2017年5月30日火曜日

『欠史八代』の天皇:その壱〔042〕

『欠史八代』の天皇:その壱


神倭伊波禮毘古命は畝火山麓に漸くにして辿り着き「天皇」となった。そこは大和にある畝傍山ではなく九州福岡県田川郡香春町にある、今は昔の姿を留めることもない山であった。邇藝速日命から天孫の印である「瑞宝十種」を受け取り、騒がしい葦原中国の平定作業の第一歩が完了したと古事記は伝える。

では彼に続く天皇達はどうしたのであろうか? 通説は「欠史」と表現し彼らの事績の少なさを示している。確かに古事記の記述量のみを見れば後代の天皇達と比較して、束にして簡略表記である。が、今までにも記述した通り古事記の簡略さとことの重要性とは無関係である。

間違いなく古事記に書き残す事柄は少なかったのであろうが、何かを伝えている筈である。それを紐解いてみよう。第二代~第九代の天皇の「宮」と皇后の出自関連の古事記原文[武田祐吉訳]を示す。長くなるが一通り目通し願う

神沼河耳命、坐葛城高岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・河俣毘賣、生御子、師木津日子玉手見命。[カムヌナカハミミの命(綏靖天皇)、大和の國の葛城の高岡の宮においでになって天下をお治め遊ばされました。この天皇、シキの縣主の祖先のカハマタ姫と結婚してお生みになった御子はシキツ彦タマデミの命お一方です]

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命自伊下三字以音、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。[シキツ彦タマデミの命(安寧天皇)、大和の片鹽かたしおの浮穴の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇はカハマタ姫の兄の縣主ハエの女のアクト姫と結婚してお生みになった御子は、トコネツ彦イロネの命・オホヤマト彦スキトモの命・シキツ彦の命のお三方です。この天皇の御子たち合わせてお三方の中、オホヤマト彦スキトモの命は、天下をお治めになりました]

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命自訶下四字以音、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。[オホヤマト彦スキトモの命(懿徳天皇)、大和の輕かるの境岡の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇はシキの縣主の祖先フトマワカ姫の命、またの名はイヒヒ姫の命と結婚してお生みになった御子は、ミマツ彦カヱシネの命とタギシ彦の命とお二方です。このミマツ彦カヱシネの命は天下をお治めなさいました]

御眞津日子訶惠志泥命、坐葛城掖上宮、治天下也。此天皇、娶尾張連之祖奧津余曾之妹・名余曾多本毘賣命、生御子、天押帶日子命、次大倭帶日子國押人命。二柱。故、弟帶日子國忍人命者、治天下也。[ミマツ彦カヱシネの命(孝昭天皇)、大和の葛城の掖上わきがみの宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は尾張の連の祖先のオキツヨソの妹ヨソタホ姫の命と結婚してお生みになった御子はアメオシタラシ彦の命とオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命とお二方です。このオホヤマトタラシ彦クニオシビトの命は天下をお治めなさいました]

大倭帶日子國押人命、坐葛城室之秋津嶋宮、治天下也。此天皇、娶姪忍鹿比賣命、生御子、大吉備諸進命、次大倭根子日子賦斗邇命。二柱。自賦下三字以音。故、大倭根子日子賦斗邇命者、治天下也。[オホヤマトタラシ彦クニオシビトの命(孝安天皇)、大和の葛城の室の秋津島の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は姪のオシカ姫の命と結婚してお生みになった御子は、オホキビノモロススの命とオホヤマトネコ彦フトニの命とお二方です。このオホヤマトネコ彦フトニの命は天下をお治めなさいました]

大倭根子日子賦斗邇命、坐黑田廬戸宮、治天下也。此天皇、娶十市縣主之祖大目之女・名細比賣命、生御子、大倭根子日子國玖琉命。一柱。玖琉二字以音。又娶春日之千千速眞若比賣、生御子、千千速比賣命。一柱又娶意富夜麻登玖邇阿禮比賣命、生御子、夜麻登登母母曾毘賣命、次日子刺肩別命、次比古伊佐勢理毘古命・亦名大吉備津日子命、次倭飛羽矢若屋比賣。四柱。又娶其阿禮比賣命之弟・蠅伊呂杼、生御子、日子寤間命、次若日子建吉備津日子命。二柱。此天皇之御子等、幷八柱。男王五、女王三。故、大倭根子日子國玖琉命者、治天下也。[オホヤマトネコ彦フトニの命(孝靈天皇)、大和の黒田の廬戸(いおと)の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇、トヲチの縣主の祖先のオホメの女のクハシ姫の命と結婚してお生みになった御子は、オホヤマトネコ彦クニクルの命お一方です。また春日のチチハヤマワカ姫と結婚してお生みになった御子は、チチハヤ姫の命お一方です。オホヤマトクニアレ姫の命と結婚してお生みになった御子は、ヤマトトモモソ姫の命・ヒコサシカタワケの命・ヒコイサセリ彦の命、またの名はオホキビツ彦の命・ヤマトトビハヤワカヤ姫のお四方です。またそのアレ姫の命の妹ハヘイロドと結婚してお生みになった御子は、ヒコサメマの命とワカヒコタケキビツ彦の命とお二方です。この天皇の御子は合わせて八人おいでになりました。男王五人、女王三人です。 そこでオホヤマトネコ彦クニクルの命は天下をお治めなさいました]

