2017年7月10日月曜日

仁徳天皇:大倭国への礎-その弐-〔061〕

仁徳天皇:大倭国への礎-その弐-


説話は進行し、「石之日賣命大后」の遁走の経路など前記したところを、その後の地名情報を加えて訂正した。細かく見れば外れているとも思えるが遁走ルートとして的外れではなかったことが確認できた。中でも当初は不明であった「筒木韓人・名奴理能美之家」など、山代の「筒木」の場所を求めることができた今は、仁徳天皇の在所とその真後ろにいた「石之日賣命」の位置関係は極めて現実的なものとなった。

さて、丸邇氏系の「女鳥王」もなかなかの気性のお方のようで、天皇のお声掛かりに見向きもしないで、使いの速總別王を巻込んでの騒動となった。逃亡ルート、これがまた重要な地名を示している。

倉椅山・宇陀之蘇邇


才色兼備な故に道が外れると事件になる。「女鳥王」の駆落ちである。事件の内容は本文(青空文庫:武田祐吉訳)を見て頂くことにして、そこに登場する地名について紐解いてみよう。丸邇に住まうこの王と速總別王が逃げる場面である。取るものも取り敢えず逃げた彼女達は「倉椅山」を登る。

詠われる歌の内容に「梯子を懸けたような急斜面」とあり、また行き着くところが「宇陀」となると、丸邇から逃げる山「倉椅山」の麓は、現在の牛斬山南陵の東麓と香春一ノ岳との谷間と推測される。途中からの急斜面を登り切ると牛斬山頂上に達し、そこから尾根伝いに宇陀の方に向かうことができる


倉椅山=倉(谷)|椅(椅子:イス)|山


…「谷が稜線に挟まれてイスのような地形をしている山」と解釈される。合致するところである。

大坂山を駆け上るルートは竜ヶ鼻を登ることになり、これは絶壁で不可。思ったより選択肢のないものとわかる。簡単な記述であるが、これだけの情報で概略のルートは確定できる。流石の安萬侶くんである

「宇陀之蘇邇」宇陀は既に特定済みで北から金辺峠に向かう谷間のところ、かつては「東谷」と呼ばれたところである。「蘇邇」は何処を示すのであろうか? 通説は奈良県宇陀郡曽爾村、程よい高さの山に囲まれて高原の楽しさを味わうことのできる景勝地である…いや、トレッキングブログではない。解けたので少々勿体ぶっております


蘇|邇=蘇(古代の乳製品、動物の乳を煮詰めたもの)|邇(土の塊)


…とできることがわかった。連想は瞬時である。「鍾乳洞」乳を固めたような岩があるところと解釈される。ここで問題が発生。この地宇陀は鍾乳洞の宝庫である。特定が困難に…上記の奈良の宇陀など状況証拠?に基づいて、現在の同県小倉南区新道寺・木下辺りを提案したい。

この地で敢無く逃げた二人は命を落とすことになる。後日談も古事記が語る。丸邇氏と葛城氏という氏族間の抗争を臭わせながら、これらの両氏族に敬意を払い、それらが保有する情報を大切にするという流れである。まぁ、上手くできた記述と素直に受け止めておこう…。

またまた余談であるが、「カワセミ=蘇邇杼理」と古事記で言うらしい。上記の「蘇邇」の解釈で通じるのか? どうやらそうらしい…カワセミの特徴に「ペリット」を吐き出す行為がある。丸呑みした魚などの不消化の骨などが円柱状のペレットになったものであるが、「乳を煮詰めた塊」のように見えたのであろう。

YouTubeにたくさんの動画が載せられている。1,300年経っても人を惹きつける小鳥の仕草に変化はない、かも? 小さな体の鳥が出すペリットに甚く感動されたのであろう。カワセミを見かけたら、「ソニ」と呼びかけてみようかな?・・・。


