速須佐之男命の後裔:その肆
大国主命の後裔の続きと羽山戸神の後裔について述べてみよう。なかなか紐解きがいのある文字列が続く。古事記原文を再掲すると…、
故、此大國主神、娶坐胸形奧津宮神・多紀理毘賣命、生子、阿遲二字以音鉏高日子根神、次妹高比賣命、亦名・下光比賣命、此之阿遲鉏高日子根神者、今謂迦毛大御神者也。大國主神、亦娶神屋楯比賣命、生子、事代主神。亦娶八嶋牟遲能神自牟下三字以音之女・鳥耳神、生子、鳥鳴海神。訓鳴云那留。此神、娶日名照額田毘道男伊許知邇神田下毘、又自伊下至邇、皆以音生子、國忍富神。此神、娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名・八河江比賣、生子、速甕之多氣佐波夜遲奴美神。自多下八字以音。此神、娶天之甕主神之女・前玉比賣、生子、甕主日子神。此神、娶淤加美神之女・比那良志毘賣此神名以音生子、多比理岐志麻流美神。此神名以音。此神、娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字、花下三字、以音之女・活玉前玉比賣神、生子、美呂浪神。美呂二字以音。此神、娶敷山主神之女・青沼馬沼押比賣、生子、布忍富鳥鳴海神。此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神。右件自八嶋士奴美神以下、遠津山岬帶神以前、稱十七世神。
大国主命の後裔は先祖と同じく「天」に向かうのである。肥河の傍らに積み重なるように住処を求めていてはその先は「天」しか見えなかったのであろうか・・・。
天之甕主神之女・前玉比賣
「甕」がまた登場するのであるが「天」には矢筈山のような山は存在しない。どうなることやら…垂直方向の「甕」ではなく水平方向で「甕」と見る、というか実際にはこちらの「甕」の方が現実的なような気もするが・・・。壱岐市勝本町百合畑触にある「大清水」に目を付けた。誕生したのが「甕主日子神」と言う。
Ⅲ-3-6. 甕主日子神
「甕主神」の比賣の名前が「前玉比賣」とある。下図を参照願うが、この池の周辺に丘陵が丸くなって連なっているところがある。それの先にある方の「玉」を示していると思われる。「甕主日子神」が誕生する。この神が「淤加美神之女・比那良志毘賣」を娶って「多比理岐志麻流美神」が生まれる、と続けられる。
淤加美神之女・比那良志毘賣
「闇淤加美神」(谷の龗神)と紐解き、前記で大河の「肥河」を示すと解釈した。おそらく天安河(谷江川)を示すと思われるが、場所の特定には至らない。比賣の名前から先に紐解くことにする。「比那良志毘賣」は…、
比(並んで)|那良(平らな)|志(之:蛇行した川)|毘(田が並ぶ)|賣(女)
…と紐解ける。「並んでいる平らな丘陵の傍に蛇行する川があって田が作られている」ような地形を求めると…「天」で「志=之」ができるところは限られ、谷江川の河口付近であろう。すると現地名の壱岐市芦辺町中野郷仲触にある突き出た二つの丘陵が見出せる。
淤加美=龗=雨+龍(天安河:谷江川)
…を示している。「肥河」も同じ「龗」である。長く蛇行して流れる大河、それは「龍」と伝えているのである。
Ⅲ-3-7. 多比理岐志麻流美神
御子の名前がまたまた文字の羅列である。一文字一文字…、
多(田)|比(並ぶ)|理(区分けされた田)|岐(分かれる)|
志(蛇行する川)|麻(摩:近い)|流(広がる)|美(地形)
…となる。「並べて区分けされて田が分かれ、蛇行する川の近くで広がる地形」の神と紐解ける。現地名は芦辺町諸吉大石触・仲触辺りであろう。この神は「比比羅木」に飛ぶ。
どうやら出雲を出た時も「港」の近くに座した神は遠くへと飛ぶ。言い換えると彼の居場所が交流の拠点であったことを伝えているのではなかろうか。また河口付近へと追い込められていったとも解釈できる。当時の河口は交通の拠点かもしれないが、決して人が住めるところではなかったであろう。
出雲の肥河、天安河の河口が当時の、後者は現在も、重要な交通の地点であったことが判る。大国主命までの記述は複雑怪奇と読まれ、通説は何処かの伝説の挿入のような解釈である。全くの誤りであろう。彼の時代までは「天」を拠点とした時代から抜け切れていないのである。当然その地の表現は後代とは異なるのである。
そして、何と何と、比比羅木!!
