2017年7月6日木曜日

仁徳天皇:大倭国への礎-その壱-〔060〕

仁徳天皇:大倭国への礎-その壱-


第十六代仁徳天皇紀で教えられた事は豊かであると同時に重要なことであった。伊邪那岐・伊邪那美の国生み以来、嶋の在処に関する記述は見当たらなかったが、彼の「吉備国」行の中で語られる。逃げた后を追いかけるという、何とも軟弱な行為に隠された意味を理解できずに古事記は読まれて来た。悲しいことである。

吉備で詠われる歌の内容も重要である。第七代孝霊天皇紀から登場するこの国、欠史と言われる時代に既にその地に「臣」となる御子を送り込んでいるのである。彼らにとって、この国の位置付け、そして仁徳天皇が詠う内容は、アライアンスに基づいた共同資源開発の実態である。「鉄は国家なり」そのものであった。

第十一代垂仁天皇紀は「筒木」の技術を重視した。治水の基盤技術の石垣造りに欠かせない技術を持つ人々を重用したのである。同時に「丹」の魔力に魅せられつつあった。先代の応神天皇紀はその絶頂であろう。「丹」が示す魔法の出来事は彼らを魅了するのに十分であった。魔術をこなす人々は重用された。

仁徳天皇はそれら先代達が培ったものを体系化したのである。難波津と呼ばれる地を緑の田地に変え、港湾を整備し物流を促した。渡来人達が個別に細々と行ってきたものを大きく「国家規模」に拡大拡充し、「大倭国」への礎を築いたと言えるであろう。

仁徳紀の記述の大半は既に紐解いたが、いくらか残っているところを追加しよう。近淡海国の詳細に関るところであり、また通説では「謎」として放置されてきた事柄に深く関連すると思われる。

古事記原文(注釈略)

大雀命、坐難波之高津宮、治天下也。此天皇、娶葛城之曾都毘古之女・石之日賣命大后、生御子、大江之伊邪本和氣命、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命、次男淺津間若子宿禰命。四柱。又娶上云日向之諸縣君牛諸之女・髮長比賣、生御子、波多毘能大郎子・亦名大日下王、次波多毘能若郎女・亦名長日比賣命・亦名若日下部命。二柱。

葛城の御子達


古事記に登場する比賣達は真に才色兼備である。石之日賣命大后の挙動は真に伝わってくるものがある。出自である葛城の自負、その自尊心と国の発展に尽くそうとする心構え、それに揺れ動く気持ちを表す「遁走」と、古事記が示す物語性を十分に楽しめる。現在の「比賣」達もそうなんでしょう・・・。

「石之日賣命」の親父、葛城之曾都毘古、なかなかの曲者であろうが、古事記の記述は少ない。人物物語はいずれ紐解きしてみたいが、今はその余裕なし、で先に進むと…本ブログの出発点の登場人物となる。難波津の開発に注力する仁徳天皇の意向を踏まえた命名であろう。

大江之伊邪本和氣命(後の履中天皇)、次墨江之中津王、次蝮之水齒別命(後の反正天皇)、次男淺津間若子宿禰命(後の允恭天皇)に振り分けられた名前は、間違いなく近淡海国の難波津に関連すると思われる。とは言うものの現在の福岡県行橋市辺りは縄文海進及び沖積の度合いによって海中にあったと思われる。

長男の「大江」は現在の行橋市大野井辺りであろう。入江の中央部に当たるところである。次男の「墨江」は何処であろうか? 現存する地名に「上・中・下津熊」がある。「熊」=「隅」=「墨」とすれば、「中津熊」がそのものズバリとなる。長峡川が河口付近で大きく蛇行しているところ、当時は最も変化の大きなところであったろうか。神倭伊波禮毘古命の「熊野村」=「隅之村」としたことと合致していて興味深い。

三男は「蝮」=「多遲比」である。既に記述したように「多治比」治水されたところを意味する。現在の地名同県京都郡みやこ町勝山大久保辺りである。四男の「男淺津間」は何と解釈できるか? 文字列の印象からすると複数の河が入江に注ぐ時の様子を記しているようであり、上記の兄貴達と比べて支流の川が寄集ってるところと思われる。現在の地名は同県行橋市寺畔辺りではなかろうか。


