神倭伊波禮毘古命の東行:その伍
神倭伊波禮毘古命にお付き合いしての旅、なんとか目的地に至ることができた。こんな旅は誰もしたことがないようで、良い経験になったと思う反面、まだまだ途中の寄り道したところの情報が少なく、しっくり来ない感じもする。それはそれでだが、本日は些か気になったところを今思い付くままに記してみよう。
大伴連等之祖と久米直等之祖
古事記らしく唐突に現れる、この二人の命。それぞれの祖は、既に邇邇芸命の降臨時に先導役で出現し、天忍日命(大伴連の遠祖)と天津久米命の2人が太刀・弓矢などを持って天孫降臨に供奉した、という記述がある。正に邇邇芸命一派勢揃いの表記なのである。どちらが上か?という議論があるようだが、暇が取り柄の老いぼれにはあまり興味がないところ。
久米氏はこの一派中にあって戦闘武装集団としての位置にあり、戦いがあれば久米歌、久米舞が披露される。命懸けの仕事にとっては重要な意味を持つのであろうが、読んでる方は、臨場感に欠けるせいか、伝わって来ない感じでもある。
今回も宇陀で兄宇迦斯と弟宇迦斯と戦った際に歌われたところ。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。[宇陀の高臺でシギの網を張る。わたしが待っているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻が食物を乞うたらソバノキの實のように少しばかりを削ってやれ。 新しい妻が食物を乞うたらイチサカキの實のように澤山に削ってやれ。ええやっつけるぞ。ああよい氣味だ]
久米氏はこの一派中にあって戦闘武装集団としての位置にあり、戦いがあれば久米歌、久米舞が披露される。命懸けの仕事にとっては重要な意味を持つのであろうが、読んでる方は、臨場感に欠けるせいか、伝わって来ない感じでもある。
今回も宇陀で兄宇迦斯と弟宇迦斯と戦った際に歌われたところ。古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
宇陀能 多加紀爾 志藝和那波留 和賀麻都夜 志藝波佐夜良受 伊須久波斯 久治良佐夜流 古那美賀 那許波佐婆 多知曾婆能 微能那祁久袁 許紀志斐惠泥 宇波那理賀 那許婆佐婆 伊知佐加紀 微能意富祁久袁 許紀陀斐惠泥 疊疊音引志夜胡志夜 此者伊能碁布曾。此五字以音。阿阿音引志夜胡志夜 此者嘲咲者也。[宇陀の高臺でシギの網を張る。わたしが待っているシギは懸からないで 思いも寄らないタカが懸かつた。 古妻が食物を乞うたらソバノキの實のように少しばかりを削ってやれ。 新しい妻が食物を乞うたらイチサカキの實のように澤山に削ってやれ。ええやっつけるぞ。ああよい氣味だ]
「久治良」の解釈、武田氏は「タカ」とする。これは日本書紀の仁徳天皇紀に百済では鷹のことを「クチ」という説話によるものと思われる。「良」は接尾語、強いて訳せば、「らしきもの、類(たぐい)」ということであろうか。この言葉を歌い、その場にいる大勢の武士達と共有できた、ということである。
それとなく忍ばせる安萬侶くん、兵士は百済出身者が大勢を占めている、のである。神武東征は、朝鮮半島南西部出身の者達による作業であった。誇張されているが、外れてはいないと思われる。阿岐國で採用した部下達、間違いなく朝鮮半島から流れてきた者達の集まりであった。神武はそれを活用したと述べている。
彼らから見れば、土着の人々は「生尾人」であり「生尾土雲」であったろう。獣の皮を被る人々と表現している。その彼らを従えたのである。「獣の皮」これに関連したことを後に述べる。
当然のことながら歌である以上「鯨」と解釈してもよい。酒の場で、なんだそれ、鯨?、山にそんなものいるかよぉ~、なんてことでも良いのである。そんな解釈を重々承知で用いた「久治良」であろう、いや、恣意的にそうしている。
それとなく忍ばせる安萬侶くん、兵士は百済出身者が大勢を占めている、のである。神武東征は、朝鮮半島南西部出身の者達による作業であった。誇張されているが、外れてはいないと思われる。阿岐國で採用した部下達、間違いなく朝鮮半島から流れてきた者達の集まりであった。神武はそれを活用したと述べている。
彼らから見れば、土着の人々は「生尾人」であり「生尾土雲」であったろう。獣の皮を被る人々と表現している。その彼らを従えたのである。「獣の皮」これに関連したことを後に述べる。
当然のことながら歌である以上「鯨」と解釈してもよい。酒の場で、なんだそれ、鯨?、山にそんなものいるかよぉ~、なんてことでも良いのである。そんな解釈を重々承知で用いた「久治良」であろう、いや、恣意的にそうしている。