「蘇」=「古代の乳製品、動物の乳を煮詰めたもの」がキーワードである。当然わかっているから「曾」に変えたのである。幾度となく述べたように倭は鍾乳洞の宝庫の近隣にある。それ以外の地に倭はない。そして古事記を紐解くことはできない。

最近、三野、いや、美濃で見かけた「鍾乳洞熟成酒」。振動もあった。

日女嶋


今回の調査で最も時間を費やしたのがこのテーマである。1990年代古事記の舞台を九州に置く人達の話題となった嶋である。過去の記述を見直す羽目になった。大阪市西淀川区姫島は論外としても数多ある「姫島」に翻弄されてきたと言っても過言ではないであろう。

勿論、決着が付こうはずもなく現在に至っていると思われる。そもそも「日女嶋」を「姫島」に置換えることが間違いである。これこそ勝手な解釈である。多くの過去が引き摺る書換えの罠に陥った例と断じることができる。

古事記は「比賣」嶋と表記しない。意味があるからである。「日女・嶋」=「阿加流(光を放つ)比賣・嶋」である。「難波之比賣碁曾社」のある島を指し示している。前記で現在の同県行橋市にある沓尾山の麓とした。当時はその山は「嶋」であった。国土地理院地図からその麓は海抜6m以下を示す。場所は前記地図を参照願う。

仁徳天皇は「倭国で雁が卵を産んだ」と建内宿禰に伝える。赤玉から生まれた阿加流比賣の伝説と合致させた説話である。「日女嶋」はその伝説をもつ場所でなければならない。安萬侶くんの律義さを読取ることができる。仁徳天皇紀も最後の節となったが、歌も入ってなかなかの重いものである。

枯野號

古事記原文[武田祐吉訳]

此之御世、免寸河之西、有一高樹。其樹之影、當旦日者、逮淡道嶋、當夕日者、越高安山。故切是樹以作船、甚捷行之船也、時號其船謂枯野。故以是船、旦夕酌淡道嶋之寒泉、獻大御水也。茲船破壞、以燒鹽、取其燒遺木作琴、其音響七里。爾歌曰、[この御世にウキ河の西の方に高い樹がありました。その樹の影は、朝日に當れば淡路島に到り、夕日に當れば河内の高安山を越えました。そこでこの樹を切って船に作りましたところ、非常に早はやく行く船でした。その船の名はカラノといいました。それでこの船で、朝夕に淡路島の清水を汲んで御料の水と致しました。この船が壞こわれましてから、鹽を燒き、その燒け殘った木を取って琴に作りましたところ、その音が七郷に聞えました。それで歌に]
加良怒袁 志本爾夜岐 斯賀阿麻理 許登爾都久理 賀岐比久夜 由良能斗能 斗那賀能伊久理爾 布禮多都 那豆能紀能 佐夜佐夜[船のカラノで鹽を燒いて、その餘りを琴に作って、彈きなせば、鳴るユラの海峽の海中の岩に觸れて立っている海の木のようにさやさやと鳴なり響く]

「免寸河」「高安山」と初出の地名も見える。淡道嶋に関係し、木の影が朝日でその島に届き、西日で山を越える。となると出雲国を流れる「免寸河」の河口付近、淡海に接するところであろう。また、出雲国は戸ノ上山山地で東を塞がれていて、唯一可能性があるのは前記の「波多毘」の西側しかない。この説話のためにわざわざ「波多毘」のことを述べた? それはないであろうが…。

現在の企救半島の地形から「一高樹」の場所が推定できる。すると「高安山」浮かんできた。現在の観音山・寺内団地がある高台である。「高安山」なだらかな丘陵地帯と解釈されるが、そのものの通りの地形である。現在と当時と差異は全く不明であるが…。現地名は同県北九州市門司区観音山団地・寺内である

「一高樹」の場所は「免寸河」の西にあるという。川の流路、特に河口付近は推定の域を出ないが、おそらく現在の八坂神社がある辺り、海水面の状態によってはもう少し東に寄っているかもしれない。その傍を川が流れている。「戸ノ上(トノエ)川」と言われるようであるが、「免寸(トノキ)河」との関連付け、無理ではないかも、である。<追記>

