2017年4月18日火曜日

倭建命の東奔西走:その弐〔024〕

倭建命の東奔西走:その弐

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
いよいよ、古事記最高の英雄物語の始り。無理難題をその超人的能力で克服する、なんとも楽し気な内容なのですが、果たしてそうなのでしょうか…美しい倭比売に助けられて東方に飛んだ。国名、個別の地名など盛りだくさんの内容である。それだけに地名比定など、一つ一つ確実に・・・。

重要なスタート地点から考察してみよう。景行天皇の御所「纏向之日代宮」からであるが、この宮自体が決して明確ではない。「纏向」「日代」の二語を解釈する。通説は大和三輪山の東北にある巻向山の麓として簡単に説明されるが、文字の意味からは果たして妥当なところであろうか。様々な解釈が発生する所以である。

本ブログは福岡県香春岳を中心に「纏向」「日代」の意味を解釈する。「纏向」=「纏わりついて向く」=「山麓に近く、その正面を向けている」と読む。正面を向けているのは香春岳の三ノ岳(香具山)である。「日代」=「日が背」=「日が後ろ」、即ち三ノ岳に対して東からその正面を向けていて、朝日がその背を照らす宮と思われる。ほぼピンポイントの場所、現在の田川郡香春町鏡山という地名、金辺川と呉川が作る三角州の中である。

東奔(往路)


1.伊勢大御神宮/尾張国

「倭建命」が西方での言向和から帰って間もなく、今度は東方十二道だ、と景行天皇に言われたところから始まる<追記>

関連部の古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)を示すと…

故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、卽白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何擊遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御囊而詔「若有急事、解茲囊口。」故、到尾張國、入坐尾張國造之祖・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、悉言向和平山河荒神及不伏人等。[依って御命令を受けておいでになった時に、伊勢の神宮に參拜して、其處に奉仕しておいでになった叔母樣のヤマト姫の命に申されるには、「父上はわたくしを死ねと思っていらっしゃるのでしょうか、どうして西の方の從わない人たちを征伐にお遣わしになって、還ってまいりましてまだ間も無いのに、軍卒も下さらないで、更に東方諸國の惡い人たちを征伐するためにお遣わしになるのでしょう。こういうことによって思えば、やはりわたくしを早く死ねと思っておいでになるのです」と申して、心憂く思って泣いてお出ましになる時に、ヤマト姫の命が、草薙の劒をお授けになり、また嚢ふくろをお授けになって、「もし急の事があったなら、この嚢の口をおあけなさい」と仰せられました。かくて尾張の國においでになって、尾張の國の造の祖先のミヤズ姫の家へおはいりになりました。そこで結婚なされようとお思いになりましたけれども、また還って來た時にしようとお思いになって、約束をなさって東の國においでになって、山や河の亂暴な神たちまたは從わない人たちを悉く平定遊ばされました]

悲運の英雄、心優しき女性、ドラマチックな様相を醸し出して物語は始まる。で、いきなり「伊勢大御神宮」の登場。古事記中唯一の登場である。とは言え、あの「伊勢神宮」らしきところの在処が不明では解釈の迫力に欠ける? 少し丁寧に突き止めてみよう。

この「伊勢大御神宮」から次に向かうのが「尾張国」、この国は既に比定済みで、現在の北九州市小倉南区長野、貫周辺である(「三野国」を含めて前記はもう少し広い範囲の字を挙げたが、狭めて良いように思われる)。「倭建命」は間違いなく金辺峠越ルートを辿ったと思われる。前記の「無口な御子の出雲行き」で「品遅部」を置きながら歩いた道である。

この山間ルート上に残る地名に「志井」(北九州市小倉南区)がある。「志」は「志摩」に繋がる。現在の伊勢神宮が存するところ「伊勢志摩」である。「志摩市」は「伊勢市」の南側に接する。「志井」周辺を流れる紫川下流域の丘陵に「山田」という地名が残る(山田緑地)。「宇治山田」(現在伊勢市)と繋がる。

「宇治」=「内宮周辺」、「山田」=「外宮周辺」示すとある。前記で考察した「宇治」=「宇遅」=「内」、宇治の由来、あらためて確認できた。全て地名の「国譲り」であろう。現在の「蒲生八幡神社」(北九州市小倉南区)辺り「伊勢大御神宮」があった場所と推定される。これが「斎宮」なのか、古事記は語らない。

