応神天皇:我が行く道
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
前記した仁徳天皇は女性がらみで皇后の嫉妬を気にすることなく、ひたすら国の拡充発展に努められた。好奇心旺盛で何処にでも出かける、おかげで暇が取り柄の老いぼれもご一緒させて頂けた。一方、父親の応神天皇さん、どうやら自分を語ることがお好きなようで、それはそれで彼らの関心事を伺い知るには都合よし、という感じである。
「蟹の歌」に続く説話は相変わらず仁徳さんの女好きをいいことに、父親と息子の一人の女性の取り合い、なんて読んでしまったら、もったいない、であろう、と、こんな色眼鏡で読んでみたら・・・「歌」の連発、安萬侶くんはそこに本音を、しかし難解。
古事記原文と通訳[武田祐吉訳]…
天皇聞看日向國諸縣君之女・名髮長比賣、其顏容麗美、將使而喚上之時、其太子大雀命、見其孃子泊于難波津而、感其姿容之端正、卽誂告建內宿禰大臣「是自日向喚上之髮長比賣者、請白天皇之大御所而、令賜於吾。」爾建內宿禰大臣、請大命者、天皇卽以髮長比賣、賜于其御子。所賜狀者、天皇聞看豐明之日、於髮長比賣令握大御酒柏、賜其太子。爾御歌曰、
伊邪古杼母 怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能 迦具波斯 波那多知婆那波 本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯 美都具理能 那迦都延能 本都毛理 阿加良袁登賣袁 伊邪佐佐婆 余良斯那
又御歌曰、
美豆多麻流 余佐美能伊氣能 韋具比宇知賀 佐斯祁流斯良邇 奴那波久理 波閇祁久斯良邇 和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖 伊麻叙久夜斯岐
如此歌而賜也。故被賜其孃子之後、太子歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣袁 迦微能碁登 岐許延斯迦杼母 阿比麻久良麻久
又歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母 宇流波志美意母布
伊邪古杼母 怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能 迦具波斯 波那多知婆那波 本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯 美都具理能 那迦都延能 本都毛理 阿加良袁登賣袁 伊邪佐佐婆 余良斯那
又御歌曰、
美豆多麻流 余佐美能伊氣能 韋具比宇知賀 佐斯祁流斯良邇 奴那波久理 波閇祁久斯良邇 和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖 伊麻叙久夜斯岐
如此歌而賜也。故被賜其孃子之後、太子歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣袁 迦微能碁登 岐許延斯迦杼母 阿比麻久良麻久
又歌曰、
美知能斯理 古波陀袁登賣波 阿良蘇波受 泥斯久袁斯叙母 宇流波志美意母布
[また天皇が、日向の國の諸縣の君の女の髮長姫が美しいとお聞きになって、お使い遊ばそうとして、お召し上げなさいます時に、太子のオホサザキの命がその孃子の難波津に船つきしているのを御覽になって、その容姿のりっぱなのに感心なさいまして、タケシウチの宿禰にお頼みになるには「この日向からお召し上げになった髮長姫を、陛下の御もとにお願いしてわたしに賜わるようにしてくれ」と仰せられました。依つてタケシウチの宿禰の大臣が天皇の仰せを願いましたから、天皇が髮長姫をその御子にお授けになりました。お授けになる樣は、天皇が御酒宴を遊ばされた日に、髮長姫にお酒を注ぐ柏葉を取らしめて、その太子に賜わりました。そこで天皇のお詠み遊ばされた歌は、
