2017年4月17日月曜日

倭建命の東奔西走:その壱〔023〕

倭建命の東奔西走:その壱


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
「倭建命(ヤマトタケルノミコト)、日本書紀では「日本武尊」と表記される。日本古代史上の伝説的英雄である。通説に従えば、確かに出雲から東国(相模国、甲斐国など)まで、その活躍の範囲を考えれば、である。既に本ブログで記述してきたように古事記で記載される国々は、通説のような場所ではなく、九州の東北部にある。

安萬侶くんの伝えたかったことは何であったのか? 古事記原文に従い読み下していくことが肝要である。幾度か記述してきたように、通説では伝わらなかった古代の日本の有様が見えてくるように思われる。正に「国譲り」と「禊祓」の歴史なのである。

とは言うものの、この英雄の足跡に、俗説も含めて、比定された場所は大変な数にのぼる。古事記に記載された地名に複数の場所が発生することにもなる。それもこれも、良しである。古代史における矛盾を解き明かし、現実の世界、その将来へと止揚することが本ブログの目的だから。

先ずはその生立ちである。景行天皇の御子、父親の真意を読み取れず、なんとも乱暴な性質であることが述べられる。天皇自身の身の危険を感じさせる出来事である。だから賢明なる天皇はどうしたか? 国の発展に如何に彼を使ったか、それによって支配する領域の平定に彼がどう寄与したかを述べているのである。決して「小碓命(倭建命)」は天皇にならないのである。

記述には多くの地名が登場する。西方、東方という概念も出現する。通説は奈良の大和を中心として西、東とするが決してそのような大雑把な括りではないと思われる。例によって逐次に読み下してみよう。

西走


「西方有熊曾建二人」で始まる勅命を受けた「小碓命」はいとも簡単に目的を果たしてしまう。やり方は、これも通例の宴会中に懐から剣、である。叔母の「倭比賣命」の衣装で女装をして、である。熊曾建の最後の言葉が安萬侶くんの伝えたかったことである。

古事記原文[武田祐吉訳]

爾其熊曾建白「信、然也。於西方、除吾二人無建強人。然於大倭國、益吾二人而、建男者坐祁理。是以、吾獻御名。自今以後、應稱倭建御子。」是事白訖、卽如熟苽振折而殺也。故、自其時稱御名、謂倭建命。然而還上之時、山神・河神・及穴戸神、皆言向和而參上。[そこでそのクマソタケルが、「ほんとうにそうでございましよう。西の方に我々二人を除いては武勇の人間はありません。しかるに大和の國には我々にまさった強い方がおいでになつたのです。それではお名前を獻上致しましよう。今からはヤマトタケルの御子と申されるがよい」と申しました。かように申し終って、熟した瓜を裂くように裂き殺しておしまいになりました。その時からお名前をヤマトタケルの命と申し上げるのです。そうして還っておいでになった時に、山の神・河の神、また海峽の神を皆平定して都にお上りになりました]

西方には熊曾建兄弟以上に強い者はいない、と述べさせている。西方とは、その領域は極めて曖昧である。古事記は西方の記述が極端に少なく、また記述する必要性を持たないことを示しいる。前記したように「日向国(博多湾岸、糸島半島周辺)」に国があるが、彼らの支配する場所ではないことからも、彼らと並立する場所なのであろう。

「山神・河神・及穴戸神、皆言向和」ら推測する。熊曾建らが居る場所は山、河、宍戸である。「宍戸」が地形的に当て嵌まる場所は、現在の北九州市若松区高塔山公園及び戸畑区都島展望公園に挟まれた「淡海の海峡」であろう。山の方は北九州市八幡東区小「熊」野という地名が残っている。「(宍)戸」=「戸(畑)」と繋がる。

板櫃川などが洞海湾に流れ込む場所であり、「出雲国」の西方にある。この場所を「言向和」して、「倭建命」という尊大な名前を頂戴して「出雲国」に入る、と述べている。「宍戸」は、通訳が困り果てて当てた「海峡」などという一般名称ではなく、場所を特定する極めて重要な意味を示している。

では西方の東限はどう定義されるのであろうか? 東限は現在の企救半島の西部、山塊の稜線を境とする、前記22番の「出雲国」と半島東部の「高志国」との境を意味するものと解釈される。

西方東限の国、出雲の出来事が続く…

卽入坐出雲國、欲殺其出雲建而到、卽結友。故竊以赤檮、作詐刀爲御佩、共沐肥河。爾倭建命、自河先上、取佩出雲建之解置横刀而、詔「爲易刀。」故後、出雲建自河上而、佩倭建命之詐刀。於是、倭建命誂云「伊奢、合刀。」爾各拔其刀之時、出雲建不得拔詐刀。卽倭建命、拔其刀而打殺出雲建。爾御歌曰、

夜都米佐須 伊豆毛多祁流賀 波祁流多知 都豆良佐波麻岐 佐味那志爾阿波禮

故、如此撥治、參上覆奏。[そこで出雲の國におはいりになって、そのイヅモタケルを撃とうとお思いになって、おいでになって、交りをお結びになりました。まずひそかに赤檮いちいのきで刀の形を作ってこれをお佩びになり、イヅモタケルとともに肥の河に水浴をなさいました。そこでヤマトタケルの命が河からまずお上りになって、イヅモタケルが解いておいた大刀をお佩きになって、「大刀を換えよう」と仰せられました。そこで後からイヅモタケルが河から上って、ヤマトタケルの命の大刀を佩きました。ここでヤマトタケルの命が、「さあ大刀を合わせよう」と挑まれましたので、おのおの大刀を拔く時に、イヅモタケルは大刀を拔き得ず、ヤマトタケルの命は大刀を拔いてイヅモタケルを打ち殺されました。そこでお詠みになった歌、

雲の叢り立つ出雲のタケルが腰にした大刀は、 蔓を澤山卷いて刀の身が無くて、きのどくだ。

かように平定して、朝廷に還って御返事申し上げました]

前記で考察した通り「出雲国」現在の北九州市門司区大里周辺の地域を指す。そこで起こった出来事は相変わらず姑息な策略であった。三人目のタケルも敢無くお亡くなりになったとのことである。「肥川」の文字遊び…「肥(フトル)川」=「肥(フト)川」=「太川」=「大川」なのかもしれない。

良かにお詠いなった歌の「夜都米佐須(ヤツメサス)」は出雲の枕詞とあり、「八雲立つ」に置換えれている。安易である。「夜都米佐須(ヤツメサス)」=「八つ布(メ)さす」=「大きな昆布が繁る」である。「ヤクモタツ」への変化は無理である。門司は和布刈り神事が残る場所であり、「淡海」に特徴的な大きくて歯ごたえのある昆布の産地となり、現在も鳴門ワカメは有名である。古事記の示す「出雲国」は島根の方にはない。

古事記の「出雲国」の場所は確定したようである。そしてそこが「西方」の東限であり、企救半島の東側は「東方」と表すことがわかった。都を中心とした発想ではなく、古事記の中での定義であろう。またそれが彼らの共通の認識であったと思われる。

図示すると…



西方を「言向和」した「倭建命」、やれやれと思ったら、なんと今度は東方に行けと言われる。ボヤキながらも命に背くわけにもいかず、僅かな手勢を率いて赴く羽目になるが、次回に・・・。



<追記>

2017.05.04
「熊曾国」比定の再考:現在の企救半島北部

2017.09.14
熊曾国の詳細参照。