2017年8月29日火曜日

葛城孝元天皇の布石 〔089〕

葛城孝元天皇の布石


孝元天皇は「時が来た」と判断しなかった。土地の開拓は順調で十分な財力を生んでいたのであろうが、吉備の「鉄」は未熟、時間がかかる作業であったと思われる。今暫く様子を伺い時が熟するのを待つ、という選択をした。そして葛城の地に留まるのではなく、再び「軽」に飛んだ。

「輕之堺原宮」は既に考察を加えたところである。この時は決定的な決め手がなく「境岡」「堺原」の地形からのみで「境岡」近隣の地を候補に挙げたが、見直してみると孝元天皇の選択はより「淡海」に近付き、より豊かな実りが得られる場所へと向かったように感じられる。それを実行できる力が備わっていたのである。

劒池


更に、御陵の場所「劒池之中岡上」まさかこんな淡海間近にまで進出していたとは思われなかった場所に「劒池」現在名


小野牟田池(福岡県直方市頓野・感田)

があった。地図を参照願うが「剣」である、しかもまるであの「七支刀」を絵に描いたような姿をした池…絶句である。今の地形であって、当時とは異なる?

 

雲取山の西麓が延びた場所の標高、最低でも10m以上はある。当時との地形に大きな差があるとは思われず、稜線が削られてできた自然の造形美とでも言える地形を示している。後代には農業用に加えて洗炭水、更には製鉄工業用水として利用するために何らかの手が加えられたようであるが、形状に変化を及ぼすものかどうか、定かでない。

カルスト台地など極めて特徴的な地形を古事記が示してきたが、この地もそれに匹敵するほどの特異さである。この地に行き着いた本ブログの地名比定の確からしさを感じる。「中岡上」とは上図標高36.4mの西尾神社辺りではなかろうか。通説の奈良県橿原市石川町にある石川池では断じてない。そこに御陵もない。

二本の稜線の脇を流れる川(近津川、尺岳川)がつくる平地は更なる豊かな実りを約束する場所であったろう。孝元天皇の事績は無し、と通説は言うが、この地に目を付け発展の礎を確固たるものした天皇に真に失礼な言草であろう。境岡、境原これらは莫大な財力を天皇家にもたらした、と結論付けられる。見事な戦略と言える。<追記>

古事記原文…

大倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許、此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。

比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

後に大活躍の説話が記述される「大毘古命」の名前などが見えるが、何と言っても「比古布都押之信命」が儲けた「建內宿禰」であろう。彼の子供達の活躍については纏めて後述する。

那毘


比古布都押之信命が娶る相手の名前に地名が潜められているとみて紐解くと、「意富那毘」の「那毘」=「奇麗な臍」出雲国の「波多毘」であろう。針間之伊那毘から推察し、現在の北九州市門司区城山町辺りとしたところである。山の稜線の裾が一旦凹んで再び小高くなる地形の象形である。

その妹が「葛城之高千那毘賣」とある。葛城にある「那毘」を示す。山裾の「臍」の形…稜線が一度凹んで再び小高くなる…をした場所、探すと直方市永満寺辺りを示していると思われる。地図を参照ねがう(「毘」標高152の東)。葛城の山であることから「高千」を付けたのであろう。





次の相手が「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」建内宿禰の登場である。「木国」の詳細は未詳なのであるが、これを読み解いてみよう。「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…「宇」=「山の稜線が小高くあるその麓」と紐解いてきた。


豆=多くの凹凸がある地形
 
である。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。その少し南側に「東下」(現地名同町東下)の地名が見える。「山下影」に関連すると思われる。古事記が記述する東南の端、境の山国川西岸である。


豆と木

「阿岐豆野」「小豆嶋」に始まり「豆」の形は種々あれど、多遲麻の「伊豆」木国の「宇豆」等、豆で表現される地形の多さが目立つ。「五百木」「師木」との差は「豆」の大きさ、高さによるのだろうか、地形象形の判定基準など求めてみても面白いかも、である。

神懸かりな建御雷之男神とは異なり、最強の武将を伺わせる「大毘古命」、高志道回りの彼と東方十二道回りの息子「建沼河別命」が「相津」で遭遇、感動の説話があった。現在の北九州市門司区今津にある二つの小山を英雄親子に見立てた記述はなかなかのもの、ドラマ中の名場面の一つに数えられるものであろう。

感動を思い出したところで、次回に移ろう、建さん一家の行く末である。

…と、まぁ、古事記と地図、感動の日課である・・・。



<追記>

2017.09.06
感動を一つ取り残していた。大倭根子日子國玖琉命の「國玖琉」の解釈である。地名絡みではないように感じて手を付けなかったが、地形象形以外の重要なことを意味していた。


國玖琉=國(大地)・玖(黒い石(玉))・琉(飛び出る)

これ、地表面に露出した石炭のことを述べている。筑豊炭田の真っ只中、上記で後代には洗炭池としても利用もあった「劒池=現在名小野牟田池」と記述したが、石炭のそのものの記述がなされていたのである。

「境岡宮」ほどピンポイントでの比定は不可であるが、この池の周辺に「堺原宮」があったことは間違いないと思われる。

石炭を火力としての使用記録は15世紀になる。古事記は一切語らないが、そこに「黒い石石炭、たぶん?」があったことは記録として残していたのである。何という感動、見方が違えば最大の感動物語かもしれない。歌でいいから火を付けて欲しかった、安萬侶くん。[直方市石炭記念館]

いずれにしても関連するキーワード、軽、堺(境)、劒池、國玖琉等の繋がりから孝元天皇は石炭の地に居たことが判明した。遠賀川周辺領域の地形変化もさることながら歴史的変遷の凄まじさに改めて驚かされた。そこが現在の日本の原点であることも頷けるように感じられる。