2017年6月29日木曜日

仲哀天皇:日の本の夜明け前〔056〕

仲哀天皇:日の本の夜明け前


邇邇芸命の降臨場所を特定することができた。古事記が「史書」としての役割を担うことができるならば、どうしても一に決められなければならないところである。何故ならそれが神話から歴史への転換点であり、時空を現実のものに変換することが可能になるからである。

それにしても全てを調べたわけではないが孔大寺山系を取り上げた例を見出すことは不可で、この文字が現れるのは「宗像」に関連する場合に限られる。遠賀川河口付近が早期に開けたところであった、という認識は共有されてはいるが、それを時空に位置付ける作業が欠かせないのである。

景行天皇紀の小碓命の活躍によって古事記が描く領域が隈なく統治の対象となった。残るは熊曾国唯一つ、といったところであろうか。彼らから「建」の名前を譲り受けても統治には程遠い関係にあった。果たしてその後の対応は? 引き継いだ仲哀天皇の時世となる。

仲哀天皇の宮は「穴門之豐浦宮及筑紫訶志比宮」である。「穴門之豐浦宮」について詳細に記述したが、補足する。「穴門」は“直観的に”「関門海峡」とされる。確かに地形的に合致した表記であろうし、殆ど異論を述べた記述は見当たらない。この「穴門」という文字は古事記中に一度、当該の箇所のみである。

「関門海峡」に比定できる文字は「穴戸」である。「戸=門」とするのであろうか? これも古事記中にたった一度だけの出現である。小碓命が「言向和」した熊曾国の神々の中に「穴戸神」の表記がある。「言向和」しても言うことを聞かない連中の集まり、それが熊曾国、と述べている。

熊曾国に「穴戸」がある。「戸=門」とするなら「穴門」は熊曾国の中にあることになる。仲哀天皇は既に熊曾国に居た? 全く不合理な結果に陥る。更にこの国は筑紫嶋の一つの面にある。本州にはない。熊曾国は企救半島北部、関門海峡の南側に位置すると結論付けられた。

これらの矛盾は「戸=門」と勝手に解釈することに起因する。「穴戸≠穴門」であり「山の登口に向かう道」とし、「豊浦」=「豊(国の山)の浦(背後)」と紐解いた。現在の新仲哀トンネルに向かう国道201号線沿いは、正に筑紫嶋の南方(豊日)にあり、また数々の「仲哀」と冠する地名が今も残るところである。

「筑紫訶志比宮」は現在の北九州市小倉北区の妙見宮辺りとし、仲哀天皇の二つの宮は決して本州下関市長府辺りにはなかった、と結論付けた。とあるサイトの方に言わせれば、「穴門之豐浦宮」は古事記解読の「定点」であって動かし難く決定的な比定とされる。それはそれとして、大切なことは、古事記記述において、矛盾するや否やである。

仲哀天皇の娶り関係、御子達の活躍の記述は少なく、神功皇后及び建内宿禰の説話に終始する。前天皇の取った戦略とは全く異なる。皇后の手を煩わした朝鮮半島へのデモンストレーションとその成果としての渡来人達の増加であろう。

それにしても数少ない御子の謀反? 大中津比賣を母親に持つ二人、香坂王と忍熊王は神功皇后への反発があったのでろうが、今は幻想の中である。勝ち組の品陀和氣命(後の応神天皇)の禊祓の説話、建内宿禰がその御子を高志に向かわせたという、既に記述したが、その高志について追加の考察をしてみたい。

高志前之角鹿・高志之利波


第七代孝霊天皇紀にも関連するところがあり、併せて記述するが、御子の「日子刺肩別命*」は高志之利波臣、豐國之國前臣、五百原君、角鹿海直の祖になったと記載されている。吉備に注力した天皇ではあるが、この御子の活躍は見逃せないものであった。詳細後述するが、草創期に既に主要な技術、原料等がある場所を押さえに入った、と述べているのである。

「高志前之角鹿」の「角鹿」は? 「高志国」として「猿喰」辺りを漠然と中心に捉えてきたが、いよいよその細部を突き詰める時が来たようである。あらためて「高志」と冠される地域を調べて見よう。古事記の地形象形の確かさに対して、依然と比べてより深まった信頼を基に行う作業である。

企救半島東側で鹿の角ように半島が海に突き出したところは、一か所見つかる。現在の地名、北九州市門司区喜多久である。前述の高志国の中心と思われた「猿喰」の前にある。前記では「高志前」=「越前」との関連を述べたが、律令制後の「前中後」の表現、大和を中心としたものではないようである。

