2017年9月12日火曜日

垂仁天皇:出雲之石𥑎之曾宮 〔096〕

垂仁天皇:出雲之石𥑎之曾宮


<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
垂仁天皇紀は神武一家の倭国が大国へと発展する、その草創期に際して最も多彩で伝える内容も深いものであろう。概略を記すと…、

若木:伊豫之二名嶋(現北九州市若松区)の讃岐国。四つの国の山稜を「木の幹+枝」に比喩して、五百木(伊豫国)、高木(粟国)、沼名木(土左国)そして若木と表現したものと解釈した。古事記執筆当時においても「嶋」と見做すことが難しくなっていたのであろう。

山代国の大筒木と大国:娶りの比賣達の出身地。「大筒木」は山麓の急斜面上への池作り技術。石垣技術の重要性を強調しているとわかった。「大国」は後に紐解けた「大物主大神」に深く関連する場所であり、比賣の名前は「埴田」を表す。神籠石(現行橋市津積)が現存する御所ヶ岳山系との位置関係を暗示する。

大中津日子命:高巢鹿(英彦山、鷹ノ巣山)~吉備之石无(現山口県下関市大字永田郷石王田・石原)の祖となったと、サラリと伝えるが、倭建命を凌ぐ「英雄」である。倭国の南限~北限を示したものと理解した。

沙本毘古、沙本比賣:「沙=辰砂」丸邇氏台頭の物語。古事記中随一のエンターテインメントである。と同時に豪族の謀反に対する天皇の「夢」対応が見事に描写されている。真偽は別としても古事記に貫かれた「言向和」に従うものと思われた。

二俣小舟:現在に至るも詳細は判っていない様子である。多く残る「船越」地名が意味していることと関連ありとみたが、その後も情報は得られていない。今後の課題でもある。

鵠を求めて:木国から高志国まで順次に探し求めた記述であった。「和那美之水門」と「猿喰」を関連付けた。通説の地名比定との相違を決定づけた説話である。本ブログの地名比定のベースとなっている。現在もその修正は見当たらない。

出雲大神:御諸山(現北九州市門司区「谷山」)に坐する大物主大神と思われる。その正体が明らかになった今、本牟智和氣の道行がより鮮明になったと思われる。言えることは、間違いなく極めて合理的な記述である。

常世国の橘:多遲摩毛理が探し求めた「登岐士玖能迦玖能木實」山麓に多くの支流が集まって一つの川となる地形象形、そしてその支流の上に居る「君」を橘と紐解いた。更に「人柱」でもあった。須佐之男命が禊をした「橘小門」もこの地形象形であった。常世国は壱岐島の天ヶ原遺跡、セジョウ神遺跡の辺りにあったとした。

古事記読解は、この内容豊かな垂仁天皇紀の記述を読み解けるかどうかで決まる、と言って過言ではないであろう。人名、地名に含まれる意味を如何に受け止めるか、それを顧みようともしない現状に愕然とするのである。

さて、少々読み飛ばした文字をピックアップし紐解いてみよう。タイトルに掲げた「出雲之石𥑎之曾宮」無口な御子が出雲で発した画期的な言葉である。その他二、三の文字も併せて記述する。

出雲之石𥑎之曾宮


古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神*以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。[かくて出雲の國においでになって、出雲の大神を拜み終って還り上っておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造ってお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲の石𥑎(いわくま)の曾その宮にお鎭まりになっているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました]

御子の本牟智和氣が無口な理由は出雲大神の御心によることが判明して、曙立王及び菟上王を随行して出雲に出向いた時の説話である。そして言葉を発するどころか目に入る風景をみて重要な情報を述べたのである。何が重要か、それを下記に述べる。勿論現在まで全く気付かれなかったことである。

上記の説話は、御子が肥河の中流域に坐した時川下に見える山ではないが小高いところを見つけ、それを葦原色許男大神、即ち大国主神が眠る「出雲之石𥑎之曾宮」を祀る場所ではないのか、と言葉を発したと記述されている。では、この小高いところとは何処であろうか?