…の登場。現在は「他国」である。その地の詳細を知ることはできるのであろうか?…古事記の表現の「ルール」は守られているのであろうか?…些かの不安もあるが紐解いてみよう。その前に「天」の地図である。神岳の南方、少々離れたところをグルっと回った様子である。
「比比羅木」の詳細は前記(比比羅木の神々)を参照願う。誕生した御子の名前と地図のみ下記に再掲する。天神達の思惑とは全く異なる方向にむかったのである。あろうことか元の鞘に収まってしまったと伝える。これは一体どうなっているのか?…と他人事ながら心配な状況なのであるが、その後「天」に戻って来る。それを一応紐解いておこう。
Ⅲ-3-8. 美呂浪神
Ⅲ-3-9. 布忍富鳥鳴海神
「天」に戻って…「此神、娶若盡女神、生子、天日腹大科度美神。度美二字以音。此神、娶天狹霧神之女・遠津待根神、生子、遠津山岬多良斯神」と記述は続く。
この女神の名前「盡(尽)」の解釈は一般的過ぎて特定するには困難であろう。続く御子達の紐解きを優先して考えてみることにする。御子の名前は「天日腹大科度美神」とある。この名前も決して簡単ではないが、一つの候補として紐解きを試みると…、
…「日」の解釈であろう。「火の形の山腹に大きく段差が広がる姿」の神と紐解ける。「火」とすると現地名「火箭の辻」に関連する。現地名の由来はともかくとして下図に示したようにこの地が「火」の形をしていると思われるからである。更にその山腹に多くの棚田が作られている。後代に発展したものであろうが、その元になった「段差」それが作られるために必要な水源などが揃っていたのではなかろうか。
ならば「若盡女神」は上図の本宮八幡神社近隣と推定できる。その先にある本宮山の西麓は海に落ちる断崖である。地が尽きるところという表現になるかと思われる。
日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」はタンス浦と思われる。
「天狹霧神」の居場所は現在のR382が通り勝本港に降りる「切通」の近隣と推定できる。伊邪那岐・伊邪那美が生んだ三十五神の一人、実体のある「天」に住まう神であった。現地名は勝本町西戸触である。「戸」は今に残る狭まった地形の表現ではなかろうか。
Ⅲ-3-11. 遠津山岬多良斯神
御子の遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」は…、
…「山がある岬の傍らに田があって穏やかに蛇行した川が流れる」神となる。現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。上記「天」の神を纏めて下図に示した。
「多良斯神」で長い後裔の記述は終わる。大国主命の段は出雲(葦原中國)、「天」と比比羅木の深い繋がり、交流の経緯を述べたものである。彼らは何代にも亘り娶りを交差させて来たようである。記述されたことはほんの一例に過ぎないであろう。そう考えると如何にこれら三つの拠点を中心とする海洋文化圏が間違いなく存在していたことが伺える。古事記はその「事実」を書き記した書物だと結論付けられる。<Wikipedia 参照>
若盡女神
Ⅲ-3-10. 天日腹大科度美神
日(火)|腹(山腹)|大(大きく)|科(段差)|度(渡:広がる)|美(姿・形)
…「日」の解釈であろう。「火の形の山腹に大きく段差が広がる姿」の神と紐解ける。「火」とすると現地名「火箭の辻」に関連する。現地名の由来はともかくとして下図に示したようにこの地が「火」の形をしていると思われるからである。更にその山腹に多くの棚田が作られている。後代に発展したものであろうが、その元になった「段差」それが作られるために必要な水源などが揃っていたのではなかろうか。
<天日腹大科度美神> |
<壱岐勝本町本宮山> |
天狹霧神之女・遠津待根神
日腹大科度美神が天狹霧神之女・遠津待根神を娶る。「天」の「遠津」とは?…多比理岐志麻流美神が坐した近隣の現在の芦辺港に対しての「遠津」はタンス浦と思われる。
