2017年8月31日木曜日

天皇一家の開花 〔091〕

天皇一家の開花


大倭豊秋津嶋の北端近くまで飛んだ孝元天皇、地道な努力で一家は頗る豊かになった。いよいよ倭国中心地に向けて出立である。第九代開化天皇(若倭根子日子大毘毘命)は、父親の亡骸を劒池に残して春日に飛んだのである。第五代孝昭天皇の御子、天押帶日子命が隅々までしっかり押さえた地であった。

真に用意周到、決して無謀な戦略は取らない、いや、殲滅できるだけの殺傷応力のある武器も無ければ兵隊の数も不十分だったのであろう。古事記の戦闘をこの背景を抜きにして理解することは無茶である。「言向和」に隠された凄惨な戦争は数少ないと思われる。と言うか、身内の争いだけであったろう。

開化天皇紀以降はかなりの部分を紐解いてきた。だが残っているところも多い、見落としの箇所を一つ一つ拾い上げてみようかと思う。一気に増えた娶りと御子達、その名前には例によって重要な情報が潜んでいるのであろう。順不同、暇が取り柄の老いぼれの気が向くまま、である。<追記>

旦波之大縣主・名由碁理


「旦波()は現在の福岡県行橋市稲童辺りとした。古事記全体を通じてなんら矛盾のない場所、揺るぎないところと思われる。問題は「由碁理」、固有の人名のようでもあり、また、何かの地名に絡む情報を示しているようでもある。そもそも文字の解釈がややこしい・・・。

調べてみると「水垢離」身を清める所作から「湯垢離」と解釈。冷たい水ならまだしも身を清めるほど何か悪いことでもしでかして湯を使うとは?…それを名前に?…また、鉄を冷やして凝らせるから鉄の産地を示す?…旦波国で鉄?…何故、湯?…文脈に全く絡まない解釈。

初見の解釈は・・・とは言うもののこれに引き摺られてしまったようである。「湯碁理」の娘名が「竹野比賣」である。これは「竹」に関連する言葉と直感する。そして検索するとそのものズバリの解答が見つかった。詳細は例示されたサイトを参照願う。天然の竹を竹材とするには「油抜き」が不可欠である。その方法の一つに「熱湯」を使う湿式方式が現在も使われているとのこと。

適切に油抜きされ、竹は本来のしなやかで強靭な性質を示すようになる。また独特の艶など見た目の美しさを顕在化させるのである。余分な油は竹の表面に集まり、汚れと相まって真っ黒な粒のようになる。「碁」の表現はそれを表したものであろう。これこそノウハウであり、そのスキルが誇りとなり、財を成さしめた、と伝えている・・・とまで記述してしまった。

「由」↔「湯」の置き換えを疑わなかったのである。「碁理」↔「垢離」に至っては全く置き換えの根拠が見出せない。それをゴリ押してしまったのである。やはり頻度は決して高くはないが(古事記中10回登場)重要なところで出現する「碁」の文字解釈に従うべきであった。

「碁」=「其(箕)+石(岩)」と分解すると「箕の形をした山」と紐解ける。ならば…、


由(依り所にして)|碁(箕の形の山)|理(整えられた田)

…「複数の稜線の緩やかな起伏を利用して田を整えた」様を述べていると解釈される。「箕」の地が特筆されるのは、この緩やかな高低差を利用して田畑を開拓して行ったからであろう。

古代の耕作の基本なのである。図を参照願う。英彦山山系から延びた極めて長大な枝稜線が周防灘に届くまで緩やかに傾斜しているのである。

更に「竹」の文字が続いて登場する。これはその稜線が長く広く延びて広大な田を作り上げたことを意味しているようである。

竹のように細く長く見える州が竹の正体である。現在地名は京都郡みやこ町と築上郡築上町に跨る場所である。おそらく古代は音無川を挟んで分かれていたのではなかろうか(図中の白線と黃線)。

「旦波国の竹野」と言われた場所も含め、南北に跨る広さを持っていたのであろう。「大縣」はそんな状況を簡単に表現したものと思われる。比賣の居場所を図に示した。根拠は竹野の中心と見做したからである。ずっと後にこの地の一部は「三尾」と呼ばれてたと紐解いた。既にこの時代に皇統に絡む人材を輩出していたところなのである。

