2017年8月25日金曜日

葛城懿徳天皇の冒険 〔086〕

葛城懿徳天皇の冒険


葛城に移ってからの三代目は何を探し求めたのであろうか・・・

古事記原文…

大倭日子鉏友命、坐輕之境岡宮、治天下也。此天皇、娶師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命・亦名飯日比賣命、生御子、御眞津日子訶惠志泥命、次多藝志比古命。二柱。故、御眞津日子訶惠志泥命者、治天下也。次當藝志比古命者、血沼之別、多遲麻之竹別、葦井之稻置之祖。天皇御年、肆拾伍歲、御陵在畝火山之眞名子谷上也。

懿徳天皇は「軽之境」に飛んだのである。師木とは益々遠くなる道を選んだ。もっと国を拡げるため、もっと力を蓄えるには土地が必要だったから、彦山川と遠賀川の合流地点、その先は古遠賀湾の淡海であった。厳しい環境ではあるが、開拓すれば大きな収穫を望めるところと推し量ったのであろう。

既にこの地は現在の福岡県直方市上境、そこにある福地神社辺りとした(図中上境左斜め下の)。合流地点の傍にある台地、即ち岡の上にあった宮である。遠賀川河口の「岡水門」を連想させる。福地川も合流する水利に極めて優位なところである。福智山山塊の雲取山などの山稜が長く延びる「師木」に類似する大地だった。
<追記参照>


三嶋湟咋の「溝作り」技術は活かされたであろう。しかも大面積の耕地を造成することができたのである。彼らは途轍もなく大きな財源を確保したのであった。勿論それが実現するためには多くの労力と時間が必要であったことは言うまでもない。

師木縣主之祖・賦登麻和訶比賣命を娶り二人の御子を儲ける。次男が「多藝志比古命」と言う。「多藝志」=「多(出雲)・藝(果ての)・志(之賀)と紐解いた場所を示す。何故、出雲?…唐突な出雲の出現は何を意味するのであろうか。前後の記述には一見して出雲と関連する言葉は見当たらない。

が、母親の名前に隠されていた。「賦登麻和訶比賣命」=「賦登(or)・麻和訶(真若)・比賣命」と読み解ける。出自は語られないが母親は深く出雲に関連することをその名前が伝えているのである。「軽之境」に居を構えて広大な土地の開墾に手を付けたが御子を養うには至らないことを示している。

大規模になればなるほど時間がかかる、手間もかかるリスクとリターンの兼合いである。土地の開発は先行投資とそれが財源となるまでのタイムラグを如何に埋め合わせるかであろう。思いを込めたビジョンが代々に引き継がれてこそ漸くにして大きな富が生まれるのである。

少し話が遡るが、前記の安寧天皇には長男の「常根津日子伊呂泥命」が居た。たった一度だけ登場するだけで何らの記述もないが、文脈を辿れば、彼こそ、その後裔も含め、天皇の地に居付き、その亡き後もその地を開拓していったと推測されるのである。

「常根」=「常(床:大地)・根(地下)」=「大地の下」と紐解ける。父親である天皇の思いを遂げるために土地を耕し切り開いていく役割を担った、表の歴史に埋もれた人材であったと思われる。各天皇は臣下の者にその役割を与えたのであろうが、息子に託せればそれに越したことは無い。ポツンと現れた歴史の雲間の太陽である。

この考察がトンデモナイことを気付かせた。「常世国」である。


(床=大地)|(or輿=挟まれたところ)|

…となる。地図を参照願う。島と島に挟まれた鞍部(輿)の国であった。これも地形象形そのものの表現であった。安萬侶くんの戯れ、ここまでくれば苦笑いである。ドンピシャリに特定される場所を無限の広がりを持つ神の国にしてしまった。


壱岐にまで飛んでしまったが、戻して「多藝志比古命」の活躍の場所を見てみよう・・・。

血沼・多遲麻之竹・葦井


「多藝志」出雲の北端から一直線に南下である。「血沼」は現在の福岡県北九州市小倉南区沼辺り、倭建命の東方十二道遠征で出現した「相武国」に当たるところである。この地は船で南下する時には重要な拠点となる。現在の焼津も主要漁港の一つである。良くできた繋がり、錯覚が生じる筈であろう。


「多遲麻之竹」の「多遅麻」は既に紐解いた場所、現在の同県行橋市松原・築上郡築上町西八田辺りとした。

その内陸部に入り込んだところに「弓の師」(築上郡築上町)という地名がある。

現在も大きな面積を占める地名であり、その由来を知りたいところであるが、不詳である。「弓=竹」と容易に置換えられそうである。


「葦井」葦(ヨシ)と読む。「木国」の果て、山国川と佐井川に挟まれた河口にある現在の同県築上郡吉富町辺りではなかろうか。

木国の詳細が出現、記述例は少ないが節目節目に登場する主要地点の木国である。「建内宿禰」の出自に関連する。もう少し後日に記述することになろう。

出雲の血が拡散し繋がりが増えていく。出雲が主役の場面は無くなったが、古事記の中で常に根底に流れる国という扱いである。神様も含めて…。「葦原中国」は邇邇芸命一家にとってかけがえのない国であったと伝えている。

先々代、先代と変わらない短命で亡くなる。御陵は「畝火山之眞名子谷上」とある。

「天之眞名井」で出現した「真名=神」と解釈した。神の近くにあるところ、畝火に祀られる神の傍であろう。現在の同県田川郡香春町五徳、その谷の上を示していると思われる。

懿徳天皇の冒険、その目の付け所は確かに当たっていたようである。現在の地形を見ても福智山西麓を占める大きく豊かな田園地帯を形成している。

がしかし、それは多くの時間と労力が注ぎ込まれた後であって当時はほんの少しばかり手が付いた状態であったろう。

若くして世を去った天皇、日嗣の御子はどんな決断をするのであろうか・・・。

…と、まぁ、欠史から読み取る歴史、なかなか興味深い・・・。




<追記>

2017.09.06
「鉏友」=「鉏(隙間を作る)・友(仲間:同類)」と紐解いた。吉備国の御鉏友耳建日子の在所を山口県下関市吉見の港に浮かぶ二つの岬(串本岬及び網代の鼻)の間に割って入ろうとする「鉏」の形に似た(長方形)の山系とした。同じ友がいた。

地図を参照願いたいが、吉見で紐解けて漸く気付かされた。福智山・鷹取山から諏訪山まで延びる稜線を分断しているように見える「鉏」があった。

現在は水田になっていて一見では見分けがつかないが、当時、諏訪山は川の中にあったと推測され、より明解な地形象形だったのであろう

懿徳天皇が坐した「鉏」は上記の「福地神社」()ではなく、その東側、地図上では「法喜寺」()と記載のある場所辺りと推定される。「鉏友」の解読の結果、関連する軽、境、岡等葛城の詳細地域の比定が大きく確度を高めたと思われる。挫けず紐解くことである、と再確認した。