さぁお前たち、野蒜摘みに蒜摘みにわたしの行く道の香ばしい花橘の樹、上の枝は鳥がいて枯らし、下の枝は人が取って枯らし、三栗のような眞中の枝の目立って見える紅顏のお孃さんをさあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依網の池の堰杙を打ってあったのを知らずに ジュンサイを手繰って手の延びていたのを知らずに氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになって賜わりました。その孃子を賜わってから後に太子のお詠みになった歌、
遠い國の古波陀のお孃さんを、雷鳴のように音高く聞いていたが、わたしの妻としたことだった。
また、
遠い國の古波陀のお孃さんが、爭わずにわたしの妻となったのは、かわいい事さね]
さぁお前たち、野蒜摘みに蒜摘みにわたしの行く道の香ばしい花橘の樹、上の枝は鳥がいて枯らし、下の枝は人が取って枯らし、三栗のような眞中の枝の目立って見える紅顏のお孃さんをさあ手に入れたら宜いでしよう。
また、
水のたまつている依網の池の堰杙を打ってあったのを知らずに ジュンサイを手繰って手の延びていたのを知らずに氣のつかない事をして殘念だつた。
かようにお歌いになって賜わりました。その孃子を賜わってから後に太子のお詠みになった歌、
遠い國の古波陀のお孃さんを、雷鳴のように音高く聞いていたが、わたしの妻としたことだった。
また、
遠い國の古波陀のお孃さんが、爭わずにわたしの妻となったのは、かわいい事さね]
「日向国」、このブログ初出の国から「髮長比賣」という、まるでハリウッドスターのような女性をゲットしたというお話である。通訳は歌いまくる歌の解釈に苦しむ、辻褄が合わないのである。そんなわけで、例によって、どこかで詠われたものを挿入、なんて理解で済ませるようである。
一語一語、見てみると…ちょっと一目ぼれした仁徳さんが、困った時の「建」さんに相談、応神天皇にご進言申し上げた、という前説で、御歌である。
さっそくの冒頭「伊邪古杼母」=「さぁお前たち」歌の初めに挿入したのは何故であろうか? 「さぁ、お前たち、よ~く聞け!」の気合が籠った一語であろう。何かを語ろうとする時に発せられる言葉と理解した。続く歌が奇妙なのである。気合入れて、そして懺悔である。神と崇められる天皇が「斯良邇(シラニ)」=「知らずに」を一歌に二回も、である。
野蒜と花橘
さっそくの冒頭「伊邪古杼母」=「さぁお前たち」歌の初めに挿入したのは何故であろうか? 「さぁ、お前たち、よ~く聞け!」の気合が籠った一語であろう。何かを語ろうとする時に発せられる言葉と理解した。続く歌が奇妙なのである。気合入れて、そして懺悔である。神と崇められる天皇が「斯良邇(シラニ)」=「知らずに」を一歌に二回も、である。
彼らの祖先が朝鮮半島を出て「天の国」からこの「倭」に来た。紆余曲折ながらも「言向和」してここまで来た。東から昇る太陽に向かって東へ、東へ、と進んで来たのである。子供達に語ることは祖先のことであり、また、その故郷の状況と、これから先の行く末を案じることではなかろうか。
「怒毘流都美邇 比流都美邇 和賀由久美知能」=「野蒜摘みに蒜摘みにわたしの行く道の」=「新しい土地を切り開いて来た我(ら)が行く道の」過去から現在までの自分達の歴史を物語っている。また「野蒜」は次の「迦具波斯(香ばしい)波那多知婆那波(花橘は)」と対比して、彼らの先人たちが作り上げた豊かさに対して、まだまだ及ばないことを暗示しているのであろう。
「本都延波 登理韋賀良斯 志豆延波 比登登理賀良斯」=「上の枝は鳥がいて枯らし、下の枝は人が取って枯らし」叙景的には通訳の通りである。がしかし、彼らが辿ってきた道の出発点は朝鮮半島である。今の彼らから見た「本都延」「志豆延」は「朝鮮半島北方(遠方)」「朝鮮半島南方(近傍)」であろう。
応神~仁徳天皇の時代、西暦に換算するには諸説あろうが、概ね3世紀半ばから4世紀の間にあると推測される。東アジアは激動の時代である。後漢が滅亡し(西暦220年)、三国(魏呉蜀)時代を経て朝鮮半島もそれまで漢の支配下にあった国がそれぞれ独立し群雄割拠の状態である。遠方の「高句麗」、近傍の「新羅」が戦略的膨張拡大の有様を述べていると思われる。
「美都具理能 那迦都延」=「三栗のような眞中の枝」中間がお好きなようで、これは日本の宿命かな? キーポイントである。この真中の国が「百済」である。運が良いのか、判っていたのか、知る由もないが、「百済」は4世紀に建国以来の隆盛を迎えることになる。「百済」と仲良くすることが大スター「髮長比賣」の輿入れなのである。