勿論当時の旦波国と多遲麻国との国境について古事記は語らない。平地で陸続きの国間の国境は、大河でも流れていない限り、曖昧であって当然であろう。基本は「村」が単位、納税義務が発生する時期まで追及は止しとしよう。引続き旦波関連の説話が幾つか見当たる。纏めて述べてみよう。

 
阿治佐波毘賣・遠津臣・竹野別


開化天皇紀の途中から「旦波」→「丹波」に切り替わる。意図があってのことなのか不明なのであるが、同一国の表記らしい。「丹=赤米」の生産が順調になってきたのかもしれない。だとすると、豊前に赤米の記述が少ないと言えない。国名にあるから…「丹=赤米」の傍証、探すかな?…。

「阿治佐波」は極めて具体的な地形象形と思われる。「阿(台地)・治(治水された)・佐(支える)・波(端を)」と紐解ける。現在の


行橋市稲童の「出屋」

という地名が該当するのではなかろうか。南は音無川、東は周防灘に囲まれた大きな台地状の土地である。後の世に海軍航空隊の飛行機を格納する掩体壕が作られ、今もその一部が残っているとのこと。


「丹波之遠津」は少々考えさせられた場所である。「中津」を中心とする旦波国における「遠津」とは?…しかし考えてみれば「中津」が単独であったと考える方が誤りであろう。例によって「上・中・下」の三つを揃えていた筈であろう。「遠・中・近」かな?

現在の稲童に


稲童上・稲童中・稲童下

がある。これがヒントとなった。「稲童下」は「覗山」の東麓辺りを示しており、そこに


奥津神社

が鎮座している。多くの池、細いが複数の川もあって稲童古墳群石並古墳の近隣である。


難波津があり、仲津がありって後に名付けられた地名からの類推で考えがちであるが、そうではなく旦波国内で完結する表現であった。この国の西境等々これまでに随分とわかって来ていたような錯覚に陥っていたが、中心の「中津」周辺が漸くにして見えてきた、と思える。読み解いてみるものである。

「遠津」に居た「高材比賣」の名前、後ろにある覗山の木材を示していると思われる。海辺にありながら「木」の匂いを表す命名、山が接近する地形であってこその場所、矛盾のない表現かと思われる。

後述する「葛城之垂見宿禰之女・鸇比賣」が産んだ「建豐波豆羅和氣」が「丹羽之竹野別」となる。


豐波豆羅=豊(豊国の)|(傍)|豆羅(凹凸のある)

と紐解けば「竹野」の地を示しているようである。懲りることなく名前に刻まれた地形象形、やはり見事と言うしか他なし。少々大雑把な表現ではあるが・・・。

「旦波之大縣主(之由碁理)」は大きくなり過ぎたのではなかろうか。その「技」は尊重するが、土地を大きく占有されては面目が立たない。下段に述べるように「竹野比賣」の子供はその地に落ち着き、孫達は他の地に赴く。そして統治は他所から派遣される御子が担う。

何気なく、それこそ事を荒立てずに手を打っているのである。後の「丸邇」の隆盛に対して打った手と同じである。その時は旦波国の御子を送り込んだのであるが。「言向和」に通じる戦略と思われる。后にそれを言わせる心憎い演出もあったが・・・。

さて、「湯碁理」の後裔の動きを見てみよう…

大筒木垂根王・讚岐垂根王


古事記原文…

比古由牟須美王之子、大筒木垂根王、次讚岐垂根王。二王。此二王之女、五柱坐也

娶りは省略されて、いきなりその御子達の名前が記述される。竹野比賣が産んだ「比古由牟須美命」の名前は何を意味する?…当初は「由(湯)|牟須(生す)|美」として「竹の美的特徴」に注目したのであろうか…などと解釈したが、彼がこの地に留まる理由にはならない。また「比古」=「並べ定める」の意味で一貫して用いられていることが判ったところで、再度紐解いてみよう。


由牟須美=由(拠り所にして)|牟(大きな)|須(州)|美(見事に)

…「大きな州であることを拠り所にして見事に並べ定めた」と紐解ける。利水の容易な起伏が少なく大きな州に田畑を立派に整備した命を意味すると解釈される。上図を拡大すると北は音無川、南は城井川に挟まれ、尚且その州の中には多くの川が流れる州であることが判る。英彦山山系の枝稜線が長く延びた、その先端部である。

