2017年5月31日水曜日

『欠史八代』の天皇:その弐〔043〕

『欠史八代』の天皇:その弐


「葛城」意味するところが、解けてみて初めて、その重要性に気付かされた。現在では何も考えることなく当たり前、というか、そう言う場所と思い込んでいる。地名に関してこれほどまでも鈍感な状態になってしまったことに驚きと、そうさせられて来たという憤りのような気分である。

直近では「宇陀」「忍坂」「伊那佐」等々、古事記の地名表記を紐解けば解くほど現在の地形とのギャップを思い知らされる。そしてそれに気付かない、何も考えない、当然のごとくに「言葉」を発してしまう。そんな日常を、自戒も含め、見直してみようかと思う。

さて、八代の天皇達の「宮」の在処を再掲すると…

葛城3(綏靖、孝昭、孝安)
 :2(懿徳、孝元)
片塩1(安寧)黒田1(孝霊)春日1(開化)

であった

「葛城」に次いで多いのが「軽」である。それを紐解いてみよう。

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第四代懿徳天皇の「輕之境岡宮」と第八代孝元天皇の「輕之堺原宮」である。「輕」という文字には一度出会っている。応神天皇の「輕嶋之明宮」。水に浮かぶように見える、川中島のようなところと解釈して、現在の福岡県田川郡金田辺りとした。しかし今度は「嶋」がない。再度「輕」という文字解釈を見直してみた

「輕(軽)」の原義は「敵陣に真っすぐ突進していく車」とある。現在の日常では見られない象形は最も理解し辛いところではある。確かに上記の「軽嶋」も「軽く浮く」ようなイメージと、「川中島(嶋)」が川の合流点に「突き進む(軽)」ような地形から、と理解することができる。どうやら「突き進む」という解釈が妥当なように思われる。

この二つの「宮」の名前が「境岡」と「堺原」である。人々の生活空間の境、である。大きな川と川の合流点であったり、川が海に注ぐところであろう。大阪府堺市は大和川の河口にあり大阪湾に注ぐところである。「国譲り」を元に戻すと、難無く現在の彦山川が遠賀川に合流するところが浮かんでくる。

彦山川を挟んで福岡県直方市「上境」「下境」の地名が今に残る。彦山川が遠賀川に「軽」しているところである。当時は縄文海進で古代の遠賀湾となっていたところ、合流ではなく彦山川が遠賀湾に注ぐ場所であったかもしれない。「岡」と「原」を地形から選択すると…

境岡宮:直方市上境にある福地神社辺り
堺原宮:直方市上境にある水町遺跡辺り<追記>

ではなかろうか。共に福地川が流れる畔にあったと思われる。福智山塊の急斜面から流れ出た川が比較的穏やかに彦山川に合流する場所である。その上流に地名「畑」がある。北九州市門司区の吉志に隣接するところにも「畑」がある。共に秦氏が関わっていたように思われる。未開の地の開拓に秦氏の果たした役割は大きい。

いずれにせよ畝火山よりかなり離れてしまったようである。彼らの生活空間の境まで行き着いたということであろうか、また、畝火の中心から離れなければならない理由でもあったのであろうか…。

片塩


第三代安寧天皇の片鹽浮穴宮の解釈である。「片塩」=「川と海とが混じり合ってる場所」であろう。「片」=「完全でない」からの推定である。「浮穴」の解釈は、「水が引けると穴が見える」ぐらいであろうか、理解し辛い表現であるが、「浮」=「表面に現れる」とする。一般的な解釈から場所の特定は困難ではあるが…

浮穴宮:田川郡福智町上野の厳島神社辺りではなかろうか。現在も小さな池が多くある。水が流れる、又は地下への浸透で穴を見せる、と思われる。

黒田


第七代孝靈天皇の「黑田廬戸宮」である。「黒田」は何と解釈するか? 一般的過ぎるか、それとも特定できるヒントが隠されているか? 「田」に注目する。ここまでの天皇達は「田」には程遠い場所に居た。勿論「宮」の在処はともかくとしてその周辺が「葛」であり、それに何らかの手を加えることなくしては収穫が得られないところを示して来た。

