2017年4月6日木曜日

応神天皇:『葛野の歌』と『蟹の歌』〔020〕

応神天皇:『葛野の歌』と『蟹の歌』

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
皇位の継承は大変なようで、歴史に名を残した天皇は全て「策士」である。奏上するのだから当然のことであろうが、それを差し引いて読むことにしよう。「宇遲」に居を構えていた「丸邇(和珥)」氏の渡来後の履歴など非常に興味深いところである。

今回は前回より少し前に記述されている応神天皇のご機嫌な御歌二首を紐解いてみよう。安萬侶くんのことだから、エエ加減な歌を載せているわけでもないであろう。次期皇位は四男の「宇遲能和紀郎子」だと言われた直後の物語である。

葛野の歌<追記>


例によって古事記原文[武田祐吉訳]を示すと…

一時、天皇越幸近淡海國之時、御宇遲野上、望葛野

知婆能 加豆怒袁美禮婆 毛毛知陀流 夜邇波母美由 久爾能富母美由

故、到坐木幡村之時、麗美孃子、遇其道衢。爾天皇問其孃子曰「汝者誰子。」答白「丸邇之比布禮能意富美之女、名宮主矢河枝比賣。」天皇卽詔其孃子「吾明日還幸之時、入坐汝家。」故、矢河枝比賣、委曲語其父、於是父答曰「是者天皇坐那理。此二字以音。恐之、我子仕奉。」云而、嚴餝其家候待者、明日入坐。

[或る時、天皇が近江の國へ越えてお出ましになりました時に、宇治野の上にお立ちになって葛野を御覽になってお詠みになりました御歌、

葉の茂った葛野を見れば、幾千も富み榮えた家居が見える、國の中での良い處が見える

かくて木幡の村においでになった時に、その道で美しい孃子にお遇いになりました。そこで天皇がその孃子に、「あなたは誰の子か」とお尋ねになりましたから、お答え申し上げるには、「ワニノヒフレのオホミの女のミヤヌシヤガハエ姫でございます」と申しました。天皇がその孃子に「わたしが明日還る時にあなたの家にはいりましよう」と仰せられました。そこでヤガハエ姫がその父に詳しくお話しました。依って父の言いますには、「これは天皇陛下でおいでになります。恐れ多いことですから、わが子よ、お仕え申し上げなさい」と言って、その家をりっぱに飾り立て、待っておりましたところ、あくる日においでになりました]

この短い話の中に重要な地名が散りばめられている。「近淡海国」「宇遲野上」「葛野」「木幡村」また天皇の御所は「輕嶋」之明宮とのことであり、行幸のスタートはこの地点と思われる。

「近淡海国」と「宇遲野」は前回までの考察結果に従うとしても、「輕嶋」「葛野」「木幡村」は初出である。前二者の位置関係を念頭に置いて探索する。

先ずは「輕嶋」から…「宇遲野」を通って「近淡海国」に向かうのであるから、この場所は①現在の田川市周辺にあると思われる。「輕嶋」から思い浮かべられる地形は「水に浮かぶように見える島」であろう。海にある島は全てそうみえるわけだから、②大きな川に挟まれたり、また大きな水田に取り囲まれているような状況であろう。①と②を満たせる地形は・・・

「輕嶋」=「川中島」である。武田信玄と上杉謙信の川中島、大河の千曲川と犀川に挟まれた三角州である。極めて特徴のある地形である。遠飛鳥の「川中島」は彦山川と中元寺川に挟まれた、その合流点に接する現在の田川郡福智町金田に比定できる。気付けば当に的確な表現である。

「輕」=「ケイ、キン」=「金」とも読める。応神天皇の諱は「品陀和氣命」である。「品陀(ホンダ)」=「品田(ヒンダ)」=「金田(キンダ)」もあるかもしれない。「金田」の由来は定かでない。

この「輕嶋」を出て「宇遲野」に向かう。山背ルートを使ったのである。現在の平成筑豊田川線内田駅辺りから戸城山の北側を抜ける道を辿ったと思われる。国見をした「宇遲野上」とは戸城山の山頂ではなかろうか。

そこから眺められる場所、間違いなく「赤村」の全景であろう「赤村(アカムラ)」はかつて「吾勝野(アガツノ)」と呼ばれたところであり、行政区分の変更に伴い「赤(アカ)」「津野(ツノ)」に分割されたという。

「葛野」=「田川郡赤村+田川郡添田町津野」である。古事記は多くを語らないが、渡来人達とその地の人々との「和」して豊かな日常が浮かんでくる。

さて、国見をして天皇ご一行は「近淡海国」へ、必然的に「山代の大坂山口」に向かうことになる。「木幡村」はその道すがら通過するところである。下記に全文を載せるが、「木幡」=「許波多」と表記される。

