何らかの繋がりが…と思いつつも、不詳である。
稻木之別
<稻木之別> |
一般名称で名付ける筈はないので、地形象形していると推測される。
関連する記述では同じ垂仁紀の説話に沙本毘古王が立て籠もった「稻城」がある。
「城(キ)」=「木(キ)」とすれば、この城を指し示すか、などと思い巡らすことになるが・・・安萬侶コード「木(山稜)」であろう。
稻木=稲のような山稜
…「稲穂が実った形の山稜」と紐解ける。果たしてそんな地形があるのか?…どうやらそれらしきところが図に示したところと推定される。住まったのは穂先に当たる現地名田川郡赤村赤の道目木・常光辺りと思われる。
阿太之別
<阿太之別> |
彦山川支流の十津川…どこかで聞いたような川の名前…の傍にある。山間の開けたところでもある。
阿太=阿(台地)|太(周りが大きい)
現在は広々とした水田になっているようであるが、古くから開けたところであったろう。
山麓に近づくと棚田になり、それも含めると圧倒される広さを誇っていることが伺える。
当然ながら現在の様相とは大きく異なっていたとは思われるが、原形を留めているのではなかろうか。三枝への行き来をする上において山口となる地点であったと推測される。人々の交流と共に豊かな土地であっただろう。
尾張國之三野別
<三野之別> |
「三野」=「蓑」としたわけだが、この地名の由来は戦いに敗れた平家の安徳天皇が蓑に隠れたところとのことである。
それはそれとして地形象形の「三野(箕)」はないのであろうか?…あらためて地図を詳細に調べて見ることにした。
すると通常の地図では判別しかねるが、国土地理院アナグリフ図で見ると明瞭な「箕」が見出だせる。当時はより鮮明な凹凸を示していたかと推測されるが、山稜の端の端にあるところ、現地名は北九州市小倉南区横代南町である。この地は幾度か古事記に登場する。関連するところを修正する。
吉備之石无別
<吉備之石无別> |
山の石が役立つ
…と紐解ける。「石の町」とわかる表記であろう。
「吉備」は既に幾度も登場しているが、現地名は山口県下関市吉見、その近隣の大字永田郷(石王田・石原)を示していると推定される。
「吉備」の場所は仁徳天皇紀の説話から求められる。神倭伊波禮毘古命もその地に何年か滞在するのであるが、場所の特定に至る記述ではない。仁徳天皇が后の嫉妬をものともせず黒比賣を追って向かう説話は真に貴重である。結果的に伊邪那岐・伊邪那美の国生み「吉備兒嶋」の場所も確定的に導き出すことになる。
どんな処?…近くの遺跡から縄文時代のガラスが出土したとか…。
余談だが・・・吉見、永田郷の考古学的探査、必至かな?…歴史学、考古学分野に携わる若者達へ、これらの場所は「宝」の山ですよ、吉備?…吉見?…君が立ち上がらねば!・・・日の本学び舎の米足部が露呈する現在の日本の忖度社会構造に屈してはならない!!
許呂母之別
「許呂母」=「衣」であろう。と、すると「三川之衣」か?…足立山の「襟巻」ではない。「衣」の語源は「襟」の象形である。切立つ山の麓にあって、裾野を流れる川が作るV字の地を「襟」に象形した、見事な表現である。それはそれとして、三川のではないとなると、やはり師木の近く、である。
香春一ノ岳の南西側から見た「襟」、金辺川と五徳川に挟まれた三角州を指す。現地名は田川郡香春町香春長畑・中組である。いやぁ、それにしても多彩な統治領域、獅子奮迅のお働きである。彼の後裔が?…その記述は見当たらない。上図<許呂母・飛鳥・山邊>を参照願う。
「許呂母」を紐解いてみよう…、
…「積み重なった大地の麓を両腕(二本の川)で抱える地形」と読み解ける。「衣=襟」の地形象形と思われる。凄まじいくらいの当て字の活用であろうか・・・。孝霊天皇の御子「夜麻登登母母曾毘賣命」に含まれる「母」の解釈に類似する。
「許呂母」を紐解いてみよう…、
許(下:麓)|呂(積み重なった大地)|母(両腕で抱える姿)
…「積み重なった大地の麓を両腕(二本の川)で抱える地形」と読み解ける。「衣=襟」の地形象形と思われる。凄まじいくらいの当て字の活用であろうか・・・。孝霊天皇の御子「夜麻登登母母曾毘賣命」に含まれる「母」の解釈に類似する。
<高巢鹿・牟禮> |
