2017年11月1日水曜日

応神天皇:『蟹の歌』再読 〔117〕

応神天皇:『蟹の歌』再読


「木幡村」の位置が全く異なってしまったら「蟹の歌」の読み直しを余儀なくされてしまった。労を惜しまず誤りは速やかに修正すること、と言って少々時が立ったが・・・。改めて原文より掲載。

古事記原文[武田祐吉訳]

故獻大御饗之時、其女矢河枝比賣命、令取大御酒盞而獻。於是天皇、任令取其大御酒盞而、御歌曰、
許能迦邇夜 伊豆久能迦邇 毛毛豆多布 都奴賀能迦邇 余許佐良布 伊豆久邇伊多流 伊知遲志麻 美志麻邇斗岐 美本杼理能 迦豆伎伊岐豆岐 志那陀由布 佐佐那美遲袁 須久須久登 和賀伊麻勢婆夜 許波多能美知邇 阿波志斯袁登賣 宇斯呂傳波 袁陀弖呂迦母 波那美波 志比斯那須 伊知比韋能 和邇佐能邇袁 波都邇波 波陀阿可良氣美 志波邇波 邇具漏岐由惠 美都具理能 曾能那迦都爾袁 加夫都久 麻肥邇波阿弖受 麻用賀岐 許邇加岐多禮 阿波志斯袁美那 迦母賀登 和賀美斯古良 迦久母賀登 阿賀美斯古邇 宇多多氣陀邇 牟迦比袁流迦母 伊蘇比袁流迦母
如此御合、生御子、宇遲能和紀郎子也。
[そこで御馳走を奉る時に、そのヤガハエ姫にお酒盞を取らせて獻りました。そこで天皇がその酒盞をお取りになりながらお詠み遊ばされた歌、
の蟹はどこの蟹だ。遠くの方の敦賀の蟹です。横歩きをして何處へ行くのだ。 イチヂ島・ミ島について、カイツブリのように水に潛って息をついて、高低のあるササナミへの道をまっすぐにわたしが行きますと、 木幡の道で出逢つた孃子、後姿は楯のようだ。 齒竝びは椎の子や菱の實のようだ。櫟井の丸邇坂の土を上の土はお色が赤い、底の土は眞黒ゆえ眞中のその中の土をかぶりつく直火には當てずに畫眉を濃く畫いてお逢いになつた御婦人、このようにもとわたしの見たお孃さん、あのようにもとわたしの見たお孃さんに、思いのほかにも向かっていることです。添っていることです
かくて御結婚なすつてお生みになった子がウヂの若郎子でございました]

「都奴賀能迦邇=敦賀(角鹿)の蟹」に例えて、高志前から出て来た、と言っている。仲哀天皇と神功皇后との御子だが、謀反を起こした香坂王と忍熊王を征伐し、禊に出向いた先の土地の神と名前を交換した説話があった。名前交換だけではなく入替ったような・・・未読であった名前交換の読み解きは後述する。

「毛毛豆多布」=「百伝う」=「数多く伝って」、海辺を伝って何処に行くのか?…二つの島を目指して進む。そこで「斗岐」=「鋭角に分岐する」と言っている。


伊知遲志麻=礎島(土台のような台形の島)=二先山
美志麻=三島(三つの頂きが奇麗に並んだ島)=簑島山

である。豊前の難波津、現在の今川河口に並ぶ二つの山がある。間違いなく当時は「島」であったと思われる。「角鹿」から「豊前の難波津」に至ったわけである。

そこから美本杼理(鳰:カイツブリ)」のようにして「志那陀由布 佐佐那美遅」まで川を遡る…「志那陀由布」=「凸凹の多い道」…


沙沙那美遲=沙沙(笹)|那(豊か)|美遲(道)=京都郡みやこ町犀川大坂笹原

と推定される。犀川(現今川)を上流へと遡り、犀川木山辺りで支流の松阪川に入ると「佐佐那美遅」に届く。ここで上陸して須久須久登」=「順調に、問題なく」進むと…


許波多能美知=木幡の道=田川郡赤村内田の小柳

比賣との出会いの場所に通じる、と詠っている。初見では犀川大坂笹原から木幡村とした現在の山浦大祖神社のある田川郡赤村赤田峰までは距離的に離れていなく、須久須久登」=「真っすぐに」通訳と同じとしたが、上記に修正である。

改めて読み返しても通説の「毛毛豆多布=遠くの」の訳は無理があるように思われる。「伊豆久邇伊多流」目指す二つの島の記述が決定的なのである。現在の類似地名からの解釈は困難と言い切れそうである。

