2017年7月4日火曜日

応神天皇:華麗なる船出-その参-〔059〕

応神天皇:華麗なる船出-その参-


古代日本海交流圏の説話が入ってこの天皇紀は終わりかと思いきや、ズラズラと地名らしき名前が並ぶ。油断は禁物である。しかも今までに遭遇しなかったところ、である。頑張って押込んでやろう・・・。

古事記原文…

此品陀天皇之御子、若野毛二俣王、娶其母弟・百師木伊呂辨・亦名弟日賣眞若比賣命、生子、大郎子・亦名意富富杼王、次忍坂之大中津比賣命、次田井之中比賣、次田宮之中比賣、次藤原之琴節郎女、次取上賣王、次沙禰王。七王。故、意富富杼王者、三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖也。

若野毛二俣王は咋俣長日子王之女・息長眞若中比賣との間の御子である。神功皇后以来の息長系はすっかり倭に入り込んだわけで、母の妹、叔母さんを娶ったとのこと。又の名に「真若」が入っているので、問題なかったのか…妄想はそれくらいにして…「百師木」に興味を向ける。

百師木の御子


「百=多くの」を意味するが、「師木」に付けて強調と語調の良さを示しているのであろう。また、「師木」の繁栄も暗に示す役割もある。「諸々集まった木」の場所に人々が一層寄り集まって来ている状況が伺える。応神天皇は「師木」の南方にある「葛野」を国見してその豊かさを表現したが、そこまで拡がっているという意味も含まれていたのであろう。


「師木」に住む「伊呂辨」が産んだ御子名の地名、「師木」周辺の地名がズラリである。一つ一つ調べてみると…既に求めた「忍坂」以外に「田井」「田宮」「藤原」が挙げられる。纏まって出てくると連想が働く、「田」は現地名福岡県「田川市」の「田」であろう。

「田井」は現在の田川市糒と思われる。「糒」=「干飯(井)」である。「田宮」は現在の田川市川宮であろう。川と田の置換えである。

共に田川市を横切る国道201号線沿いにある場所である。ローカルな場所の地名ピース、被る? そんな恐怖?をものともせず前進である。

「藤原」これをそのまま使うとは、古事記記述の姿勢を表している。怖い者なし…後世の方が変えたはず「葛原」と。

国土地理院地図、よくぞ残しておいてくれた、予想通りの地名が「葛城」の地にあった。現住所は福岡県田川郡弁城の「葛原」である。「〒822-1212 福岡県田川郡福智町弁城1622」現在の住所表示である。



意富富杼王(大郎子)

長男の名前から出雲に関連することを表している。この王が祖になるのが「三國君、波多君、息長坂君、酒人君、山道君、筑紫之末多君、布勢君等之祖」である。大変なご活躍をなされたことであろう。

暇が取り柄の老いぼれも早々に出雲に飛び立つことにする。この羅列、何処から解くか?…やはり「筑紫之末多」であろう。「末|多」=「末(末端)|()大の国、出雲の端であって、それが筑紫になるところである。こんな矛盾する表記こそ当て嵌まる場所を一に特定できる。

北九州市小倉北区赤坂の東、手向山(月山とした)の東にある場所である。出雲国の南西の端に当たるが、「筑紫」の一部でもある。現地名は北九州市門司区西・東新町である。「筑紫国」と「出雲国」が隣接する状態でなければ発生しない表現である。従来の解釈は、無視するか、何かの都合、縁があって赴いた、なんて暢気なものである。羅列の意味など素っ飛んでいる。

「末多」が解けると「波多」が解ける。これには修飾語が付かない。東北の端と予想される。「波()」=「端()」である。現在の地名は同区二夕(フタ)松町であろう。「二」を90度回転すれば「ハ」になる…遊びはほどほどにして、この地は「熊曾国」との国境である。上記の赤坂、二夕松共に迫りくる山の稜線で閉ざされたところであった。出雲の地形は特異であるが、いつか詳細に調べてみよう。

「三國」は三国が寄集るところ、現在も各地に残る地名である。多くは「峠」が付くが…。これも上記の「端」からの連想から容易に求めることができる。足立山~戸ノ上山が作る稜線に「出雲国」「筑紫国」「紀国」の三国分岐点が見出せる。住所表示は同区大里になる。「山道」は、その登口から道中となる同区上藤松となろう。

「布勢」は「入杵」の時と同じく、古事記の情報が少ない時には現状の「出雲」の情報を援用する。「杵」がキーワードの出雲に「布勢」はあるか?…ありました。大国主命が奥出雲で坐したところ。現在の同区奥田、淡島神社の辺りと思われる。勿論、島根県ではない。「高志国」に抜ける道が通るところである。

文字解釈を行ってみると「布勢」=「布(広く行き渡らせる)|勢(支配する力)」であろう。高志国も含めて「出雲の力」を伝える道があった場所を示すと紐解ける。出雲の活力の低下と共にその地の名前は忘れられて行ったのであろう。古事記に登場することは二度とないようである。

「息長坂君」はその奥田に向かう道とするか、「城山」へ抜ける道とするか、選択は後者である。

坂が急なこともあるが、ここまでの解釈でこの王は、出雲国の「国境警備隊」の創設に関わったとわかったからである。

一体何が言いたいのか首を傾げるような記述から、極めて重要な事柄を述べていた。

出雲の地形、既に定めた場所にてスッポリと納まることを確認できた。出雲国、これにて確定、である。

そう、あと一つ「酒人君」が残ってました。宮廷で酒をもてなす人…ではありません。お戯れである。「酒人」=「防人」である。読みから「酒」=「守」でもある。場所ではなく、国境警備隊の隊長、そのものの祖であった、と簡明過ぎる記述で述べている。

たった三行強の記述から三頁にわたる内容を読取ることができる。先は長いと思いつつも得られた内容の豊かさに勇気付けれるところである。出雲の記述については「神代」を含めて再考することになろうか…。


凡此品陀天皇御年、壹佰參拾歲。甲午年九月九日崩。御陵在川內惠賀之裳伏岡也

六十五歳でお亡くなりになった。成務天皇あたりから干支が入る。

「時」の問題も今後の課題。で、御陵が上記のところとある。

「裳伏岡」について最近「高来(タク)」「布」に関連することがわかった。福岡県行橋市福丸にある「福丸1号墳」ではなかろうか。いずれ纏めて陵の在処を調べようと思うが、備忘録。



…と、まぁ、漸くにして応神紀が終わったが、先に進めよう・・・。