既に特定した肥河(現在の北九州市門司区を流れる大川)の中流域から眺める川下の小高いところは


門司区寺内(一)にある寺内第二団地辺り

と推定される。黒巣橋近くの仮宮があったのは


大山祇神社辺り

ではなかろうか(下図松崎町の右)。川下の小高いところとの標高差は殆どなく、山に見えなかったとの記述と矛盾しない。


出雲の繁栄の礎を築いた大国主神の墓所はここで初めて明らかにされる。須佐之男命の須賀宮以来肥河の河口にある小高い場所、現在の観音寺団地と上記の寺内団地となっているところが中心となって栄えていたのであろう。出雲の南は黄泉国に接し、大物主大神が坐する御諸山(谷山)がある。出雲の詳細である。

「石𥑎」=「イワクマ」と本居宣長以来読み下されて来た。ユニコードに登録されるくらいだから文字としては存在するのであるが、読み・意味については明確な説明を見出されなかった。「石+冋」とすると「冋」=「ケイ;遠い所の境界線」から墳墓の玄室及び棺を象形した表現と解釈できるのではなかろうか。安萬侶くんが使ってるだけかも、であるが…。

「クマ」を奥まったところと解釈すれば外れていないような気もするが、不確かである。「石𥑎」を積み重ねて作った宮が「石𥑎之曾宮」と表現される。ひょっとしたら上記の団地の下に眠っているのかもしれない、出雲に降臨した高天原一族が・・・。

落別・石衝別


山代大國之淵之女・苅羽田刀辨及び弟苅羽田刀辨を娶って生れた王子が落別王と石衝別王の二名。それぞれ各地の祖となるのであるが、既に紐解いた。ところが「落別」「石衝別」は地名のようでもある。該当する場所を探してみることにした。

「落別」の表現、何とも一般的で特に特徴を示したものではないようである。関連する記述を求めると、どうや下記の説話に潜められていた。

古事記原文…

然、留比婆須比賣命・弟比賣命二柱而、其弟王二柱者、因甚凶醜、返送本土。於是、圓野比賣慚言「同兄弟之中、以姿醜被還之事、聞於隣里、是甚慚。」而、到山代國之相樂時、取懸樹枝而欲死、故號其地謂懸木、今云相樂。又到弟國之時、遂墮峻淵而死、故號其地謂墮國、今云弟國也。[しかるにヒバス姫の命・弟姫の命のお二方はお留めになりましたが、妹のお二方は醜かったので、故郷に返し送られました。そこでマトノ姫が耻じて、「同じ姉妹の中で顏が醜いによって返されることは、近所に聞えても耻かしい」と言って、山城の國の相樂に行きました時に木の枝に懸かって死のうとなさいました。そこで其處の名を懸木(さがりき)と言いましたのを今は相樂と言うのです。また弟國に行きました時に遂に峻しい淵に墮ちて死にました。そこでその地の名を墮國と言いましたが、今では弟國と言うのです]

何とも悲しい出来事なのであるが、何故こんな説話を…天皇は冷たい、美醜で決めるとはなんと理不尽な…色々お説が出てきそうな場面である。しかしどうやらこれは地名のヒントであったようである。その前に「相楽」「堕国」「弟国」などの場所を求めよう。

背景は沙本比賣御推薦の旦波国の比賣達を娶る時に起こった出来事で、四人の比賣の内二人を不合格にしてしまったのである。その内の一人の比賣が悲嘆にくれて死を選んだ行程が事細かに記述されている。こんな時は場所を示そうと、安萬侶くんが努めていると思うべし、である。

師木玉垣宮から山代国に帰る道は、幾度か登場した現在の山浦大祖神社がある道と思われる。村らしい村はこの神社を中心とした地域しかないが、「相楽」を紐解いてみよう。「相(佐:助ける)・楽(農作物の出来が良い、豊か)」となる。鳥取之河上宮に坐した印色入日子命(氷羽州比賣命の御子)が耕作地に開拓した場所に一致する。

その場所では目的を果たせず「堕国」に向かう。大祖神社傍の道を通り抜けると、そこは「淵」山代大国之淵が居するところ、そしてその淵から堕ちて亡くなったのである。駄洒落の流れで「弟国」と落ちが付く。少しあやかって、これが「落別」とさせて頂きたい。現在の


福岡県京都郡みやこ町犀川柳瀬辺り

であろう。

「石衝別」=「石が突当たるところの別」であろう。犀川流域を調べると


同町犀川崎山辺り

川に崖が迫って衝立のような地形(下図の崎山駅周辺)となっているのがわかる。山代国の地名ピースもかなりの数に上って来た。草創期に重要な役割を果たした国であった。(下図左下:山浦大祖神社)



垂仁天皇は多遲摩毛理の朗報を聞くことなくこの世を去ってしまう。残り半分の橘を貰った氷羽州比賣命も、不老不死という謳い文句の効果なく、亡くなってしまう。不老不死と言う解釈が誤っていることに気付くべきであろう。