修正した地図を示す…


木幡の比賣の美しさを述べたら休む間もなく「丹(辰砂)」について詠う。途中で修正した「伊知比韋」も併せて読み解くと…、


伊知比韋=壹比韋

丹の産出地、現在の赤村内田山の内である。やはり「邇=土」では全く歌の内容は伝わって来ない。次の「和邇佐能邇」の解釈を修正する。


和邇佐能邇=和邇(丸邇)|佐(支える)|能(の)|邇(丹)

「丸邇が促進するところの丹」を意味すると思われる。


伊知比韋能 和邇佐能邇=壹比韋にあって和邇が支える丹(朱)

と紐解ける。

これは極めて重要な言い回しである。壹比韋は丸邇にはない。


丸邇=丸(壹比韋)|邇(近い)

場所である。だから「佐=助ける、支える、促す」が付くのである。初見では「佐」=「その方面」を示す接尾語的な解釈をしたが、主旨は合っているとは言え、上記の「佐」の解釈がより当時の事情を表現していると思われる*

更に詠い続ける。この「丹」について、トンデモナイこと…化学変化に伴う色相の変化を、またそれを制御出来る…と述べているのである。驚きの内容である…と言うことで再度書き記した。

「波都邇波」=「外に現れている朱(赤色)」「志波邇」=「囲われている朱(黒色)」する。通訳は「上」「下」とする。状態的には間違ってないが、外気に触れているか、そうでないか違いを筆者は区別していると思われる。

「美都具理能 曾能那迦都爾袁」=「三栗のような間にある中の丹」を


加夫都久=火夫点く(火夫が火を付ける)

実際には少量を火で炙ったのであろう。赤(辰砂)と黒(黒辰砂)の間にある辰砂を加熱すると言っている。ビックリ仰天である。現在では「赤」を加熱すると「黒」に可逆的に変化することがわかっていて、結晶系が変化して変色するのである。勿論冷やすと「赤」に戻るが、微量の不純物に可逆の時間が依存する。

実際に採掘される下層の「黒」は不純物が多く含まれていることを考えると、中間の辰砂を用いることによりより純粋な「黒」を作り出すことができると思われる。併せて加熱して火傷をしない程度の温度にすることにより眉を引く時の塗布適性も向上するであろう。通説「かぶりつく」は意味不明。最も毒性の強い鉱物、かぶりついたら眉が引けない。

応神天皇の時代、既にこれだけの知識と技能を有していたこと「あさまし」である。また、化学史上極めて重要な記述と思われる。「あさまし古事記」である。当然渡金に欠かせない水銀(液状金属)と金とのアマルガムを作り、そのアマルガムを塗布後加熱して水銀を揮発させ、金張りを形成する、これが眩いばかりの仏像を世に出現させることになる。その水銀も製造していたのではなかろうか。

香春岳で産出する銅、鏡を作るのに不可欠な、「朱砂」また渡金に必要水銀、勿論、薬としての利用もあったであろう(殺菌作用)、国家権力に直結する立場を獲得することになる。それは自然の流れでもあったろう。

丸邇一族が力を持っていたこと、前記での「沙本」の反逆行動など応神天皇紀の歌からその背景を知らされる。「食」ではなく「衣住」に関するモノへの関心へと動いていることを伺わせる貴重な記述と思われる。

古事記本文は「宇遲能和紀郎子」が誕生すると結んで「蟹の歌」の段を終える。応神天皇の「丸邇」一族に対する思い入れが強く感じられるところである。

安萬侶くんの伝えたかったこと、歌を通じての国の力である。当時最も重要な技術を、誰が、何処で、何時、どの様にして育み発展させて来たかを述べているのである。1,300年の時が過ぎるまで、謎のままに過してきたことに悔いがあるのではなかろうか。

余談だが、眉毛を抜いて引眉としたのか、平安時代にはそうしていたとのことだが、おそらく当時も、であろう。どこかの歌の中に記述があるかもしれないが…未だ見つからず・・・。

…応神天皇紀を通しては「古事記新釈」の応神天皇【后・子】と【説話】を参照願う。


*大国主命及び山佐知毘古の説話に登場した「和邇」=「輪の形に近い」の解釈を適用すると「壹比韋」=「専ら囲いを備える」と繋がる。

通して解釈すると「専ら囲いを備えて輪の形に近い」場所となる。機密性の高いところであることを強調している解釈となる。

上記の意味と掛けているように思われる。(2018.03.21)