2017年8月28日月曜日

葛城孝安・孝霊天皇の興隆 〔088〕

葛城孝安・孝霊天皇の興隆

葛城の地は順調に開墾されたいったのであろう。生まれる御子の数も少なく内輪の争いも起こらず、政治は国内に目を向けた平和な状態を醸し出していた、と思われる。こんな状態が一番安全だが、長くは続かないのが世の常、いずれは大きな変化を迎えることになる。

日嗣の孝安天皇は、なんと宮を葛城室之秋津嶋宮に置いた。高みより下を眺めて悦に入っていた、とは言い過ぎであろうが、彼以前の天皇達とは異なりずっと長生きをするのである。秋津嶋宮から眺める葛城の地に棚引く稲穂の光景は気持ちの良いものであったろう。

古事記原文…

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。天皇御年、壹佰貳拾參歲、御陵在玉手岡上也。

そっと一人の御子を吉備に派遣する。長らくの御無沙汰の地に向かっても根付くには少々時間がかかる。「大吉備諸進命」の名前、諸々取進める、やることが沢山あったであろう、苦労を背負った御子であるが、それが次に繋がることを心に秘めていたのであろう(吉備国下図参照)。

大事なことは、目が吉備…鉄…に向いていること。彼からもたらされる情報が次に為すべきことを教えてくれる。古事記は唐突に記述、としながら、実は着実に物語が進行していることを登場人物の名前で伝えているのである。見逃してはならないところである。<追記>

と言いつつ、「玉手岡上」に眠っている。


(勾玉のような)|(の形をした)|岡上(岡の上)

と読み解ける。現在の福岡県田川郡福智町上野常福にある特徴ある地形をした岡の上である。綏靖天皇が坐した高岡宮に近接し、葛城の中心地を形成したところである。


孝霊天皇紀に移る…古事記原文…

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命*、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。

「黑田廬戸宮」の在処については既に考察を加えた。「黒田」=「豊かに泥の詰まった田」として池()の水に支えられ、治水ができた場所を示すと解釈された。現在の「常福池」の近隣であろう。「廬戸宮」と言う表現も彼らの慎ましやかな生活を示そうとしているのかもしれない。<追記>

漸くにして複数の娶りが発生する。十市縣*、春日の比賣及び前記の淡道之御井宮に居た和知都美命の二人の比賣が登場する。十市縣は既出で現在の田川郡赤村赤、東西南北の十字路がある地を中心としたところとした。古代の交通の要所と思われる。春日は前記の通り同郡赤村内田中村であろう。

残り二人の比賣、既出ではあるが補足すると、「意富夜麻登玖邇阿禮比賣命*」及び「蠅伊呂杼」の在所は何処であったろうか?…「意富(出雲)」「夜麻登(山登り)」として「玖邇阿禮」は…


(三つの頂の山)|邇(近く)|阿(台地)|禮(祭祀する)

…「風師山近くの台地で祭祀する」比賣と紐解ける。出雲で山を登って辿り着く場所、現在の北九州市門司区にある小森江貯水池近隣と推定される。「小森江子供のもり公園」となっているところである。


この地は須佐之男命の御子の大年神、その御子羽山戸神の子孫である夏高津日神、秋毘賣神」が住まっていたところである。対岸の淡道嶋の御井に居た和知都美命がこの地の比賣を娶って誕生したのであろう。

異なる表現で同一場所を示す。これによってその場所の位置がかなり精度高く推定できるようになる。古事記はその手法を頻度高く採用しているのである。また、「夜麻登(山登り)」が汎用の表現であり、決して固有の地名を示すものではないことが判る。他国の史書解読にも関連して「ヤマト」は一般的な表現と思う、という説が従来よりあるが、根拠は希薄であろう。古事記がそのものズバリに答えているのである。1,300年間それに振り回された日本の歴史とは一体何なのかと思いたくなる有様である。

さて、娶りの場所が出雲へと発展したと解釈される。また、それだけ余裕が生まれたことも推し量ることができる。更に重要なことは「吉備国」対応の主要中間地点「淡道」の確保が確約されることである。彼女達が産む御子、二名は吉備臣の祖となって国の発展に貢献する運命を背負うことになる。

本当かい?…と言いたくなるような周到な手配である。武器調達、農耕器具も合せて国力の増大に備える準備が整ったと古事記が伝えている。既に記述したが、


第七代孝霊天皇紀は大きな時代の転換期

であったことを更に確信することができる。間違いなく葛城の地は興隆の時期を迎えたのである。

古事記は上記の段に続いて二人の御子、「大吉備津日子命」「若日子建吉備津日子命」が吉備国を「言向和」した説話を伝える。針間爲道口」の解釈など興味深い内容であることを既に紐解いた。吉備国に入るにはこの「針間」を通る。吉備国の在処の特定に重要な示唆を与えてくれた記述である。