菅原之御立野中・狹木之寺間


天皇は菅原之御立野中の陵、太后は狹木之寺間の陵に眠ると記述されている。「菅原」は後の安康天皇の陵の場所「菅原之伏見岡」で出現する。キーワードの「伏見=伏水」から鍾乳洞が多く集まる現在の福岡県田川郡福智町伊方の東長浦辺りと読み解いた。この近隣と推定し、「御立野中」の意味するところを探してみよう。

「立野」は一段と高くなっている野原を示すであろう。しかしこの地はかなり広い高台であり、特定が難しい。どうやら


御立野中=三つの立野がある内の中

を表しているのではなかろうか。地図を参照願うが、当該の山稜は三つに分かれた尾を持っているように見られる。その中の真中の山稜が該当すると思われる。

ところで、垂仁天皇の師木之玉垣宮は何処にあったのであろうか?…先代の崇神天皇の水垣宮は天皇の名前から「首」を求めた。那良戸、大坂戸、木戸を持ちそれぞれの方向に道がある。即ち、師木のほぼ中央にあったことを示している。早くに気付けば良いものを…と嘆いても致し方なし。再度地図を調べると…。

現在の鎮西公園辺りが該当の場所であったと推定できる。住所は同県田川郡伊田である。周辺には鎮西町、勾金、紫竹原など天皇の宮に関連すると思われる文字が集中して残っているところである。垂仁天皇の時代の後もこの地の中心として存在したのであろう。

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間*」は何処を指し示しているのであろうか?…「狭木」=「狭(狭い間)・木(丘陵地帯の凹凸)」と解釈できる。「師木」の場所の異なる表現と思われる。「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。「寺」=「宮」とすると…、


寺間=宮の間=水垣宮と玉垣宮の間

…と紐解ける。現在の紫竹原公民館、無量寺辺りではなかろうか。現地名は…、


同県田川郡香春町中津原紫竹原

…と推定される。太后の陵墓が記載されるのは限られている。事績は不詳であるが、存在感のある后でだったかも。前記したが人柱の風習を差し止めたという伝説もある。

(図中、①右上、中津原の左上:水垣宮 ②左下、上伊田駅右下の右の鎮西公園:玉垣宮 ③中央、紫竹原右上の狹木之寺間陵と推定)

…と、まぁ、ボチボチと前に進もう・・・。

葦原色許男*

賜った名前が「葦原色許男」と言う。何とも色男風の名前で、従来よりそのように解釈されて来ているようである。強い男も加わって、正に英雄に恥じない名前。一方、これは日本書紀の記述に準じて「醜男」とするが、古代は現在の解釈とは異なり、やはり英雄風の解釈である。

こんな有様だから「色許男」の紐解きになかなか至らなかった…少し言い訳も込めて…。時代が過ぎて邇藝速日命の後裔、穂積臣之祖:内色許男命及びその比賣内色許賣命などが登場するまでは手付かずの状態であった。詳細は孝元天皇紀を参照願うが、概略は…「色」=「人+巴」=「渦巻く(蛇の象形)」、「許」=「言(耕地を作る)+午(穀物を得る)」と紐解いた。「葦原色許男」は…、


葦原(出雲)|色(渦巻く地形)|許(耕地を作り穀物を得る)

…と紐解ける。渦巻く地形は見つかるのか?…更に説話は続く・・・省略して地図を示す。(2018.04.21)



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狹木之寺間*

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間」は何処を指し示しているのであろうか?…「狭木」=「狭(狭い)|(山稜)」と解釈できるが、「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。

<狹木之寺間>
では、古事記にたった一度だけ登場する文字を何と紐解くか?…既に登場した伊邪那岐の御祓で生まれた「時量師神」の「時」に関連すると思われる。

「時」=「日+寺」=「日が之く(進む)」→昼と夜を繰り返して進む様から、「時」=「蛇行する川」と解釈した。「狹木之寺間」は…「寺」=「時」として…、


狭い山稜で蛇行する川の間にある

…ところと紐解ける。狭い山稜が特徴になるなら、垂仁天皇の陵墓の近隣に特徴的な地形が見出だせる。

現在の田川市夏吉にある細く延びた山稜が複数の蛇行する川に囲まれている。真に難解な表記である。場所が特定されることを防ぐためなのかもしれない。(2018.06.09)
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