2017年8月30日水曜日

建内宿禰一族 〔090〕

建内宿禰一族


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
さて、「建內宿禰之子」の記述に移ろう…古事記原文…

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

ずらりと並ぶ祖の名前、圧倒されるが読み解くと圧巻の内容とわかる。今回もきっと期待を裏切らないものと信じて取り掛かろう。例によって各宿毎に初めに求めた現地名を記す。本件、日本書紀は無口である。

波多八代宿禰


波多():二夕松 林():小森江 波美():大里東
星川():永黒 淡海():羽山 長谷部(君):奥田

これら全て北九州市門司区に属する地名である。「波多」現在は細かく分かれた行政区分であるが、その中心にあったと思われる「羽山」とした。勿論「羽山=端の山」である。「林」は「森」の置換えと見做した。少し難解なのが「波美」=「波()・美()」として、肥河(大川)の河口付近と解釈した。

「星(=日)・川」は「肥河」そのものであろう。当時の「州」となる前の場所である「永黒」が該当すると思われる。「淡海」はそれに面した「御大之御前」のあった地名とした。「長谷部」は既に解いた淡島神社に向かう「長い谷」であろう。ところでこの宿禰の名前に「八代」とある。何を意味するのであろうか?…そのまま読めば…、

(谷)|(背にある)

…「谷を背にする」と解釈される。「波多」は極めて急傾斜の地であり、多くの谷川が流れている。また、「波多」に限らず彼が祖となった地は全て同様の地形を示す。風師山、矢筈山の麓をぐるりと取り囲んだような地名が並んでいるのである。出雲の北部、建一族が入り込んだのである。


許勢小柄宿禰


「許勢小柄宿禰」はこの段にしか登場しない。「許勢」からは地名の情報は得られないが「小柄」と祖となった名前から容易に紐解けた。決して小柄な人ではありません。「許勢」=「山麓の地勢」と読み解く。「許(モト)」=「元、下」から「山の下(麓)」とする。

許勢():感田 雀部():笹田 輕部():下境・赤地・溝堀

全て直方市の地名である。


許勢小柄=山麓の地勢が小さな柄杓の柄

…と解釈する。「軽」の地の近傍、実に大きな「斗=柄杓」金剛山と雲取山の山稜がつくる特徴的な地形である。金剛山は「淡海之佐佐紀山」で出現した山である。その大きな柄杓に対して小さな柄となっている山稜が延びた丘陵が「許勢」と呼ばれたのであろう。

「雀部」は以前に特定した「笹田」。「軽部」は現在の行政区分を示した。既にここは「淡海」であった。だが既に支配下に治めつつあったことも示されている。上記の孝元天皇の「輕之堺原宮」の在処は「劒池」の東岸、直方市頓野にある近津神社辺りにあったのではなかろうか。「頓野」に広がる「原」である。

 
蘇賀石河宿禰


歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述である。心して紐解こう。祖に「蘇我」と記述しながら「蘇賀」と書く。意味があると思われる。「賀=入江」に面したところである。「小治田」が示す地は既に特定し、京都郡苅田町にあるところ、そう神倭伊波礼比古が熊野村から八咫烏に道案内されて出てきたところである。

蘇我():稲光 川邊():稲光/鋤崎 田中():稲光
高向():法正寺 小治田():葛川 櫻井():山口 岸田():片島

「石河」は何を意味するであろうか?…苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川「白川」の由来に「川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態」と言うのが知られている。

石河=白川

である。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。神武天皇が八田の住人に案内されて通過した地はその後建内宿禰一族が開拓したのである。

「阿多」=「阿蘇」と置換えられることを既に示した。ならば「多賀」=「蘇賀」ではなかろうか。この多賀神社は「白山多賀神社」と言う。白山→石河及び語順を入れ替えれば、そのものの表現となる。紐解いてみて深い関連性に驚きを隠せない有様である。間違いなく「蘇賀石河宿禰」はこの地に居た。

「川邉」はその文字に従って川べり、「葛川」は白川の支流ではなく小波瀬川に注ぐ川である。「田中」は最も田の豊かなところ、「岸田」はその小波瀬川合流地点の近傍と思われる。「高向」は背後に平尾台の山地が聳え、また、多賀神社に向かう登り口でもある。「小治田」は既出、治水のされた田があるところ。

少々ややこしいのが「櫻井」特定されていない地名、残りは八田山の入口、現在はダムまで造られた上流の場所である。何故「櫻井」?…


(佐:促す)・くら(倉=谷)・い(水源)

と紐解く。「山口」にある上記のダムの辺りであろう。後には「八田」と呼ばれるところである。


上記したように歴史に名を刻んだ「蘇我一族」であろうが、日本書紀には古事記に関連する記述はなく、また古事記中の蘇我臣との繋がりも定かでない。なんとも消化不良な有様、それが実態なのであろうが、口惜しいところではある。

