無口な御子の出雲行き
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
垂仁天皇の命を受けて「大鶙」さん「越」までお出掛け、なんと「猿喰」で「鵠」を見事にゲット、目出度し…とはいかず、御子は無口なままであった。困った時の神頼み、占ってみると、出雲の神様の祟りだとか。お参りするほか手は無し。前記18番に続く物語である。
古事記原文[武田祐吉訳]を示すと…
卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也。故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神*以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。爾所遣御伴王等、聞歡見喜而、御子者坐檳榔之長穗宮而、貢上驛使。爾其御子、一宿婚肥長比賣。故、竊伺其美人者、蛇也、卽見畏遁逃。爾其肥長比賣患、光海原、自船追來。故、益見畏以自山多和此二字以音引越御船、逃上行也。於是覆奏言「因拜大神、大御子物詔、故參上來。」故、天皇歡喜、卽返菟上王、令造神宮。於是天皇、因其御子、定鳥取部・鳥甘部・品遲部・大湯坐・若湯坐。[かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛だの盲だのに遇うだろう。二上山の大阪の道から行っても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊の道こそは幸先のよい道であると占って出ておいでになった時に、到る處毎に品遲部の人民をお定めになりました。 かくて出雲の國においでになって、出雲の大神を拜み終って還り上っておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造ってお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲のイワクマの曾の宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました。そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔あじまさの長穗の宮に御案内して、急使を奉って天皇に奏上致しました。そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺いて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思って、海上を光らして船に乘って追って來るのでいよいよ畏れられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上っておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによって、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになって、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘・品遲部・大湯坐・若湯坐をお定めになりました]
誓約もして、いよいよ出発である。が、宮殿の戸口に三方向あって、占いによると一方向しか良いところがない、そこを通って…既に通訳から逸脱している。「奈良の道」「大坂の道」「紀伊の道」なんとも拡大解釈である。前回の鳥の探索は「木の国」がスタート、宮殿の場所を特定する必要がなかった、というか解らなかった。
通説が「・・・道」と書いてくれたことに感謝、ハッキリと「宮殿の戸口(門)」と認識して、試みる。「那良戸」=「那良山の方を向いている戸」、「大坂戸」=「大坂山の方を向いている戸」、「木戸」=「木の国の方を向いている戸」これら三つの方向が直交している場所が垂仁天皇の御所「師木玉垣宮」に該当すると思われる。
地図上で求めると現在の福岡県田川郡香春町「中津原」と「今任原」の境辺りであることがわかる。この場所が「師木」(通説の磯城)(追記❶参照)と表されるところである。古事記に登場する幾人かの天皇の御所が在ったところと思われる。
占いは「木戸」が好ましい、という。「出る戸口」が「木戸」であれば良いのである。大事なことは出雲に向かう「道」を選ぶことではない。通説は、遥か彼方の出雲、道を選ばないと意味不明な占いになるようである。拡大解釈すると実際の出来事がぼやけてしまうのである。繰り返して起こっている解釈である。
さて、アケタツの王とウナガミの王の二人を従えた、大軍団で何処に向かったのであろうか?「品遲部」が重要なヒントである。これを置きながらの道行である。「品遲部(ホンヂブ)」=「奉仕義務の直属集団(名代(ナシロ))」と解釈すると、彼らの行く道は陸行であり、その周辺に「国」が形成されていないところである。
選択できる道は唯一、暇が取り柄の老いぼれのバージンロード?、「木戸」を出て直に反転し、現在の香春岳東麓を北上、金辺峠越をする道である。彼らは「品遲部」を設けながら、紫川に沿って北へ北へと進んで行くと、現在の「小倉」に抜ける。そこは「淡海」である。そこが「出雲」? 古事記は語らない。<追記❸>
「出雲」は何処? 前記18番で「高志国」に向かった際、現在の企救半島の山向こうが「大里」であった。「大」は出雲のキーワードである。調べてみた。なんと、「戸ノ上山」が聳える。「戸ノ上山(トノエヤマ)」=「戸上山(トガミヤマ)」=「鳥髪山(トガミヤマ)」である。須佐之男命が降臨した地である。その裾野を流れる「大川」が「肥川」であろう。
「小倉」辺りに行き着いた無口な御子、直線距離約8kmの陸行で、難無く「戸ノ上山」北西麓にある神社「戸上神社」に到着する。「戸上神社」が「出雲大神宮」かは不詳である。現在の出雲大社は遥か彼方にあるのだから。古事記の簡明過ぎる記述、辿ってみると、あながち違和感のない結果であった。
なんと、「肥川」で休息中に喋ったのである。しかも、あの仰天遺跡の岩倉のことをご存知?<追記❷> 取り巻きが歓喜したのは当然の記述。天皇に急便を出すは、アジマサの島でお寛ぎのために船の調達やら、てんやわんやの騒動に、大成果である・・・「出雲」の「国譲り」もあったのか・・・。
「檳榔(アジマサ)の島」=「馬島」と比定済み。ここで寛ぐのは初めからの予定であったようだが、王たちも喜んで、だろう。が、事件が…何かを寓意しているのか不明だが、取り敢えず君子危きに近づかず、一目散に逃げる。その逃げ方が重要。
「益見畏以自山多和引越御船」企救半島、船を引いて越えるのである。現在の「大川」に沿って淡島神社付近を通過して「伊川」に抜けるルートであろう。「淡海」→「難波津」→「山背川」→「師木玉垣宮」着である。目出度し、目出度し…。
なかなか出雲神社も抜け目なく、ちゃっかり神殿造って貰って…ご利益あれば…「国譲り」してしまっては跡形もないか…。古事記が描く世界、また少し大きくなったような・・・。
<追記>
❶2017.06.08「木=山」として、地表を上から見た時の比喩としていることがわかってきた。五百木、若木、沼名木は伊豫之二名嶋の伊豫国、讃岐国、土左国である。「師木」も同様の解釈を適用すると…
師木=師(諸々多く集まってる)・木(山稜)
となる。上記の示した場所の状態を端的に表しているものと思われる。
❷2017.09.12
「出雲之石𥑎之曾宮」について検討済み。「𥑎」は玄室及び棺の象形表現と解釈。また、その場所を北九州市門司区寺内にある高台(後に高安山と呼ばれる)に特定した。
葦原色許男大神*
賜った名前が「葦原色許男」と言う。何とも色男風の名前で、従来よりそのように解釈されて来ているようである。強い男も加わって、正に英雄に恥じない名前。一方、これは日本書紀の記述に準じて「醜男」とするが、古代は現在の解釈とは異なり、やはり英雄風の解釈である。
こんな有様だから「色許男」の紐解きになかなか至らなかった…少し言い訳も込めて…。時代が過ぎて邇藝速日命の後裔、穂積臣之祖:内色許男命及びその比賣内色許賣命などが登場するまでは手付かずの状態であった。詳細は孝元天皇紀を参照願うが、概略は…「色」=「人+巴」=「渦巻く(蛇の象形)」、「許」=「元、下、所」として…「葦原色許男」は…、
葦原(出雲)|色(渦巻く地形)|許(下)|男(田を作る人)
❸2017.10.09
「小倉」→「小津」に変更。∵小倉は海面下。