あらためて振り返ると、吉備上道臣、吉備下道臣の上下の臣の記述、現在に残る吉見上、吉見下の地名との合致は感嘆に値する。更に笠臣の「笠→龍」の置換えに気付いたことも加わる。吉見の地の古代があからさまにされることを祈るばかりである。


「日子刺肩別命」が「高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直之祖」となる記述も各地の主要地点をズラリと並べた読み解き難解文字の羅列であった。懐かしく思い出す。暇が取り柄の老いぼれの「古事記の国々」地図の中にしっかりと位置付けられている。

天皇御年、壹佰陸。御陵在片岡馬坂上也」と記述されて孝霊天皇紀は終わる。天皇一家の興隆を実感として眠っておられることであろう。「片岡馬坂上」とは現在の田川郡福智町弁城、岩屋神社辺りであろう。大きく広がる「玉手岡」の一段低くなった端を指し示していると思われる。

既に紐解きが済んだ地名が多くあるリンクした元のブログを参照願いたい。繰返しになるが、第七代孝霊天皇紀より倭国は隆盛の勢いを獲得することを古事記は伝えている、と思われる。

…と、まぁ、欠史はまだまだ続く・・・。

<追記>

2017.08.30
「常=床」の解釈を用いて、


常福=常(床:大地)・福(豊かなこと)

と読み解ける。上記「黒田­=豊かに泥の詰まった田」と同義と思われる。


2017.09.06
大倭根子日子賦斗邇命の「賦斗邇」は、


賦役で作らせた柄杓の地に近いところ

と紐解ける。そもそもの柄杓の地形であるが、常福池を作りその近くに坐したと解釈することができる。孝霊天皇の宮の推定、ほぼ確実であると思われる。「黒田」という各地に存在する地名からの比定は、やはり危険である。

2017.09.07
大倭帶日子國押人命の「國押人」=「大地に手を加えて田にする人」と読み解ける。


押=手+甲(甲羅の象形:田)=手を加えて田にする

真に現実的な表現であろう。彼に事績は無い。しかし既に推察した通り、着実に干からびた蔓の皮のような葛城を「田」にしていたのである。名前に刷り込まれていた。大切であり、見逃してはならないことであった。


2018.02.21
意富夜麻登玖邇阿禮比賣命*
文字解釈の修正。初見の写しを下記する…、

意富(出雲)・夜麻登(山登り)・玖邇(黒身近で)・阿禮(生きている)・比賣命

と区切れそうである。「黒」が身近にあるところ、現在の北九州市門司区伊川の奥にある、


平山観音院辺り

を示しているのではなかろうか。山間の決して広くはないが平地があり、大坪川の上流、複数の支流が流れる場所である。山奥の孤立無援の地のように見えるが標高差100m強を越えれば移動できるところでもある。

後の世の歴史に埋もれてしまっているが、歴史の地層に、間違いなく、人が刻んだ跡が残っているところであろう。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ「筑紫嶋」の紐解きが現状のままである限り、その地層が露出することはないのであろうか。少々暗い気持ちに陥る考察となった。



市縣*
孝霊天皇の娶りに「十市縣主之祖大目之女・細比賣命」が登場する。「十市縣」の詳細を記述する数少ない表記である。紐解いた結果を示す。詳細は古事記新釈のこちらを参照願う。

十市縣は「登袁」として現在の田川郡赤村赤、東西南北の十字路がある地を中心としたところとした。古代の交通の要所と思われる。

「大目」は「魚の目」と紐解いて突起と解釈する。上記の赤い破線が示すところと思われる。

「細比賣(クハシヒメ)」は「細」=「糸+田」として「糸のように細い田が並んでいる」とすると、上図が示すところと思われる。


前記の比定場所に近く、「十市縣」の場所としては修正の必要はないようである。具体的な地名(人名)の登場で確度が高まったようである。(2018.04.11)


日子刺肩別命*

風師山の山の形状を熟知しなければ到底紐解きは…言い換えれば古代に於いてそれができていなければ…全く為し得なかった命名であろう。

その頂上の拡大図を示す。最も西側にある「頭」が「刺」が刺さったように突出している様が見て取れる。

「別」が付く名前は領地を持つことを表すと思われる。彼の居場所は風師山西麓、現在の北九州市門司区片上町辺りと推定される。「片」↔「肩」ではなかろうか…。

日子(稲)|刺(突出した)|肩(山稜の肩)|別(地を治める)

…「突出した山稜の肩の麓で稲が実る地を統べる」命と解釈される。風師山西麓は稀に見る急斜面であり、麓は海が間近に迫る地形とである。この限られた地を開拓するには相当の技術が必要であったと推測される。(2018.04.23)