<天狭霧・神遠津待根神・遠津山岬多良斯神>(詳細) |
御子の遠津山岬多良斯神の「山岬多良斯」は…、
山岬(山がある岬)|多(田)|良(穏やかに)|斯(之:蛇行した川)
…「山がある岬の傍らに田があって穏やかに蛇行した川が流れる」神となる。現地名は勝本町坂本触辺りと思われる。上記「天」の神を纏めて下図に示した。
<大国主命の娶りと御子④:天> |
ここで古事記の記述は途切れる。大国主命は多くの御子を誕生させたが、彼らは出雲に住処を求めなかったのである。むしろ出戻りの向きに足先を向けた。「天」に戻っても高天原の裏側にしか安住の地を得ることができなかった。出雲の多藝志之小濱に隠居した大国主命、建御雷之男神に言向和された後に後裔達の住処はなかったのであろう。これが古事記が記す「八嶋士奴美ー大国主」の系列である。
Ⅳ. 羽山戸神の系譜
「大年神」の御子の一人「羽山戸神」の娶りと御子が記述される。大国主命よりも何世代も以前の系譜である。言い換えると彼が出雲で活躍をするずっと以前に羽山戸神らはその地に根を生やしていたということになろう。で、名前の紐解きに入ったがかなり趣の異なった表現であった。書き手が異なる?…かもである。
羽山戸神、娶大氣都比賣自氣下四字以音神、生子、若山咋神、次若年神、次妹若沙那賣神自沙下三字以音、次彌豆麻岐神自彌下四字音、次夏高津日神、亦名、夏之賣神、次秋毘賣神、次久久年神久久二字以音、次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音。上件羽山之子以下、若室葛根以前、幷八神。
名前が示すのは豊かな「食肉」のイメージには変わりないと思われる。
「若咋」「若年」は「大山咋神」「大年神」に因んだ命名であろう。「沙那」=「海辺が豊か」で羽山近隣の海岸線を示すのではなかろうか。
彌豆麻岐=彌(大きく広がる)|豆(凹凸のある)|麻(近接する)|岐(分かれる)
さて、次から記述される四季の名前は何と解釈できるであろうか…「夏」の文字の字源はやや複雑である。夏祭りで舞う姿からとか…この文字の頭の部分が平坦な形(冠に由来)が山頂の形を模しているのでは?・・・。
風師山の頂上である。これに気付くのに時間がかかった。風師山が登場するとは、ちょっと想定外であった・・・羽山の上にある山だから当然と言えばそうなのだが・・・。「夏高津日神」は…、
夏(風師山)|高津(高いところの川の合流点)|日神(日々の神)
…現在の羽山にある小森江貯水池の上方にある。「夏之賣神」とも言われる。次の「秋」は?…風師山の頂上は全くの平坦な地形ではなく、「火」の形をしていることが判る。これを表現したのではなかろうか。同じところに住まう姉妹と思われる。
少々先の話になるが孝霊天皇紀に「夜麻登登母母曾毘賣命」が登場する。紐解いた結果を下図に示す。風師山は「風頭山」とも言われるそうである。由来は定かでないが、「風が吹いて来る方向にある」とか言われるようであるが、「風」=「扇子」である。扇子の先の折り畳みを示していると思われる。見事な命名ではなかろうか。
「久久年神、久久紀若室葛根神」に含まれる「久久」とは?…「速甕」である。「甕」二つ縛ったような山:矢筈山と紐解いた。この山の別表現と解釈される。「久久年神」はこの山の西麓辺りの水田であろうが「久久紀若室葛根」は…「久久=矢筈山」として…、
紀(初め)|若(まだ小さい)|室(岩屋)|葛(乾いたところ)|根(地下)
…「矢筈山の登り初めに小さな洞穴があって地下が渇いている」場所で、急傾斜の斜面に沿った地の神を示していると紐解ける。神子達の居場所を図に示すと…、
大国主命の系列は新羅まで回って結局は「天」の西海岸で落ち着いてしまったようである。一方の大年神ー羽山戸神の系列は早期に、肥河流域を除き、出雲の大部分を、更に北部の要所も抑えた配置となっていたようである。これらの出雲における二系列の記述は何を意味しているのであろうか?…また古事記は複雑怪奇な文字使いを行って、何を伝えようとしたのか?…次回に纏めて見よう・・・。