「許」=「本、下、もと」、「波多」=「端、傍、ほとり」である「許波多」=「山麓の端にある」状態を示し、大坂山山塊の縁を結ぶ道であり、そこにあった「村」を表記したものと解釈できる。

「木幡村」=「山浦大祖神社周辺」と比定する。応神天皇は「矢河枝比賣」との約束を取り付けて、翌日立寄る、「近淡海国」の何処に行ったのか、わからず、「河内恵賀之〇」書いて欲しかった・・・。

地図に示してみよう…


蟹の歌


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
思いの外のもてなしを受けた天皇さん、調子に乗って思わず長歌を詠われた。なんとも判読困難な歌であるが、きっと深い意味があってのこと…どこかから抜き取ってきたようなもの、盗作?なんて言わないで…。

故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、

許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母

如此御合、生御子、宇遲能和紀自宇下五字以音郎子也。
[そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、

の蟹はどこの蟹だ。遠くの方の敦賀の蟹です。横歩きをして何處へ行くのだ。 イチヂ島・ミ島について、カイツブリのように水に潛って息をついて、高低のあるササナミへの道をまっすぐにわたしが行きますと、 木幡の道で出逢つた孃子、後姿は楯のようだ。 齒竝びは椎の子や菱の實のようだ。櫟井の丸邇坂の土を上の土はお色が赤い、底の土は眞黒ゆえ眞中のその中の土をかぶりつく直火には當てずに畫眉を濃く畫いてお逢いになつた御婦人、 このようにもとわたしの見たお孃さん、あのようにもとわたしの見たお孃さんに、 思いのほかにも向かっていることです。添っていることですかくて御結婚なすつてお生みになった子がウヂの若郎子でございました]

なんとも美しい「矢河枝比賣」を褒め上げてるわけだが、その内容は、どうやら大変なことを告げているようである。逐次解いてみよう。

「都奴賀能迦邇」高志の敦賀の蟹に例えて、高志国出身であることを示している。通説は仲哀天皇と神功皇后との御子だが…また後日に調べてみよう

「毛毛豆多布」=「百伝う」=「数多く伝って」、通説は「遠くの」と訳す。蟹がたくさんの海辺を伝って来るのである。福井の敦賀から奈良県橿原市大軽町へは、山越え、湖の水辺、川辺を伝い、そして平城山を越えなければ到達しない。

古事記の筆者の頭がおかしいのか、読み手がおかしいのか、前者はあり得ない。「猿喰」から「豊前の難波津」を経て「佐佐那美遅」まで水辺を伝って「美本杼理(鳰:カイツブリ)」のようにして来るのである。二つの島で…、


斗岐=鋭角に分岐する

…である。

「伊知遲志麻」=「礎島」=「土台のような(台形の)島」、「美志麻」=「三(山)島」=「三つの頂きが奇麗に並んだ島」である。豊前の難波津、現在の今川河口沖に並ぶ二つの山、「二先山」と「簑島山」であろう。当時は島であった。

「志那陀由布 佐佐那美遅」=「凸凹で笹の多い道」である。前記で解釈した「沙沙那美」=「みやこ町犀川大坂笹原」周辺を指し示している。そこを真っすぐに進むと「木幡の道」に通じる、と簡単に、事実明らかに出会いの場所に行き当たる。

「鵠」を求めて海辺を伝って北上した、今回の記述はその逆の南下行程(近淡海国まで)を述べている。「高志国」と「近淡海国」の位置関係は、前記した地図に記載した通りと思われる。地図を下記に…


「猿喰」から海辺伝って「豊前の難波津」へ、そこから「犀川(今川)」の水辺を伝い「山背」に向かう。犀川支流の松坂川に移り「佐佐那美遅(みやこ町犀川大坂笹原)」辺りで上陸する。古事記解釈上極めて重要なところである。

カイツブリの水辺伝いから陸行に移る、と言っているのである。だから「佐佐那美遅」を記述する。通説は場所の比定も、この行程における形態の変化も示さない。

「矢河枝比賣」の美しさを述べた後に続く表記、これはトンデモナイことを記述している。仁徳紀にも「藍染」のところで考察したように化学変化に伴う色相の変化に極めて敏感な表現をしている。またそれを制御出来ると述べているのである。

「邇」=「丹(朱)」について下記のごとく解釈した。「伊知比韋能 和邇佐能邇」=「櫟井の丸邇坂の土」と通説は訳すが、「伊知比韋能 和邇佐能邇」=「非常に秀でた和邇の方の朱」とする。場所は和邇坂に限られたものではない*<追記>

「波都邇波」=「外に現れている朱(赤色)」「志波邇」=「囲われている朱(黒色)」する。通訳は「上」「下」とする。状態的には間違ってないが、外気に触れているか、そうでないか違いを筆者は区別していることが重要である。