「田」が強調され、それが「黒」である。「黒」は「泥」に通じる。「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」を表していると思われる。間違いなく大きな池(沼)に支えられ、水田に水が溜められる場所を指し示していると推測される。どうやら第七代天皇の時代になって「葛城」は豊かな土地に変貌し始めたのではなかろうか。

廬戸宮:福智町上野の石鎚神社辺り、と思われる。

「欠史八代」中七代の天皇の「宮」を纏めて図示する(番号は代)

春日


第九代開化天皇の「春日之伊邪河宮」である。「春日」は「カスガ」ではない。春の日は霞む日が多い。枕詞で通じる、だから「春日」とくれば「霞処(カスガ)」と言われる。
安萬侶くんがそう言うだろうか? 歌ではない。「春日」という地名である。では、何と?

「日」=「邇藝速日命」解釈する。「日下」=「邇藝速日命の下」とした「日」である。「春」という文字の持つ意味は多様である。多くの場面で用いられ、「春」に託す人の気持ちも多様である。
「春」=「物事の始りの勢い付くとき」としてはどうであろうか?
 

「春日」=「邇藝速日命が始め、勢い付くとき」…その場所は「鳥見()の白庭(シラニワ))」=「現在の戸城山」としたところである。

「春日」は戸城山周辺の地域を示す。また、邇藝速日命が降って来る以前、この地は「ト」という語幹を持つ場所と推測される。

後程出現するが、「十市縣」の「十」もこの地の表現であったと思われる。

「師木」の近隣の場所、開化天皇は葛城から離れ畝火山に近付き、「師木」の傍まで戻って来たのである。「宮」の在処は、後に「宇遅」と呼ばれるところに重なる

伊邪河宮:福岡県田川郡赤村内田の朝日寺辺り、であろう。朝日寺、大祖神社、正一位稲荷神社などが集積し、曲りくねった河(伊邪河)が流れる場所である。

地図からわかるように彼らは葛城及びその周辺の中に居た。そして九代目で「春日」に辿り着いた。遠賀湾の境までの乾いた地で沼を作り、田を作り、そして十分な収穫を得られるように必死に働いたのであろう。確かに華々しい戦歴もなく、ひたすら地と向き合ったのであろう。また、それだけ平和な時期を過ごしたとも言える。

天皇の娶り


以下に「娶」の関連を抜き出してみると(天皇略)

綏靖1(師木縣主之祖・河俣毘賣)
安寧1(河俣毘賣之兄、縣主波延[ハエ]之女・阿久斗比賣)
懿徳1(師木縣主之祖・飯日比賣命)
孝昭1(尾張連之祖奧津余曾之妹・余曾多本毘賣命)
孝安1(姪忍鹿比賣命)
孝霊2(十市縣主之祖大目之女・細比賣命*/春日之千千速眞若比賣)
孝元2(穗積臣等之祖・色許男命色許、此妹・色許賣命/色許男命之女・伊賀迦色許賣命)
開化4(旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣/庶母・伊迦賀色許賣命/丸邇臣之祖日子國意
    祁都命之妹・意祁都比賣命/葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣)

「娶」の人数は如実に彼らの暮らしの実態を表している。原野を開拓することは並大抵のことではない。収穫がなければ嫁、子供等の一族を養えないのである。極めて素直な記述ではなかろうか。

豊かであったろう「師木」に入り込めなかった。三代続けて「師木」から娶っているが、その土地の住民との融和ということ、それもあろうが、遠く離れた他の地から娶るだけの力がなかったことも併せて理解できる。