難波津の入江の統治をさせるべく子供達を配置したものと推察される。「豊国宇沙」に特定した現地名「天生田」の北側にあたるところである。

伊邪本和氣命に対して「壬生部」を創設したという記述が続く。

「壬」=「水の兄」(十干の一つ)で「水辺」を意味する。河口付近の水利、漁獲の管理を任されたのかもしれない。

仁徳天皇の時代に難波津がどのように仕切られていたのかを垣間見ることができた。近淡海国の発展はこの天皇に始まったと言える。

「近淡海国=近江」とすることは全くその地理的状況を無視した行為となる。変えるならば「大阪」であった。そうすればもう少し尤もらしい物語が創れたのでは・・・。

余談だが、「遠淡海」なる文字をネットで見つけた。勝手に作ってはいけません。なかなか興味ある内容の話を載せられてるサイトではあるんだが…。

日向の御子達


次いで「日向之諸縣君牛諸」の髮長比賣を后にしたという。先ずは「日向之諸縣」は何処であろうか? 「諸」の意味することは例外なく、と考えて、凹凸の多い地形の場所となろう。現在の福岡県遠賀郡岡垣町海老津、「大字海老津」も含めると日向国南部の中心と思われる。

名前と思われる「牛諸」=「牛師」とすると少し意味が伝わるかもしれない。

「諸」「師」古事記のキーワードである。「ごちゃごちゃ」しているところ、地形的には多くあり、表現し辛いところに用いた言葉である。

「牛」は三世紀頃に朝鮮半島から伝わった、と言われる。実際はもっと古くからとも思うが…。

「日向之諸縣君」<追記>は応神天皇紀に登場していた。仁徳天皇が応神天皇から譲り受けた「古波陀袁登賣」の父親である。「古波陀」から彼らの出自を「百済」と紐解いた。牧畜を生業とする人々が渡来した記述であろう。この「諸縣」の丘陵地帯は適性地と思われる。

御子の名前は「波多毘能大郎子・亦名大日下王」、「波多毘能若郎女・亦名長日比賣命・亦名若日下部命」である。「出雲の端」に「毘」が付いた地名であろう。「針間之伊那毘」から連想する。「毘」=「臍」山陵の端に凹の形()を示すところである。

前回の「波多」の場所には「臍」が見出せない、峠が見えない。現在の地形は当時とは全く異なるのであろうが…その先は「阿多」「熊曾国」である。人が通れなければ「臍」にはならないのかもしれない。

探せば見つかる…運任せの探索…ありました。北九州市門司区城山町から鹿喰峠を経て今津に向かうところである。城山町から東方に向かって、右手の戸ノ上山からの稜線が峠道で凹となりその後城山?で少し持ち上がる。「針間之伊那毘」のフラクタル?である。


今回も「出雲国」の詳細が加わった。「大日下王」は「大(オオ)の日下王」この地は「朝日の差すところ、夕日の照らすところ」から「日下」としたと解釈される。「長日比賣命」はそのものである。「戸ノ上山」の麓という意味も含まれているかもしれないが、手掛かりはない…。

上記二例、共に后の国の名前を引き摺らない。多くのケースにおいてその御子達は比賣の国(地域)で育てられるのであるが、少し変化が出てきたのかもしれない…御子に割り当てる「部」の面積、収穫量の増加を意味しているかと思われる。

「出雲国」の強化が続いた。筑紫国の東の前線基地としての役割、吉備国との往来の確保などが考えられるが、古事記記述からの情報少なくこれ以上の推論は断念。後日の課題としよう。

后の話は上記に続いて「八田若郎女」が登場する。前記では「八田」=「八咫()に気付くことができなかった。少々残念であるが、現在気付いていることで良しとしよう。伝説の「烏」ではなく、現実の道案内「熊の毛皮を着た八田の住人」であった。

横道に逸れるが、同県京都郡苅田町の近隣は「ヤ」という語幹を持つと推察される(最上図参照)。「八田」「八瓜」「安」仁徳天皇の治水事業が行われる前に人が住みつけるところ…狭く斜面に沿った場所ではあるが…であった。古代の地名の一字表記を知ることは大切なことかと思われる。

…と、ちょっと一休み、まだ続きます・・・


<追記>(古事記新釈:仁徳天皇【后・子】参照)

2017.11.07
「牛諸」⇔「牛守」モロ⇔モリの転化との解釈も考えられる。諸縣の「諸」を掛けた表現であろう。「師」「守」の判断は保留である。両方を掛けている可能性もあるかもしれない。