それにしても大変な高さの樹であったのであろう。この神社から影の届く範囲、東西約1.21.4kmを必要とする。全くあり得ない距離でもなし、と言ったところであろうか…。出雲国の地名ピース、激しく増加である。

この樹で作った船の名前が「枯野」実に洒落た名前。枯野を行く船…波が枯れた海を渡る舟、である。速い筈であろう。で、どうして海が枯れたのであろうか?…影が波を鎮める?…わかりません。

何はともあれ「淡道嶋之寒泉」朝夕に行けるようになったとか…。これは「国譲り」されてないようで?・・・いや、ありました、仁徳天皇行幸の由緒付き。


歌に入る、久々であるが…。「国譲り」なしかと思いきや、早々に譲ってしまって・・・。船から琴に変身である「由良能斗能」とくれば「由良」→「淡路島東端」、「斗」→「門」これだけ揃えば十分、現在の紀淡海峡の話に間違いなし…でしょうか?

「樹」の話は夢想、まるで樹霊信仰のような記述と見下しながら、ここは現実的な話として捉える。得手勝手、である。「由良」=「玉などが触れ合って鳴る音」玉響(タマユラ)の「ユラ」に通じる。「斗」=「柄杓」前記の「柄杓田」の時と同様である。

ここでは波飛沫の「玉」が出す音と捉える。そんな音がする「柄杓のような地形」を示すところ…山口県下関市彦島田の首町、三方を高台に囲まれて柄杓のように凹になったところ、首の付け根のような地形である。現在の標高は5m以下で当時は海であったと推測される。

その柄杓の海の岩に生える木の葉が触れ合って出す音のように琴が奏でるのだと言っている。紀淡海峡ではあり得ないことを述べているのだが、伝わってるでしょうか? 「斗」の中で葉っぱが音を出す、だから大きく豊かな音になる。そう、スピーカーである。そんな音を出すことができる琴、だと。

余談ですが、スマホをコップの中に突っ込んで音を出させると、トンデモなく大きな音に…マイセンなんかが好適とか…。と言うことで、寒泉も違った由緒にされた方が本物らしくなるかも、しれない。

武田氏の訳はユラ=由良とせず、原文に忠実に訳されている。通説に引き摺られないことをモットーとするこの老いぼれが救われるところでもある。

…と、まぁ、何とか仁徳さんの説話は終えましたが…どうも引っ掛かっている言葉がある「橘」、次回は少し横道に逸れて、これを紐解いてみようかな?・・・。


<追記>

(古事記新釈:仁徳天皇【説話】参照)

2017.12.28


用明天皇紀に記述された内容から「寸」の解釈が可能となった。以下に引用する。

「丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也」と記述される。「石寸掖上」は何処を示すのであろうか?…「掖上」は「葛城掖上宮」「掖上博多山上」で登場した。福智山山塊の深い谷筋を「掖=脇」と見做したと紐解いた。となると「石寸」は「石」が絡む高山を意味すると判る。「寸」に「山」の意味があるのか?…通常ではあり得ない。


仁徳天皇紀に「寸河」という文字が出現した。「=斗」としてその斗にある川であろうと解釈した。「寸」の意味は明瞭ではなかった。「寸」が山の意味を持つならば、「寸河」の解釈も極めて合理的になる。「斗の山」とできれば、「寸河」は「斗(戸)の山」から流れ出る川として紐解ける。「寸」は一体何を表しているのか?…



寸=尊

…即ち、「尊」の略字と紐解く。「神:人知を越えた尊い存在」これらを合わせれば…

寸=神=上

と表現していることが判る。これで全てが繋がったのである。

石寸=石上
免寸=斗上=鳥髪

…自在な文字使い、だがそこに横たわるルールは不変である。