神倭伊波禮毘古命:阿多の御子
神倭伊波礼比古の娶り関係を調べ出すと未知の国であった「熊曾国」が少し見えてきた。熊曾という表記でなかったはなかったことがわかったのである。なんとも不甲斐ない有様だが、致し方なし。本腰を入れて?紐解き再試行である。
先ずは神倭伊波礼比古の日向時代から、「娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也」の御子の名前、彼らの居場所を突止めてみよう。
多藝志美美命・岐須美美命
「阿多之小椅」は現在の北九州市門司区長谷を示すと紐解いた。出雲国に並んで淡海に面した地ではあるが、少々奥まったところである。現在の国土地理院標高地図から推測すると出雲国よりも一層内陸部に海岸線が入り込み、平地が極端に少なかった場所と思われる。
この地図から現在の関門海峡に面した古城山から門司港駅にかけての平野部は、ほぼ海面下にあった推測される。南西にあたる門司駅近傍(出雲国)と比べてかなり小さな入江を形成していたと思われる。現在の企救半島北部、当時の平地面積は想像以上に少なく、その地の開拓には時間がかかったのであろう。
「多藝志」とは?…これは既出である。大国主神が豪勢な蟄居を命ぜられたところ「出雲國之多藝志之小濱」に出ていた。「多藝志」=「多(出雲の)・藝(果ての)・志(之:蛇行する川)」と紐解いた。「美美」=「耳=縁(ヘリ)…に接したすぐそば」であろう。合せると「多藝志美美」=「出雲の果てにある行き着いたところの縁」と解釈される。
門司港駅の南、風師山山稜が作る谷間から海峡に向かうところ、現地名は北九州市門司区清滝辺りが該当すると思われる。後に門司港となるように交通の要所であるが、当時の面影もあったであろうか…。地形、船そのもの進歩など変動要素の大きな歴史に依存する、時代と共に変わった事柄の一つである。
「岐須」は何と解く?…「岐(二つに分かれる)・須(州)」であろう。上記した平野部に「州」が形成されていたことは容易に推測できる。その「美美」=「縁(ヘリ)…に接したすぐそば」にあったのではなかろうか…現在の行政区分は細かく分かれているようだが、同市門司区庄司町辺りではなかろうか。
いずれにしても「阿多之小椅」の近辺に二人の御子が居た、と古事記は述べている。地名の表記に「多」が頻出する。それによって位置関係を示している。現存する「地名」のみならず「地形象形」の表現を紐解くことを併せて行うことが肝要である。これを蔑ろしては古事記の舞台をあらぬ方向に彷徨わせてしまうことになる。
思い出すのは筑紫嶋の面四、肥国の謂れ「建日向日豐久士比泥別」である。面四の位置関係を示すのに何とも長たらしい謂れをもってくる。真意を推し量ればそれだけ忠実に表現しようと努力していることだと思われる。残念ながらこの謂れを紐解けた例を他に見出すことはできない。古事記が読めるか否かは、この一語の解釈で読める…過言ではないように思うのだが・・・。
神倭伊波礼比古は日向国の高千穂宮に居た。現在の福岡県遠賀郡岡垣町高倉近隣である。遠賀川河口(古遠賀湾)⇔洞海湾⇔響灘⇔関門海峡を通じて出雲国、その先の「阿多」に通うことは決して無理なことではない。むしろ頻繁に出向くという当時の娶りの作法に矛盾しない。
と同時に、何故、国譲りをした筈の出雲国を素通りしてその先に行ったのか?…多くの考えるべき問題を提起する。良い女が居なかった?…下世話な根拠は別にして…「隨命既獻也」の文字から「国譲り」を引出したのであろうが、占領統治下に置かれるという意味合いとは程遠いもの、「言向和平」が示す結果は「和」である。
後の倭建命が東方十二道などに出向くのも一旦は「言向和平」した国々の中でその後の状況の変化のあったところ、「和」が不完全であったところなのである。決して領土拡大などという作業は行っていない。出雲国は、手向いはしないが、まだまだ手強い相手だった、と伝えている。
勿論邇邇芸命一家が占領統治できるほどの勢力を持っていなかったことが最大の理由ではあろうが、当時の戦闘は消耗戦である。勝つにしろ負けるにしろ兵の消耗は夥しい。それではその後が続かないのである。正体不明の「大物主神」の登場なども「大山津見神」が開拓した先進地の手強い八十神との融和を第一とした戦略を示していると思われる。
神倭伊波礼比古が師木兄弟との最終戦の時、連戦連勝であるが既に兵の消耗が大きいことを述べているのが実態であろう。千数百年頃の戦国時代の戦闘と同じような見方では理解できない。まぁ、地理的規模をそれと同じくらいに解釈してるのだから錯覚するのも止む終えないか?…こんな話題も後日に纏めてみよう。
出雲国本体には近付かないが、その息のかかったところを狙った、とでも解釈しておこう。そんな地が「阿多」であり「耳」であった。ようやく手にした「出雲国=葦原中国」を足掛かりに「天」が降って来たのである。
不十分ではあるが「大倭豊秋津嶋」への侵攻の準備を取進められた、そして神倭伊波礼比古がなんとか…いろいろと神様の手を煩わしたが…その嶋の中心の地に到達した、と古事記は述べている。雄叫びが無いのは、終わりではなく始りの証なのであろう。
不十分ではあるが「大倭豊秋津嶋」への侵攻の準備を取進められた、そして神倭伊波礼比古がなんとか…いろいろと神様の手を煩わしたが…その嶋の中心の地に到達した、と古事記は述べている。雄叫びが無いのは、終わりではなく始りの証なのであろう。
上記の御子の名前が記述される前後の文章を抜き出してみよう…
故、坐日向時、娶阿多之小椅君妹・名阿比良比賣自阿以下五字以音生子、多藝志美美命、次岐須美美命、二柱坐也。然更求爲大后之美人時、大久米命曰・・・
日向の記述に続けて、美人の大后を求めるという、簡略過ぎるくらいの説話なのだが、阿多に居る(通説は日向?)筈の「多藝志美美命」が再登場する。神倭伊波礼比古東行の目的地を大和とする説には極めて難読、難解な記述なのである。
さて、切りが良いので「三嶋の御子」は次回としよう…。
…と、まぁ、熊曾国の有様が少しわかったところでお別れ・・・。