由牟須美命は間違いなくこの地の開拓に努めたものと思われる。竹材を活用した田の整備を行った命であったと伝えているようである。勿論この広大な州の地に留まらざるを得なかったということも併せて…。

比古由牟須美命は出歩くことなく「竹材治水の技術」に専念したのであろう。彼の御子達がその技術を広める役割を担うことになったと推測される。山代の「大筒木」伊豫の「讃岐」それぞれ山裾に広がる大地を田畑に変え、豊かな国になったところである。それを可能にした「技術」は?…「池()」及び治水の技術であろう。

彼らは祖先が培ってきた「竹」の技術…おそらくは「木()」も…を使った池造りの基盤を確立していったと推測される。古事記は国を作った「技術」を極めて重要として記述している。それを登場人物の名前の中に埋め込む、それが読取れて来なった…残念ながら…のである。

「垂根」は既に述べたように池で栽培する植物の状態を表している。例えば蓴菜(ジュンサイ)など。池造成の技術は革命的であった。急峻な山麓を水穂の国に変え、そればかりか池に溜められた水は裾野を水田に変え、耕地面積を一気に向上させた。旦波国、山代国、讃岐国(若木)が早期に発展したのも頷ける話であろう。

葛城之垂見宿禰


開化天皇が娶った鸇比賣の父親である葛城之垂見宿禰は葛城に居たのであるが「垂見」とは何処を示すであろうか?…「垂(垂れ下がる)・見()」であるが、「垂」=「何かを伝わって少しずつ落ちる」という意味を持つ。何か?…連なる池であろう。では、何処か?

よく見ると葛城には連なる池が殆ど…困ったが・・・池の数、整列の美しさから、現在の


田川郡福智町上野原にある中の池、尻の池等

と思われる。この近隣に垂見宿禰が居たのであろう。彼の出自は不詳である。鸇比賣同様、日本書紀には現れない。


宿禰であり、娶りの対象となる以上それなりの地位に居た邇邇芸命一家以外の先住渡来人かもしれない。少々北側(直方市)になるが「畑」の地名がある。池作り、用水に長けた集団とも考えられるが、闇の中である。

丸邇の意祁都比賣命が産んだ日子坐王、その彼が娶った山代の苅幡戸辨が産んだ大俣王の子の「曙立王」が「伊勢之佐那造之祖」になったと記す。「無口な御子の出雲行き」で随行し、功績が認められたのであろう。前記した邇邇芸命降臨に随行した「手力男神」が切り開いた「佐那縣」に当たる。

さて、いよいよ師木進出の天皇となる。「初國之御眞木天皇」と言われる「御眞木入日子印惠命」(崇神天皇)の登場。一語一語をしっかり紐解いて行こう。

…と、まぁ、見逃しは、まだまだあるようで・・・。


<追記>

2017.09.07
早速の見逃し…開化天皇の名前を見逃していた。若倭根子日子大毘毘命の「大毘毘」である。奇妙な名前なのであるが、一見では何とも言えない…が、これは重要な意味を含んでいた。

「毘毘」を何と解く?…「毘」の意味は多彩である。いつもお世話になってるOK辞典さんの解説を書き写すと…①「あつい(厚)」「厚くする」 ②「ます(増)」 ③「たすける(助)」「そばについて助ける」(例:毘補) ④「人体の左右の真ん中にあるへそ」 ⑤「田畑・山・川などが連なる」…とある。

更に分解すると…


「田+比」→「通気口」+「人が二人並ぶ」象形

…となる。これで解けた。


「毘毘」=「通気口の前の人々を助ける」

大いに助けたのであろうか。彼の娶りに春日建國勝戸賣之女・名沙本之大闇見戸賣が居る。辰砂の採掘現場の管理監督者と既に紐解いていた。ピンポ~ンと鳴っても良いのではなかろうか。勿論⑤も掛けているのであろうが・・・。

辰砂=丹の時代、即ち丸邇氏の台頭となる。若倭根子日子大毘毘命の時代から天皇家の様相が一変する、その兆しを示しているのであろう。