様々な解釈が横行し、混沌としている。解き明かしてみたくもあるし、少々戸惑う気分でもある。「近淡海国」の傍にある極めて重要な地点に蘇我氏が居た。これを事実として今後の解釈に向かおう。

平群都久宿禰


「平群」は通説に従い…地形象形として…現在の田川市、田川郡に横たわる丘陵地帯である。さてその中に求める地名があるのか、勿論そのまま残っているとは思えないが…。「都久」=「衝く(田)」で丘陵地帯の開拓に努めた宿禰かもしれない。

平群():大任町大行事 佐和良():田川市奈良 馬御樴():川崎町安真木大ヶ原

田川市以外は田川郡に属する。大任町は大行事と任原との合併で生じた地名のようである。元の大行事辺りが「平群」の中心地だったのであろう。


「佐和良」=「沢のようなところ」

と読み解くと、現在大浦池があって中元寺川に向かって流れる蓑田川沿いの地、「奈良」が該当するところかと思われる。

「奈良」は解釈困難な文字であるが「那羅」とも古代では表記されるとすると「安らかな地」と読み解ける。いくつかの地方にもある命名で一つに限られたものではないが、「佐和良」の地形象形は間違いなく現在地を示していると思われる。

「馬御樴」「樴」=「杭」である。文字の意味するところは「牧場」牧畜の行われていたところではなかろうか。「日向之諸縣君牛諸」の居た地と類似する地形を探すと、上記の大ヶ原に目が止まった。現在も牧場がある草原地帯であろう。師木には届かないが、その周辺をしっかり押さえている様子がわかる。

木角宿禰


木国の祖となる人物の登場である。

():築上郡上毛町 都奴():豊前市中村 坂本():築上郡築上町坂本

「木」が示す場所は上記「木國造之祖宇豆比古」の在所及びその近隣であろう。「都奴」=「角」とすれば現在地名は「中村」であるが「角田八幡宮」「角田小・中学校」「角田公民館」などなど旧角田村の名前が残っている。古事記記載の由緒ある名前、消さないで・・・。木角はこの


角田

が本拠地だったか。

「坂本」はそのものズバリで残っているようである。「木角宿禰」が居た地域、北は城井川、南は山国川に挟まれた地となる。木国の背後は山深い山岳地帯である。豊な材木資源で倭国に貢献したということであろう。古事記の中で地味ではあるが欠かせない位置付けのように感じられる。

葛城長江曾都毘古


謂わば「Mr. Katsuragi」であろう。文字通りに葛城の中心地、現地名の田川郡福智町を押さえる。

玉手():上野常福 的():弁城浄万寺 生江():上野大谷 阿藝那():伊方久六

「玉手」は前記の「玉手岡」であろう。「的」は地形象形「勺」形のところである。「生江」は彦山川の入江を形成していたと思われる「手」の掌に当たる場所である。「阿藝那」は葛城の端にある丘陵地であろう。様々な説話の中で記載された地名を読み合わせて解ける地名である。だが、見事に合致することがわかた。


「長江」の解釈は上図の「人差し指」と「中指」の間、上図の「大谷」と記載されているところを表しているように思われる。傍を流れる福智川流域は葛城の中でも早期に開発された地域と推測される。後進の荒野から新興開拓の先進地としての位置を獲得するのであろう。

若子宿禰

 
江野財(臣):喜多久(北九州市門司区)

最後の宿禰である。しかしこれが何とも意味不明・・・「江野財臣」を…「財」=「貝+才」=「子安貝の形をした山稜」とすると…、


(入江の)|(野原の)|([貝]の形)
 
と紐解いてみる。子安貝を象形した文字を山稜の地形に用いていると解釈される。古事記中に「財」の使用は幾度か登場するが全て同じ解釈と思われる。(2018.04.14)

大きな入江とそこに広がる野を有し、良質の木から布を紡織するところは「角鹿」現在の「喜多久」と読み解いた。以前とは異なる表現をする。

解けてみれば更なる情報と地名特定の確度が高まるのであるが、やはり疲れる…。他の史書から現在の石川県に関連するという情報もある。場所は違えど通じるかも、である。

流石に建内宿禰一族である。古代の要所をキチンと抑えている。彼らが天皇家を支え発展させて行ったことを建内宿禰の度々の登場に映し出しているのであろう。彼らの拠点としたところを地図に示してみよう…



正に倭国の周辺に建内宿禰一族の息がかかった場所を作り上げたと言うべきであろう。後代の倭建命に匹敵する古事記の扱いである。

…と、まぁ、葛城物語を卒業した、出来たかな?・・・。