2017年8月26日土曜日

葛城孝昭天皇の回帰 〔087〕

葛城孝昭天皇の回帰



<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
父親の懿徳天皇の冒険は確かに彼ら一族の将来に夢をもたらした。未だ不十分とは言え大きな可能性を示してくれた。孝昭天皇の選択は、この地、あるいは更に領土を拡大するのか、一旦引き返して施策を施した地を確実なものにするのか、彼の選択は後者であった。

葛城の地を更に確かなものとし、確実に自らの手で自らの領土にする道を選択した。既に初期に開拓した地は実の多い土地に変貌しつつあったのであろう。既に紐解いたように葛城の果て…葛城掖上宮…に坐して師木を遠望したのであった。

古事記原文…

御眞津日子訶惠志泥命<追記❶>、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。兄天押帶日子命者、春日臣、大宅臣、粟田臣、小野臣、柿本臣、壹比韋臣、大坂臣、阿那臣、多紀臣、羽栗臣、知多臣、牟邪臣、都怒山臣、伊勢飯高君、壹師君、近淡海國造之祖也。天皇御年、玖拾參歲、御陵在掖上博多山上也。

娶りも師木からではなく尾張から、繋がりを拡げたのである。開拓のことについて古事記は語らない、がそれは日常業務として行われていたのである。特筆すべきは二人の御子の内、兄に、例によって、活躍の機会を与える。この活躍には相当の財力が必要であったろう。

神武天皇の御子、神八井耳命が奔走できたのは間違いなく三嶋湟咋の援助があっただろう。今回は尾張の比賣からの支援もさることながら、自らの財力がものを言ったと思われる。それだけの貯えが既にできていたからこその派遣であろう。そのターゲットは師木包囲網の構築である。

兄、天押帶日子命(詳細はこちらを参照)が祖となった地名の解釈…、

春日・大宅・粟田・小野・柿本・壹比韋・大坂


邇藝速日命の居所への進出である。埋没した邇藝速日命一族、しかし彼らが築いた地には財力を生み出す力が眠っていただろう。そして何と言ってもその地は師木に隣接するところである。様々な情報を得るにも最適な場所と思われる。少し高台に上がればその地を一望にできるところである。

さて、春日、柿本、大坂は既に何度か出現した場所であるが、「宇遅」の詳細地名がこんなところに出現していた。あらためて調べるのであるが、細かい。現存する地名情報で賄いきれるであろうか…不安を払拭するべく一試案を提示する。全て福岡県田川郡の赤村に属する現在の地名である(柿下:田川郡香春町を除く)

春日:中村 大宅:大内田 粟田:小内田 小野:小柳
柿本:柿下 壹比韋:山ノ内 大坂:大坂

「春日」は邇藝速日命が降臨して坐した戸城山近隣であり、この地の中心となる地、変更はない。「柿本」も柿本人麻呂に関連したところとして取り上げた場所、「本→下」の置換えであろう。「大坂」は現在の京都郡みやこ町犀川大坂の地名があるが、そこは「大坂山口」であり「宇遅」の中にある「大坂」を採用する。

「大宅」「粟田」「小野」は語幹に基づいて特定した現地名である。残るは「壹比韋」である。これは応神天皇紀の「蟹の歌」に含まれる「伊知比韋」に該当するものであろう。難読の文字列で「一番秀でた()」のように解釈した。残念ながら地名であった。修正しよう。通説は「櫟井(イチイ)」に当てる。勿論これも要修正であるが…。

壹比韋=壹(一つ、専ら)・比(備える)・韋(囲い)=専ら囲いを備える

場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。


山の内

と呼ばれるところと推定される。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した場所である、とわかった。


応神紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「壹比韋」と詠う。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているかも…「宇遅=内」に通じる。古事記全体を通じて、


丹=極めて貴重な資源

と記述されているのである。

いや、水銀はその後も有用な素材として君臨する歴史を辿る。その毒性が取り上げられるのは、近年になってからである。あらためて真に貴重な記述を我々は有していることに気付かされる。このことだけでも古事記の評価を見直すべきではなかろうか・・・。

阿那・多紀*・壹師・伊勢飯高


さて、「宇遅」を後にした天押帶日子命は何処に向かったのであろうか?…特定した結果を先に示すと、北九州市小倉南区に属する地名が並ぶ。

阿那:平尾台 多紀*:新道寺 壹師:志井 伊勢飯高:高野

「阿那」=「豊かな台地」カルスト台地の「平尾台」とする。「阿那」=「穴」の方がピッタリ、という感じもするが…。「多紀」=「多岐」と同義と思われる。「阿那」から北上すると「母原」の地が浮かび上がってくる。現在でも複数の道路が交差する交通の要所となっている。倭建命の「能煩野」でもある。