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・色許男命色許二字以音、下效此妹・色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。[オホヤマトネコ彦クニクルの命(孝元天皇)、大和の輕の堺原の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は穗積の臣等の祖先のウツシコヲの命の妹のウツシコメの命と結婚してお生みになった御子は大彦の命・スクナヒコタケヰココロの命・ワカヤマトネコ彦オホビビの命のお三方です。またウツシコヲの命の女のイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子はヒコフツオシノマコトの命お一方です。また河内のアヲタマの女のハニヤス姫と結婚してお生みになった御子はタケハニヤス彦の命お一方です。この天皇の御子たち合わせてお五方おいでになります。このうちワカヤマトネコ彦オホビビの命は天下をお治めなさいました]

若倭根子日子大毘毘命、坐春日之伊邪河宮、治天下也。此天皇、娶旦波之大縣主・名由碁理之女・竹野比賣、生御子、比古由牟須美命。一柱。此王名以音。又娶庶母・伊迦賀色許賣命、生御子、御眞木入日子印惠命印惠二字以音、次御眞津比賣命。二柱。又娶丸邇臣之祖日子國意祁都命之妹・意祁都比賣命意祁都三字以音、生御子、日子坐王。一柱。又娶葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣、生御子、建豐波豆羅和氣。一柱。自波下五字以音。此天皇之御子等、幷五柱。男王四、女王一。故、御眞木入日子印惠命者、治天下也。[ワカヤマトネコ彦オホビビの命(開化天皇)、大和の春日のイザ河の宮においでになって天下をお治めなさいました。この天皇は、丹波の大縣主ユゴリの女のタカノ姫と結婚してお生みになった御子はヒコユムスミの命お一方です。またイカガシコメの命と結婚してお生みになった御子はミマキイリ彦イニヱの命とミマツ姫の命とのお二方です。また丸邇の臣の祖先のヒコクニオケツの命の妹のオケツ姫の命と結婚してお生みになった御子はヒコイマスの王お一方です。また葛城のタルミの宿禰の女のワシ姫と結婚してお生みになった御子はタケトヨハツラワケの王お一方です。合わせて五人おいでになりました。このうちミマキイリ彦イニヱの命(崇神天皇)は天下をお治めなさいました]

「宮」在処別に纏めてみると(天皇略)

葛城3(綏靖、孝昭、孝安)
 :2(懿徳、孝元)
片塩1(安寧)黒田1(孝霊)春日1(開化)

となる

「葛城」は既に仁徳天皇の后「石之比売」が故郷に思いを馳せながら詠った歌から、「葛城高台御殿=現在の筑豊緑地、近くには鹿毛馬神籠石跡もある。后の場所はこの辺り」と推定したところである。あらためて「葛城」について考察してみよう。

葛城


その後「筑紫嶋」を企救半島に比定し、東南部に「科野国」があったと思われた。倭建命の「東方十二道」などに出現する場所として極めて整合性のある比定かと思われる。現在の地名は「北九州市小倉南区葛原」である。足立山東南麓は急峻な斜面を有し、竹馬川に面する。当時は縄文海進で曽根地区は海であり、川と海とが混然となった場所でもあった。古事記に出現する「依網」と言われるところであろうか。


また、その東側には特徴的な場所「沼」と言われる地域が現在も残っており、斜面の急峻さにより河川の水は滝のごとくに流れ去り、凹地に溜めない限り、土地は乾いた状態となってしまうところである。自然に、あるいは人為に作られた溜池が「沼」という表現となっていると思われる。

ほぼ同じような地形を有するところがある。福岡県田川郡福智町の福智山塊西側斜面が相当する。「大倭豊秋津嶋」の西側である。彦山川に面し、当時は同じく川と海の混然となった土地であった。また、現在も同様に「沼」が多く存在しているところである。

この地形的に酷似した場所、それに「葛」という共通の言葉が使われているのである。「葛」の原義は「曷(カツ)」=「乾いた状態を表す」である。川水がゆったりと流れ湿地を形成する状態と真逆の状態を示している。水はあるが、なんらかの手を加えなければならないところでもある。

「葛城」=「葛代」=「乾いた状態の山のうしろ」と解釈される。現在の福智町域は彦山川を挟み、筑豊緑地、鹿毛馬神籠石跡の中腹~麓までである。境界までは定かではないが、「石之比売」の「葛城」は、天皇達の川向こうの山地にあったのだろう。「大倭豊秋津嶋」で欠けている古事記の地名ピースがまた一つ埋まった。

「宮」は「高岡宮」「掖上宮」「秋津嶋宮」である。名称だけで比定する危険性はあるが、試みると以下の通りである。

高岡宮 :福智町弁城にある須佐神社辺り。山麓の小高い丘の上にある。
掖上宮 :「掖」=「脇」。山の斜面を見た時に谷の部分を「脇」と表現したのであろう。
それらしく、くっきりとしたところは福智町上野にある福智中宮神社辺りであろう。
秋津嶋宮:「室」=「岩屋」である。福智町弁城にある岩屋神社辺りであろう。福智山山塊の中
     腹にあり、これぞ、秋津嶋、と言ったところであろうか。「大倭豊秋津嶋」の比定に
     合致した表記である。

地図で示すと…

地図を参考にするとこの地が如何に水田等の穀物の栽培に不適なところかが鮮明になって来る。まさに現在の北九州市小倉南区の吉田及び門司区の吉志、猿喰等の地と類似し、灌漑、治水の事業なくしては人が住めるところではなかったと言える。

そして企救半島には既に多くの渡来があったが、まだ、この地は未開の地であったと推測される。邇藝速日命虚空見日本国、それを示している。「倭」は出来上がっていた地ではなく、多くの未開の地を周辺に持つところであった。

…と、まぁ、今日はこの辺で・・・。


<全体を通しては「古事記釈」を参照願う>