地図に示したが、彼らは綏靖から始めておよそ一回半、葛城及び周辺を巡回したことになる。明らかに二巡目に差し掛かった時、治水事業の進展に伴った孝霊天皇の黒田廬戸宮の時が大きなターニングポイントだとわかる。娶りの数も増えている。豊さを実感できる時が到来したと感じたのであろう。

葛城からの脱出


安萬侶くんの記述も説話が挿入される。それは非常に重要な出来事である。「吉備国」を「言向和」し、吉備の臣に入り込めたのである。既に考察した「針間口の吉備」である。当時の鉄の一大産地、地に目を向けた戦略から空を見つめる戦略に方向転換したのである。

これは特筆すべき事項である。反転攻勢の糸口を孝霊天皇が切った、雌伏何年になるのであろうか…新しい土地に移ること、これは大変な努力を要する。それを何代もかけて彼らは成遂げた。こんなドラマに出会えるとは…不思議な感覚でもある。漫画古事記、ラノベ風古事記、きっと感動物語が書ける?…かもである。

本道に戻して、孝霊天皇の娶りは「十市縣*「春日」である。従来よりこの二つの地名について様々な議論がなされているようである。先程少し述べたが、「十市」という先立つ場所に「春日」ができた、と思われる。「十市」古くからの記述に登場するが、詳しいことがわかっていない。少なくとも今回の考察で「十市」と「春日」の関係が明らかになったとしたら、過去の混乱した解釈も、幾らかスッキリするのではなかろうか…。

開化天皇になると一気に娶りが増え、相手先も多彩となる。いよいよ「師木」に入り込む準備が整った、というわけである。「宮」も目と鼻の先にある。どちらかと言えば高台から見下ろす位置である。関係する国々も近淡海国の近隣から東方十二道の国までに範囲が広がっている。

漸くにして第十代崇神天皇、「師木」に入ることになる。「御肇國天皇」とも言われるという。理解できる命名である、通説とは異なる理解だが…。

今思えば、神倭伊波禮毘古命と戦った「登美毘古」の最後の記述が曖昧である。「言向和」の融和政策である。「兄師木」「弟師木」も結果的には融和に近い。詠った歌が兵の疲弊を示す。大量殺戮兵器を知る現代とは異なる感覚であろうか。戦場とせず共存する場を作った。そして彼らは「葛城」の地を選択した。

そう考えるとこの「欠史」の時代こそ今の天皇家の基礎を作り上げたと言えるのではなかろうか。やはり、安萬侶くんは書き残していた。天皇に奏上する書であるなら省略してよいところ、簡潔に、それとわかるように書き記していた。漸くにして、伝わったよ、安萬侶くん。

孝元天皇紀に、あの「建内宿禰」の出自が述べられている。今回は省略するが、いずれ書いてみたい人物の一人である。多くの地名など調べて見たいものも出ているが、後日に回そう…。

最後に、通説ではないが、「欠史」については「架空」説「葛城王朝」説等、様々である。本ブログとは掛離れた解釈であり、奈良大和に散り嵌められた地名の比定で終わっているようである。

…と、まぁ、決して「欠史」ではなかった…かも、である・・・。

<追記>

2017.08.30
直方市頓野にある小野牟田言池の東岸、近津神社辺りに修正。








市縣*
孝霊天皇の娶りに「十市縣主之祖大目之女・細比賣命」が登場する。「十市縣」の詳細を記述する数少ない表記である。紐解いた結果を示す。詳細は古事記新釈のこちらを参照願う。

十市縣は「登袁」として現在の田川郡赤村赤、東西南北の十字路がある地を中心としたところとした。古代の交通の要所と思われる。

「大目」は「魚の目」と紐解いて突起と解釈する。上記の赤い破線が示すところと思われる。

「細比賣(クハシヒメ)」は「細」=「糸+田」として「糸のように細い田が並んでいる」とすると、上図が示すところと思われる。

前記の比定場所に近く、「十市縣」の場所としては修正の必要はないようである。具体的な地名(人名)の登場で確度が高まったようである。(2018.04.11)