心優しき倭比売から慰めを頂き、剣を授かり、中身は不明だが頼りになりそうな袋を貰った。少しは気を取り直して直線距離6~7kmも歩けば、馴染みの尾張国へ到着。帰りの際には尾張の美しい姫を娶ろう、なんて勢いづけて旅だった、という流れである。

2.相武国

故爾到相武國之時、其國造詐白「於此野中有大沼。住是沼中之神、甚道速振神也。」於是、看行其神、入坐其野。爾其國造、火著其野。故知見欺而、解開其姨倭比賣命之所給囊口而見者、火打有其裏。於是、先以其御刀苅撥草、以其火打而打出火、著向火而燒退、還出、皆切滅其國造等、卽著火燒。故、於今謂燒津也。[ここに相摸の國においで遊ばされた時に、その國の造が詐って言いますには、「この野の中に大きな沼があります。その沼の中に住んでいる神はひどく亂暴な神です」と申しました。依つてその神を御覽になりに、その野においでになりましたら、國の造が野に火をつけました。そこで欺かれたとお知りになって、叔母樣のヤマト姫の命のお授けになった嚢の口を解いてあけて御覽になりましたところ、その中に火打がありました。そこでまず御刀をもって草を苅り撥い、その火打をもって火を打ち出して、こちらからも火をつけて燒き退けて還っておいでになる時に、その國の造どもを皆切り滅し、火をつけてお燒きなさいました。そこで今でも燒津といっております]

「相武國」=「相模国」される。現在の神奈川県に当たる。さて、そうであろうか? この国の特徴「沼」である。現在も多くの沼があり、地名自体も「沼」というところが見出せる。現在の北九州市小倉南区沼である。この地は入江が大きく入り込んだ場所であり、当時の海岸線は今よりかなり陸地側に後退したものであったろう。背後の山(高蔵山)の麓にあった国と推定される。

ここも前記の「鵠」の追跡で「科野国」としたところ、「相武国」は出現しなかった。一代前の垂仁天皇時代には未だなかった国なのか、「鵠」が居そうになく省略したのか…「言向和」の未達…これが「倭建命」のミッションなのである。

「尾張国」から「相武国」は水行であるが、特に記載はない。名も無き国造なんかの小賢しい策略などものともせず、あっさりと返り討ちに。倭比売の小物、役に立ったようで。比売は知っていたのか? そんな訳なし?。

「焼津」は「駿河国の焼津」したいところだが「国」が異なる。いえいえ、そんなところまで「倭建命」は赴いていないのでは? 残念ながら小倉南区沼には「焼津」の地名は残っていないようである。

そこから次の国に向けて「走水海」=「流速の大きな川、海」を渡るが、后の「弟橘比賣命」が身を挺して「倭建命」を助ける。ここもドラマチックなところ、それにしても英雄は女性の人気が高い。そして彼女らの助力が英雄を一層英雄らしくさせるのであろう。ん? 夫人同伴? それで尾張の姫と? そんな時代かも?・・・。

「焼津」の比定が困難な上に当時の地形とのギャップ、かなり曖昧さが残るところであるが、現在の「沼緑町」辺りから県道25号線沿いに水行及び陸行で「北九州市門司区吉志」辺りに向かったと思われる。この地が「邇比婆理 都久波」である。通説は「常陸の新治、筑波」と訳す。静岡県焼津からだとすると、とても尋常な距離ではない。これが罷り通ってきたこと、だから複数の英雄の寄せ集めと…驚きである。

3.常陸新治筑波/足柄坂本/甲斐/東国

一気に四つの地名が出現する。少々複雑なルートではなかろうか・・・。

自其入幸、悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等而、還上幸時、到足柄之坂本、於食御粮處、其坂神、化白鹿而來立。爾卽以其咋遺之蒜片端、待打者、中其目乃打殺也。故、登立其坂、三歎詔云「阿豆麻波夜。自阿下五字以音也。」故、號其國謂阿豆麻也。
卽自其國越出甲斐、坐酒折宮之時、歌曰、

邇比婆理 都久波袁須疑弖 伊久用加泥都流

爾其御火燒之老人、續御歌以歌曰、

迦賀那倍弖 用邇波許許能用 比邇波登袁加袁

是以譽其老人、卽給東國造也。[それからはいっておいでになて、悉く惡い蝦夷どもを平らげ、また山河の惡い神たちを平定して、還ってお上りになる時に、足柄の坂本に到って食物をおあがりになる時に、その坂の神が白い鹿になって參りました。そこで召し上り殘りのヒルの片端をもってお打ちになりましたところ、その目にあたって打ち殺されました。かくてその坂にお登りになって非常にお歎きになって、「わたしの妻はなあ」と仰せられました。それからこの國を吾妻とはいうのです。 その國から越えて甲斐に出て、酒折の宮においでになった時に、お歌いなされるには、