海辺の何処で詠われた歌を挿入したとか、「ウダ」は「ウナ」の間違い表記だとか(同じく海辺説、日本書紀に拠る)、諸説あるようだが、安萬侶くんの真意は伝わらない。古田氏も海辺で詠われた説だったとのこと。魏志倭人伝無謬説、古事記もそうであって欲しく思わなかったのであろうか・・・。
さて、神倭伊波禮毘古命は畝火之白檮原宮に坐されて「天皇」になられた様子である。古事記は語らないが、その経緯など知りたいところではある。安萬侶くんのこと、そっと忍ばせているかも、である。
思い出したことが一つ、「吉野河之河尻」である。本ブログでは、熊野の神様に祟られ、高木爺のサポートで何とか切り抜けて下山し、何の支障もなく「河尻」に到着としたところ。下山したところが「河尻」だったのだが、通説が困り果てる場所であった。紀伊半島を使ったルートでは「河上」である。
思い出したことが一つ、「吉野河之河尻」である。本ブログでは、熊野の神様に祟られ、高木爺のサポートで何とか切り抜けて下山し、何の支障もなく「河尻」に到着としたところ。下山したところが「河尻」だったのだが、通説が困り果てる場所であった。紀伊半島を使ったルートでは「河上」である。
そもそも吉野川の川尻は紀ノ川である。それを川尻という、などトンデモ説が飛び出ることとなる。そうしてもルートから外れることになる。これを地名、いや、致命的という。大和への神武東征はなかった、正しい説と言える。さてさて、天皇になられてからの説話に移る。
夜麻登の高佐士野
天皇が畝火之白檮原宮に坐されてからの嫁探しである。
於是七媛女、遊行於高佐士野佐士二字以音、伊須氣余理比賣在其中。爾大久米命、見其伊須氣余理比賣而、以歌白於天皇曰、[ある時七人の孃子が大和のタカサジ野で遊んでいる時に、このイスケヨリ姫も混っていました。そこでオホクメの命が、そのイスケヨリ姫を見て、歌で天皇に申し上げるには]
夜麻登能 多加佐士怒袁 那那由久 袁登賣杼母 多禮袁志摩加牟[大和の國のタカサジ野を七人行く孃子たち、その中の誰をお召しになります]
爾伊須氣余理比賣者、立其媛女等之前。乃天皇見其媛女等而、御心知伊須氣余理比賣立於最前、以歌答曰、[このイスケヨリ姫は、その時に孃子たちの前に立っておりました。天皇はその孃子たちを御覽になって、御心にイスケヨリ姫が一番前に立っていることを知られて、お歌でお答えになりますには]
加都賀都母 伊夜佐岐陀弖流 延袁斯麻加牟[まあまあ一番先に立っている娘を妻にしましようよ]
「高佐士野」歌中では「多加佐士怒」である。「佐士」=「佐(タスクル)士(天子)」と解釈する。「高佐士野」=「高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」であろう。宮殿は畝火之白檮原宮である。その傍らにあったところを示している。
「夜麻登」これが「大和(ヤマト)」の語源と言われるものであろう。1300年間多くの人々を煩わせてきた、中国史書も含めて、ものの正体である。何の雑念もなく読み下せば、「夜麻登能」=「山登りの」となる。
「夜麻登能 多加佐士怒」=「山登りの高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と解釈される。現在に残る「田川郡香春町高野」これこそが「畝火之白檮原宮」があったところである。あまりにも明白な結果であろう。だからこそ「夜麻登」=「大和」という「国譲り」を行い、焦点を暈したのである。
「佐士二字以音」と註記される。地形象形と推定すると下記の紐解きとなった。
匙の先っぽの平たくなったところが「高佐士野」と思われる。(2018.03.28)
「夜麻登」これが「大和(ヤマト)」の語源と言われるものであろう。1300年間多くの人々を煩わせてきた、中国史書も含めて、ものの正体である。何の雑念もなく読み下せば、「夜麻登能」=「山登りの」となる。
「夜麻登能 多加佐士怒」=「山登りの高い所にある宮殿を奉り仕えるところの野原」と解釈される。現在に残る「田川郡香春町高野」これこそが「畝火之白檮原宮」があったところである。あまりにも明白な結果であろう。だからこそ「夜麻登」=「大和」という「国譲り」を行い、焦点を暈したのである。
佐士=匙(匕)
匙の先っぽの平たくなったところが「高佐士野」と思われる。(2018.03.28)
「白檮」=「橿」と訳される。辞書的には全く当て嵌まらない訳である。神武天皇の墓所について後程記述する。当たり前のように読み下して来た言葉であるが、その意味するところは深いようである。既に挙げた「日下」「長谷」等々と同様であろう。