「鹿」=「麓」である。もうこれは国境、現在は県境、である。現在の鷹巣山の北方に山口がある。その辺りが「別」と見做されていたのではなかろうか。
後の世になるが、「お菊」の伝説があると言う。この地は「毛の国」に向かう重要な交通拠点としての役割を果たしていたのであろう。
図<高巢鹿・牟禮>に鷹ノ巣山及び英彦山の位置を載せた。今に残る修験道の聖地である。「高巣鹿」は盛んに人々が往来したところであったと思われる。
「高巣」=「高いところの住処」と解釈することができる。修験者が住んでいたことに繋がる表現である。高住神社の「高住」はそのまま残存した地名と推察される。
飛鳥君
これは前記(飛鳥と鳥髪)で詳述したので割愛するが、香春一ノ岳の南麓と推定した。上図<許呂母・飛鳥・山邊>を参照願う。
仁徳天皇紀の「遠飛鳥・近飛鳥」の説話と深く関連し、「遠つ飛鳥(隼人曾婆訶理)」の姿を重ね合わせた見事な記述である。古事記は「万葉」の世界にある、いや、きっと表裏の間柄なのであろう。
仁徳天皇紀の「遠飛鳥・近飛鳥」の説話と深く関連し、「遠つ飛鳥(隼人曾婆訶理)」の姿を重ね合わせた見事な記述である。古事記は「万葉」の世界にある、いや、きっと表裏の間柄なのであろう。
牟禮之別
最後の「牟禮」はなんとも牧歌的な雰囲気、「牛の鳴き声が時を知らせる」ちょっと飛躍があるかも…。田川郡赤村にある「犢牛岳(コットイタケ)」の近くであろう…初見での解釈であるが、牛との繋がりは到底見出すことはできないようである。また古代朝鮮語では「山」の意味とか、山を「別」にすることはできそうにない、であろう。
やはり「伊波禮」「比布禮」などと類似すると見做すのが適切と思われる。「禮」=「山(神)裾の高台」と解釈すると…、
…「大きな(山[神]を祭祀する)高台」と紐解く。祭祀の山(=神)は現在の英彦山として田川郡添田町英彦山の場所と推定する。英彦山神宮など祭祀の場所として現在も山裾に広がる集落が見られるところである。
英彦山はかつては「日子山」と名付けられていたとのことである。「日子」は多く古事記に登場するが、大中津日子命に由来するかも…主祭神である天忍穂命に「日子(稲)」はまだ付かず、その子邇邇藝命になってからである。邇藝速日命も邇邇藝命も天忍穂命の御子、神として祭祀するのは父親かもしれないが・・・「牟禮」の詳細な場所は上図<高巢鹿・牟禮>を参照願う。
やはり「伊波禮」「比布禮」などと類似すると見做すのが適切と思われる。「禮」=「山(神)裾の高台」と解釈すると…、
牟(大きな)|禮(山裾の高台)
英彦山はかつては「日子山」と名付けられていたとのことである。「日子」は多く古事記に登場するが、大中津日子命に由来するかも…主祭神である天忍穂命に「日子(稲)」はまだ付かず、その子邇邇藝命になってからである。邇藝速日命も邇邇藝命も天忍穂命の御子、神として祭祀するのは父親かもしれないが・・・「牟禮」の詳細な場所は上図<高巢鹿・牟禮>を参照願う。
師木に都を敷いた崇神天皇の次期天皇である垂仁天皇は、旦波国出身の大中津日子命に都近隣の土地を抑えさせると共に南限北限を見極めさせたのであろう。
これから拡大膨張する国の将来に向けて、その地の情報、衣食住及び戦闘に不可欠な人材と資源の確保に動いた、と思われる。草創期に打つ手として重要なことに最善を尽くした、というべきであろう。
先に進めば、倭建命の登場となるが、彼が行ったのは「言向」だけで統治へと進められなかった場所の「和平」であった。
大中津日子命などの先達の「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。大中津日子命が祖となった地は当時の交通の要所であったことが、この推察を示唆するものと思われる。当然と言えばそうだが、紐解くと実感として受け入れられる記述である。いずれにしても垂仁天皇は賢帝としての雰囲気を十二分に醸し出している様子である。
大中津日子命などの先達の「言向」地を兵站として軍を進めた、ということであろう。大中津日子命が祖となった地は当時の交通の要所であったことが、この推察を示唆するものと思われる。当然と言えばそうだが、紐解くと実感として受け入れられる記述である。いずれにしても垂仁天皇は賢帝としての雰囲気を十二分に醸し出している様子である。