あくまで海に向かってその国より前にあるか否やの表記であろう。海から向かう時には手前になる。二つの大きな半島に挟まれ、奥まったところにある「角鹿」=「喜多久」とはどんなところであろうか? 今に残る「多久」に面影を求めてみる。

「多久」=「栲(タク)」と置換えると、「栲」=「こうぞ」即ち樹皮の繊維から糸・布・紙を作る、原料を意味することがわかる。調べると「高来」などの残存地名もこれを意味するとのこと。この地は糸・布・紙を作る原料及びその加工の技術を保有していた、と推測される。「角鹿」は紡織、紡績の場所であった。

少し奥まったところに「貴布祢神社」=「貴船神社」がある。「船」を「布祢」で表す。当時の舟には布は不可欠である。多くの思いが詰まった表現ではなかろうか。「帆」が作れなくては国の発展を望めない、輸送手段の確保である。「日子刺肩別命」が「角鹿海直」となった、なんだか出来過ぎのような物語である。

では「利波(トナミ)」はどうであろうか? 越中富山の「砺波」であろうか? それは「国譲り」後のこと。この一般的な表現の紐解きは難しい。あれこれ考えて・・・「利(ト)」=「斗(ト)」としてみると、繋がりました。「斗(ト)」=「柄杓(ヒシャク)」、「角鹿」の南隣が「柄杓田」という地名になっている。現地名は北九州市門司区柄杓田である。見るからに良港の地形を示している。


「利波」という簡明な名前を「柄杓田」に「国譲り」しなければならなかった、当時の思いはどんなものであったろうか? 

それは、まだまだ先に読み解く事柄、が、思わずにはいられない気分である…。

さて、「日子刺肩別命」は残り二つの「祖」となっている。簡単に記すと「豊国之国前」は前記したように神武天皇が向かった「豊国宇沙」、現在の行橋市天生田・大谷付近であろう。

「五百原」は「五百(木)の原」と思われ、現地名、北九州市若松区竹並辺り、頓田貯水池の近傍と推測される。凹凸はあるものの当時としては植物の栽培に適した土地柄であったろう。<追記>

前記のごとく輸送手段としての舟の部材、そして港の確保を、その目的に適った土地を選択して行った経緯が述べられていると思われる。その戦略の一貫性は見事である。

話が外れるが、倭の領域はこの「角鹿」を北限としていたことがわかる。現在の地名である北九州市門司区黒川…「熊曾国」の中心…がその後ろの山に迫っている。また一つ「国境」ラインが見えてきた。

この国に仲哀天皇は拘った。色々思いもあったであろうが、結果的にはそれで命を縮めたようである。未だに熊曾が…取巻きの心はもっと先に目が行った。この選択の良否は?…いずれ解き明かせねばならないことであろう。

上記したように仲哀天皇紀は神功皇后及び建内宿禰の説話が中心であるように思われるが、時代の転換期であろう。孝霊天皇紀から始まった領土拡大の発展が一段落して彼らの目に朝鮮半島が入ってきたようである。当時の先進国であり、彼らの出自に関るところでもあり、必然的にその地との関係に気が取られることになる。

皇后と内宿禰との説話は既に記述した。「角鹿」の場所など一部訂正しながら先に話を進めよう…。

…と、まぁ、行ったり来たりですが・・・。


<追記>

2017.09.23
「五百原」の場所修正。「原=腹」として「山の中ほど、あるいは魚の子袋」と解釈し、現在の北九州市若松区大池町・古前辺りとした。洞海湾の入口近くの場所である。

→再度の修正。「五百原」は現在の企救半島南部、後に「科野国」と呼ばれた地、現地名北九州市小倉南区葛原辺りと比定する。


五百原=五百(多くの)|原(腹:段々の田)


…と紐解ける。「科野」の表現と矛盾しないものと思われる。大国主命の後裔「天日腹大科度美神」で読み解いた「棚田」に類似した記述と思われる。(2018.04.23)

日子刺肩別命*

風師山の山の形状を熟知しなければ到底紐解きは…言い換えれば古代に於いてそれができていなければ…全く為し得なかった命名であろう。

その頂上の拡大図を示す。最も西側にある「頭」が「刺」が刺さったように突出している様が見て取れる。

「別」が付く名前は領地を持つことを表すと思われる。彼の居場所は風師山西麓、現在の北九州市門司区片上町辺りと推定される。「片」↔「肩」ではなかろうか…。

日子(稲)|刺(突出した)|肩(山稜の肩)|別(地を治める)|命

…「突出した山稜の肩の麓で稲が実る地を治める」命と解釈される。風師山西麓は稀に見る急斜面であり、麓は海が間近に迫る地形とである。この限られた地を開拓するには相当の技術が必要であったと推測される。(2018.04.23)