応神天皇、天皇としてのビジョンを明確に示された。彼らの日常は朝鮮半島の動向と全く切り離せない状況にあることが述べられている。当然と言えばそうであろうが、これほどあからさまに記述されていること、やはり読み手の問題であろう。「伊麻叙久夜斯岐」である。
「美豆多麻流 余佐美能伊氣」=「水のたまつている依網の池」である。「依網」=「海波と川波が相寄るところ」であり、「水がたまる」=「人々が集まる」と解釈される。大河が流れ込む湾に多くの人々が寄り集まった状況を表している。
ここで二つの「斯良邇」が登場する。「韋具比宇知賀 佐斯祁流」=「堰杙を打ってあった」、「奴那波久理 波閇祁久」=「ジュンサイを手繰って手の延びていた」の二つである。大勢の人が集まって来て育てた収穫物を守る手立て、またそれを盗もうとする者達、水辺に育つジュンサイ(蓴菜)は彼らが獲得した「ヒト、モノ、(カネ)」の寓意であろう。
そして「和賀許許呂志叙 伊夜袁許邇斯弖 伊麻叙久夜斯岐」=「氣のつかない事をして殘念だつた」と通訳する。「伊夜袁許邇斯弖」=「いやぁ、愚かにして」と直訳した方がもっと伝わる。何故天皇が知らない? これは別の国の話なのである。敵国ではないが、彼らが直接支配する国ではない。親戚のおじさん、いやおばさん?、達の国なのである。
と、こんな話を、「お前たち、よ~く聞け」と仰っている。極めて重要なことである。決して俺が見つけた女の子を横取りしおってからに、許せん…いや、いいよ、なんて他愛ない内容では、決してあり得ない。すぐ近くに危機が迫っているのである。
それをよ~く理解した仁徳さん、大スターのお姫様を頂き、「美知能斯理 古波陀」=「遠い國の古波陀」で二首も詠われるのである。「古波陀」通説不詳。だが、この「美知能斯理 古波陀」こそこの説話のキーワードである。
ヒムカのコハダのオトメ
それをよ~く理解した仁徳さん、大スターのお姫様を頂き、「美知能斯理 古波陀」=「遠い國の古波陀」で二首も詠われるのである。「古波陀」通説不詳。だが、この「美知能斯理 古波陀」こそこの説話のキーワードである。
「美知能斯理」=「道の尻」=「道の後方」である。彼らが日に向かって進んで来た道の後方、即ち「降臨した場所」である。「道の後方」=「高千穂の日向」となる。古田武彦氏の「高祖山」周辺を頂戴する。ここに記載の「日向国」=「福岡県糸島市」の一部であろう。上記の「水のたまつている依網の池」=「博多湾岸の池」となる。
「古波陀*」とは? 「古波陀」=「コハダ(小鰭)」である。コノシロの成長する時の別名である。朝鮮半島南西部では欠かせない食材、故郷の味である。日本の秋刀魚かな? 「百済」の所在地であった。「美知能斯理の最後方」=「百済」ではなかろうか。どうやらこの説話の「尻」に行き着いたようである。
少し後に新羅、百済からの渡来、朝貢の話が続く。百済からの移入に目を見張るものがある。朝鮮系の鍛冶屋、中国(呉)系の機織屋など、秦氏、漢直氏の祖だとか。和邇吉師による論語等々。新羅人は土木技術屋。朝鮮半島が混乱すれば倭に移住、である。
こんな業務報告だけではなく、その背景を歌で示してくれたんでしょうが、安萬侶くん、ちっとも伝わってなかったようですよ・・・。
邇邇芸命一派の応神天皇家と博多湾岸にある一家の存在を示している。<追記> 中国史書に残る「卑弥呼」一家なのであろうか。その影を垣間見せた説話である。また、邇邇芸命一派の発展に伴って朝鮮半島との繋がりも深まりつつあることを語る。「遠飛鳥」となるにはもう少し時間がかかるがその萌芽を示すものと理解できる。
…と、まぁ本日はこの辺りで・・・。
<追記>
2017.06.22「天孫降臨」の場所を修正。博多湾岸から遠賀川河口(古遠賀湾)へ。湯川山~孔大寺山~金山~城山(宗像四塚連峰とか?)の最高峰孔大寺山とした。
「日向(国)」はその東麓、福岡県遠賀郡岡垣町辺りにあったと思われる。邇邇芸命~神武天皇一家の統治可能範囲である。上記の「卑弥呼」一家に関連する記述ではなかった。
――――✯――――✯――――✯――――
古波陀*地形象形として紐解けたようである。詳しくはこちらを参照願う。
<古波陀(百済国)> |