狹井河の謂れ
上記のすぐ後に「狹井河」の謂れが記述される。すっかりお馴染みになった川である。「大倭豊秋津嶋」の南側を流れる、山代の河川である。時代と共に名前を変えつつも悠久の流れを絶やさないところである。
故、其孃子、白之「仕奉也。」於是其伊須氣余理比賣命之家、在狹井河之上。天皇幸行其伊須氣余理比賣之許、一宿御寢坐也。其河謂佐韋河由者、於其河邊山由理草多在。故、取其山由理草之名、號佐韋河也。山由理草之本名云佐韋也。[そのイスケヨリ姫のお家はサヰ河のほとりにありました。この姫のもとにおいでになって一夜お寢みになりました。その河をサヰ河というわけは、河のほとりに山百合草が澤山ありましたから、その名を取って名づけたのです。山百合草のもとの名はサヰと言つたのです]
「山由理草之本名云佐韋」山百合の本名が「佐韋」という。いつものパターンで申し訳なしだが、「佐韋」=「佐(タスクル)韋(鞣革)」革を鞣す時に使う助剤を意味するとわかる。日本タンナーズ協会のサイトに詳細が載っている。その中の「タンニン鞣し」に該当する(タンニン:tan)。
百合根を食用にしていたと思われる当時(現在も同様)、調理の際に取り除くタンニンを革の鞣しに利用していたのであろう。水分約7割、糖質約3割、蛋白質少々の優れた食材である。茹でる時に苦味、渋味成分を除去、それにタンニンが含まれている。百合一本に含まれている量は少ないので「山由理草多在」も辻褄の合った記述である。
革の鞣し、必要であったろう、「衣」である。「生尾人」達にとって不可欠のもの、生きるために欠かせないものに言葉は集中する。タンニンの採取、それを使った皮革鞣し、それを必要とする人達、供給地と需要地の相互関係が成立つ地域性、短い説話の中で起承転結している。
革の鞣し、必要であったろう、「衣」である。「生尾人」達にとって不可欠のもの、生きるために欠かせないものに言葉は集中する。タンニンの採取、それを使った皮革鞣し、それを必要とする人達、供給地と需要地の相互関係が成立つ地域性、短い説話の中で起承転結している。
安萬侶くんはこの手の話が好きである。現在は科学技術などと難しそうな言葉を使い回すが、人は自然の中で生きる、という原点を忘れてはならない。応神天皇紀の「朱」の歌しかり、仁徳天皇紀の「藍」の話しかり、古事記を読んで、これをあらためて知らされるとは、望外のことである。製銅、製鉄のことをもう少し書いて…いや、これは国家機密か・・・。
従来より「佐韋」の解釈は様々である。多くの古の記録を読まれて論旨を展開されているものもある。わざわざではないだろうが、奈良の狹井川を訪れられた方もおられる。上記したように、それは現在の「今川(旧名犀川)」英彦山系から福岡県京都郡みやこ町豊津、行橋市を経て周防灘に流れる川である。
畝火山之北方白檮尾上*
神武天皇は「畝火之白檮原宮」に坐して、そのドラマチックな生涯を閉じ、「畝火山之北方白檮尾上」に眠っている。「白檮」は「橿」としてきた、疑いもせず…でも読めない、百済語?
「白檮」=「白(白く光る)檮(切り株)」と解釈する。山野を切り開いた様を象徴的に表現したものと思われる。神武天皇の果たした役割をキチンと伝えた命名であろう。「橿」としてしまっては平凡な天皇になる、不甲斐ない解釈である。
「畝火山之北方白檮尾上」畝傍山の北方にある「切り株」の尾根の上、ということになろう。現在の香春二~三ノ岳の尾根と推測される。また、「雲」発生の要因である、採銅に伴う煙の元である木材、その伐採による多くの切り株を示しているとも思われる。こうした連想も香春の地に倭が誕生したと考えることにより初めて可能なものとなる。
「白檮」=「白(白く光る)檮(切り株)」と解釈する。山野を切り開いた様を象徴的に表現したものと思われる。神武天皇の果たした役割をキチンと伝えた命名であろう。「橿」としてしまっては平凡な天皇になる、不甲斐ない解釈である。
「畝火山之北方白檮尾上」畝傍山の北方にある「切り株」の尾根の上、ということになろう。現在の香春二~三ノ岳の尾根と推測される。また、「雲」発生の要因である、採銅に伴う煙の元である木材、その伐採による多くの切り株を示しているとも思われる。こうした連想も香春の地に倭が誕生したと考えることにより初めて可能なものとなる。
応神天皇紀の吉野国栖が酒を造った臼、これも「白檮」であった。何となく「樫の木」で流したが、やはり「切り株」の解釈が適切であった。古事記の中で一語一語が繋がって記述されている、そのことを今後の要としよう。