「美都具理能 曾能那迦都爾袁」=「間にある朱」を「加夫都久」=「火夫点く」=「火夫が火を付ける」実際には少量を火で炙ったのであろうか。通説「かぶりつく」は意味不明である。最も毒性の強い鉱物、かぶりついてはいけません。

赤(辰砂)と黒(黒辰砂)の朱の間にある朱を加熱すると言っている。ビックリ仰天である。化学式で示すと下記のようである。

赤色:HgS(三方晶系) 黒色:HgS(単軸晶系) 色の違いは結晶系の違い。Hg():二価水銀

HgS(三方晶系) ⇄ HgS(単軸晶系)

不純物のない状態では熱可逆反応で、加熱によりエネルギー的に不安定な単軸晶系()にシフトするが、加熱を止めると安定な三方晶系()に戻る。約340℃でこの可逆反応が進行する。

眉墨に使うのであるから黒色、しかも艶のある黒でなければならない。外気に曝されていない「下」の朱()は不純物が多い、例えば一価水銀のHg2S、その他の金属化合物(Se)。外気に曝されてHgSになり、また表面に出ることで雨などで水洗され、除去される。

Hg2S → HgS + Hg

この不純物を含むことにより赤色への変色が抑えられ、艶のある黒色を維持できる。変色と艶との兼ね合いである。だから中間層を加熱利用して眉墨を引くのである。また、火傷をしない程度の温度で塗布適性も向上する。

矛盾する現象を実用という境界条件の中で両立させるのが化学技術の使命である。古事記の記述は化学の原点を表記している。ダラダラと書き連ねるペーパーのアブストラクトより簡潔明瞭である。

応神天皇の時代、既にこれだけの知識と技能を有していたこと、「あさまし」である。また、化学史上極めて重要な記述である。果たしてこれだけの記述が世界の中であるのだろうか、あらためて古事記の解釈について見直す必要性を感じる。

話を戻すと、当然渡金に欠かせない水銀(液状金属)と金とのアマルガムを作り、そのアマルガムを塗布後加熱して水銀を揮発させ、金張りを形成する、これが眩いばかりの仏像を世に出現させることになる。その水銀を製造していたのである。現在は全く製造されていない。

HgS + O2 → Hg + SO2

香春岳で産出する銅、鏡を作るのに不可欠な、「朱砂」また渡金に必要水銀、勿論、薬としての利用もあったであろう(殺菌作用)、国家権力に直結する立場を獲得する、自然の流れであったろう。

古事記本文は「宇遲能和紀郎子」の誕生に結んでこの節を終える。応神天皇の「和邇」一族に対する思い入れが強く感じられるところである。

安萬侶くんの伝えたかったこと、歌を通じての国の力である。当時最も重要な技術を、誰が、何処で、何時、どの様にして育み発展させて来たかを述べているのである。1300年の時が過ぎるまで、謎のままに過してきたことに、呆れる。

余談だが、眉毛を抜いて引眉としたのか、平安時代にはそうしていたとのことだが、おそらく当時も、であろう。どこかの歌の中に記述があるかもしれないが…。

また、古事記の地図にランドマークが増えた。一つ一つ着実に・・・。

<追記>

❶2017.08.26
伊知比韋」の解釈修正。別途「壹比韋」と記述され、「宇遅」の中の地名とわかった。
後述のブログの抜粋…
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「壹比韋」=「壹(一つ、専ら)・比(備える)・韋(囲い)」=「専ら囲いを備える」場所と読み解ける。周囲を小高い山で取り囲まれたところを示していると思われる。現在の「山ノ内」と呼ばれるところであろう。国土地理院の色別標高図から中心地「中村」に隣接するが隔絶した場所である、とわかった。

応神紀には「丹=辰砂」の話題が頻出する。その採掘場所を「壹比韋」と述べている。地形象形だけでなく「一つになって他を寄せ付けない」と言う意味も含まれているようである。「宇遅=内」に通じる。古事記全体を通じて「丹」は極めて貴重な資源と記述されているのである。
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「宇遅」の詳細な地名、「丹」に対する彼らの認識等、多くのことが込められた記述と思われる。

*大国主命及び山佐知毘古の説話に登場した「和邇」=「輪の形に近い」の解釈を適用すると「壹比韋」=「専ら囲いを備える」と繋がる。通して解釈すると「専ら囲いを備えて輪の形に近い」場所となる。機密性の高いところであることを強調している解釈となる。上記の意味と掛けているように思われる。(2018.03.21)

❷2017.10.29
「蟹の歌」修正。応神天皇が比賣に出会ったのは往路ではなく復路とする。詳細はこちらを参照願う。