「壹師」は上記の「多紀」の小山を挟んだ北隣に「志井」という現地名がある。語幹を捩って残存する地名ではなかろうか。「伊勢飯高」については「伊勢」という情報から、現地名の「高野」が該当するように思われる。「伊勢神宮」に近接する。現在の三重県の多気・一志・志摩など「国譲り」の痕跡であろうか…。

こう見てくると春日の地から真っすぐ北上して伊勢に到達、伊勢神宮の近隣の地に入り込んだ、という記述である。「大倭豊秋津嶋」のセンターラインを走ったことになる、中心の「阿岐豆野」も抑えて…。

羽栗・知多・牟邪・都怒山


母親の出自に関連するところ、尾張の詳細地名*のお出ましである(追記の図参照)。

羽栗:横山葉山 知多:田原 牟邪:長野 都怒山:貫

全て北九州市小倉南区の地名である。語幹の意味、発音の類似が着目点ではあるが、一つ関係なさそうなのが「知多」である。現在の知多半島の隣、渥美半島は田原市に属する。「知多」を譲って「田原」を残したのに、その「田原」まで持って行かれた…失礼ながら笑いがこぼれる出来事である

「牟邪」=「牟(大きい)|邪(ねじ曲がる)」…「大きくねじ曲がる」川を意味すると思われる。開化天皇が坐する「伊邪河宮」に通じる。これは「小さくねじ曲がる」であるが。現地名の長野を流れる長野川の様子を象形したのであろう。

最後は「近淡海国」近江ではありません。淡海と近淡海を区別しない日本書紀は、真面(まとも)な紐解きに値しない書物と断定できるのであるが、まぁ、参考に目通しするに止めよう・・・。

地図を参照願う…




一見してなかなかの布陣であろう。「春日」の隅々までに浸透したことは後に大きな効果を生み出すことになる。反転攻勢の第一歩と見做して良いのではなかろうか…。が、まだまだ時間を要する作業なのである。

孝昭天皇はこれまでの天皇と比べ長生きをした。じっくりと先のことを考えられたであろう。葛城の地の開拓も順調であった筈である。手は打った、という気分であろうか…。


掖上博多山上=福智山山頂

に埋葬されたと言う。福智山山塊中の最高峰でかつ山頂が広く幾つかの峰が集まった形状をしている。御陵は「鈴ケ岩屋」辺りかもしれない。


…と、まぁ、古事記の内容の濃さにヘコタレそうである・・・。


…全体を通しては古事記新釈孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇を参照願う。

<追記>

❶2017.09.21
諡号「御眞津日子訶惠志泥命」の「訶惠志泥」は何と読み解けるのであろうか?…


訶惠志(返し)|泥(否:ない)

…「同じことを繰り返さない」と解釈できるようである。葛城に帰ったが先代とは違うことをしよう、そんな心根を表しているように思われる。確かに娶りは変わり、御子の派遣も師木に近付くようだが・・・。

「泥(ネ)」の用法は筑紫嶋の肥国の謂れ「建日向日豐久士比泥別」と類似と解釈した。「櫛には並ばない」である。「泥」が否定を意味する解釈以外にはこの謂れは読み解けないと思われる。



「御眞津」は何と紐解くか?…「眞」は「真に」と訳されるのが通常だろうが、それでは意味をなさない。「眞」=「匕+鼎」と分解すると「入れ物を一杯に詰める、満ちている」と解釈されている。とすると…、


御眞津=御(御する)|眞(満ちている)|津(川の合流点)


…「津に満ちているところを御する」と紐解ける。上図に示したように「葛城掖上宮」は現在の上野峡の近隣にあったと比定した。福智川に多くの支流が寄り集まった様を示していると思われる。この川の下流は彦山川に合流する。葛城の地では最も河川が多く集まっているところである。この地形を表現したものと推察される。(2018.04.19)




❷2017.10.18

「多紀」=「多(田)・紀(初め)*」と解釈する。金辺峠からの東谷は殆ど水田ができない地形であって、それが始まるところを指していると思われる。

現在の北九州市小倉南区木下・新道寺辺りである・・・としたが、以下に訂正する。

*→「紀」=「糸+己」と分解し「撚り糸の己(畝る、曲がりくねる)」の象形とすると…、


多紀=田が畝って連なったところ

…と読み解ける。場所は新道寺辺りになろう。(2018.04.10)


尾張の詳細地名*
(2018.04.19)