常陸の新治・筑波を過ぎて幾夜寢たか。

ここにその火を燒いている老人が續いて、

日數重ねて、夜は九夜で日は十日でございます。

と歌いました。そこでその老人を譽めて、吾妻の國の造になさいました]

その常陸の新治、筑波で「悉言向荒夫琉蝦夷等、亦平和山河荒神等」、「言向平和」したのである。現在の「吉志」から少し先は「恒見」という地名になる。「恒(見)」=「常(陸)」である。「倭建命」の東方最終到達地点である。

これから引き返すのであるが、同じルートではない。引き返して最初の場所が「足柄之坂本」である。「足柄」=「足搦(アシガラ)ミ」勾配、距離等きつい坂道を上る様子を示したものであろう。そんな場所、現在の北九州市門司区恒見から小倉南区吉田に抜ける道がある。通説だと神奈川県足柄上郡から富士吉田市へと抜ける道に該当するのであろう。

この小倉南区吉田が「東国」となる。この国、現在の地名下吉田、から東北方向に山を越えると「甲斐国」に到達する。「甲斐」の「斐」は「挟まれた間」を象形する。「甲」=「山」とすると「甲斐」=「山に挟まれたところ」となろう。既に「山の狭(カイ)」と解釈されたことがあるが、この場所はその通りの地形を表していると思われる。

その国にある酒折宮にて御一腹されていよいよ折返しに取り掛かる。「淡海」を水行すれば一気に「纏向の日代宮」にご帰還だが、「倭建命」は帰りながら更に山の手の神を「言向和平」なされるのである。

今日のところの地図を参考までに…。


さて、次回は晴れて凱旋、とはいかずに悲しい結末を辿ることになりそう・・・。



<追記>

2017.08.02
爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之祖・名御鉏友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。[ここに天皇は、また續いてヤマトタケルの命に、「東の方の諸國の惡い神や從わない人たちを平定せよ」と仰せになって、吉備の臣等の祖先のミスキトモミミタケ彦という人を副えてお遣わしになった時に、柊の長い矛を賜わりました]

景行天皇から東方に行けと命じられた時の前文に重要な文字が潜んでいた。「比比羅木之八尋矛」である。「比比羅木」とは上記の「柊」の木であろうか?…いくら固い棘があっても矛となり得るのか?…この矛盾の解消のために矛は実戦用具ではなかったとまで脱線する。それで良いのか?…混迷の極みであろう。

では、矛の産地を示すのであろうか?…そうとしたら何処であろうか?…その後に大国主命が「比比羅木之其花麻豆美神」を娶るという記述が出現した。「比比羅木」は場所である。「木=山陵」の地形象形であろう。「比比」=「物事が並び連なるさま、一様に同じような状態であるさま(どれもこれも)」とある。山の並びが示されている、と解釈できる。

が、特定には至らない。調べると「比比羅木の八尋矛根底附かぬ国=新羅国」(播磨国風土記逸文)の記述があることがわかった。「八尋矛根底附かぬ国」=「八尋矛が台につかない国」=「戦闘ばかりしている国」と紐解ける。となると「比比羅木」=「同じような高さで並び連なる山がある」を掛ける国が「新羅国」となる。

この国の場所は朝鮮半島南東部、文献によると半島の75%は山岳地帯だが平均標高は482m2,000m以上の山はなく1,915mが最高とある。分水嶺が東部海岸近くにあり、東高西低の地形、西に向かって緩やかに傾斜する。地図で確認するとその通りの「比比羅木」であることがわかる。


「比比羅木之八尋矛」は本家本元の「新羅国」で作られた銘刀、いや、銘矛であった。安萬侶くん、省略するのも程々にせよ、今じゃ、この日本では「比比羅木=柊」で通ってるではないか。新羅国が関連するところまでは紐解けても、その意味するところは闇の中である。なんとも口惜しい・・・。

この銘矛は使われなかった、尾津の一本松に忘れたから。新羅の力を借りずに「言向和平」したことの象徴かもしれない。いや、そうしたかったのであろう。次期天皇の時代には凱旋報告をするのだから。