2017年9月7日木曜日

崇神天皇:依網池・軽之酒折池 〔095〕

崇神天皇:依網池・軽之酒折池


耳シリーズで色々漢字を調べて玖賀耳之御笠の「玖」解釈に少し時間を取られた。「王+久」はちょっとした思い付き、お蔭で「美嶋」が目に留まり、一気に解決、であった。ところが「玖」の文字を使った天皇の名前があったことを思い出し、昔のページを開いて見てみると、何とも悔しい読み残しがあった。

孝元天皇の「大倭根子日子國玖琉命」である。関連するページで追記しておいたが、「國玖琉」は「石炭が飛び出ている大地」を表していると紐解けた。後代の筑豊は石炭産出で当然と言ってしまえばそれまでだが、今までには出合わなかった(得意の読み飛ばしがあるかも…)

採掘ではなくとも露天ならばその価値に気付く?…銅も辰砂も掘っていた筈、石炭に気付かなかったか、それとも既に利用していたのか…なんとも歯がゆい所ではあるが、これ以上の推測は止しとしよう。いずれにしてもこの地は極めて豊かな資源の地であったことは間違いないと思われる。

次いで「鉏友」も懿徳天皇の「大倭日子鉏友命」に記載があった。これで「軽之境岡宮」の場所が確定した。関連ページの追記を参照願う。軽、境()が決まり、繋がる「欠史八代」の地名比定の確度がグッと高まったと思われる。

さて、崇神天皇紀に大きく事績に取り上げられているのに首記の二つの池作りがある。

古事記原文は…

故稱其御世、謂所知初國之御眞木天皇也。又是之御世、作依網池、亦作輕之酒折池也。

御子の誰かが作ったものではなく、これは国家的大事業だったのでは?…と錯覚させるような表現である。まぁ、そこまででなくとも大きな池であったことは想像できる。依網池については既に特定したのであるが、旦波国の配置等々が明らかになって来たところで今一度見直してみようかと思う。

依網池


何の修飾もなく、であるから彼らの支配下にあった場所、何処の国にも属さない地、はたまた当時は言わずもがなでわかるところの何れかであろう。既に特定した覗山西麓(現地名福岡県行橋市高瀬)蓮池等々の池は、やはり適切とは言えないように思われる。

依網池が海と川とが混じり合う場所という解説も一応は頭の片隅に置くが、そもそもこれだという解説は見当たらないのも現状である。こんな時、安萬侶くんは必ずヒントを何処かに書いている筈と、難波津絡みの説話を思い出してみると、実に丁寧に地名を述べているものが浮かんできた。

何のことは無い、上記原文の直上の記述「和訶羅川の戦い」(この老いぼれが勝手に付けた名前で恐縮)である。そこに「伊豆美」があった。謀反人の庶兄建波爾安王とその掃討作戦を命じられた大毘古命が対峙した場所である。勿論、そこはここだとは教えてくれない。

紐解いた場所は、平成筑豊田川線の豊津駅の少し南方、今川(犀川=和訶羅川)を挟んで対峙したのである。この場所を「伊豆美」と言う。現在も近隣には


松田池、裏ノ谷池、釜割池、長養池

の四つもの池がある。そして隣接に現地名福岡県行橋市泉(東・中央・西・南に分かれて)がある。万葉仮名の美夜古泉駅も近い。

「伊豆美」=「出水、泉」変動する川からではなく水田への安定した供水源確保の大土木事業であったと思われる。この地より先は近淡海、現在も「流末」という地名が残っている。川は満潮時に海の水が逆流していたところでもあろう。確かに「依網」はそんな海と川とが入り混じるところであったと思われる。


池に関する記述が多いのは正に水源、特に安定水源の確保が如何に生死を左右したか、と気付かされる。後に急斜面の池作りが登場する。それも合せて古事記が訴えていることを理解することが大切であろう。耕作地の拡充、これが彼らにとって最重要課題であった。

葛城の地でそれを乗越えて来た彼らには十分な力が備わっていたのであろう。稜線の端の谷間を利用して作った池、大河犀川の伏流水があるのも大池作りに有利に働いたのではなかろうか。「依網池」上記四つの池の何れか、又は全てか、については定かでないが、裏ノ谷池及び/又は松田池のように思われる。

輕之酒折池


「酒折」とくれば「甲斐之酒折宮」を想起させる。現在の北九州市門司区恒見町にある鳶巣ヶ山の西麓、県道294号線が南北に走るところと既に紐解いた。谷間の坂道である。「軽」の地にそんなところがあるのか?…直方市上境、水町遺跡公園が傍にある


水町池

が該当すると思われる。

現在の地図で見る限り葛城の地では最大の池であろう。福智山・鷹取山から流れ出る水を制御し、福地川河口に広がる水田に安定供給する役目を果たす池かと推測される。この地は懿徳天皇が切り開き豊かな実りを得たところであるが、更にこの池によって安定水源の確保が多くの実りを与えてくれたのであろう。


既に推論したように天皇家は葛城の地を財源として大倭豊秋津嶋を統治した。それを可能にした理由を、あくまでも簡略に記述しているのである。溝作り、池作り等々(後には石垣作り)の土木技術を如何にして確保し、谷間、扇状地そして河口付近の耕地を拡張・発展させて行ったかを繰り返し述べている。

池と蓴菜とは切り離せない。「垂根」の人名が頻出するのも池が与えてくれる恵みが如何に大きいものであったかを物語る。垂根の比賣を娶って、というか垂根に多くの御子を育てさせ、各地に派遣した。これも立派な戦略であろう。池作りは国家プロジェクトだった、と確信する。

崇神天皇紀に見落としがあったものを拾ってみよう。木國造・名荒河刀辨之女・遠津年魚目目微比賣を娶って生れた御子に「豐木入日子命」がいる。上毛野君、下毛野君等之祖となったと述べている。「上毛野」は今も残る地名として現在の福岡県築上郡上毛町に特定できるであろう。ズバリが残る稀有な地名である。

「下毛野」は山国川を挟んだ場所、大分県中津市であろう。川で分断されたのであろうが、県境の区切りの難しさを示しているようである。以上はこれまでも概略は理解できていたのであるが、その後の考察も加えて、「君」の在処を推察してみよう。<追記>

建内宿禰の出自に関連して木國造之祖宇豆比古」の在処を求めた。現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺と思われた。一方の「下毛野」中心地は何処であろうか?…


中津市福島にある小平遺跡公園辺り

ではなかろうか。山国川を挟んで対峙し、類似の地形を有していることが理由として…試案である。


ところで山代國に坐していた「建波爾安王」は何処に?…、


波爾安=波()|(近い)|(谷州:谷の出口の州)

…と紐解ける。山代国の端に近く谷があるところは、地図を参照願う(地図の上)。現在の


福岡県京都郡みやこ町犀川花熊

である。「花熊」=「花()・熊()」現地名を紐解いてどうする?・・・。

ここでは戦い難い…城郭に居て敵を迎え討つという戦法はなかった…と判断し、その山稜の端を回り、和訶羅河(犀川)渡って少し行ったところの小高い山の背後、現在の行橋市矢留で待っていた、というシナリオになる。川の流れを矢に比喩したようでもあり、説話に繋がるようでもあり、この地名も興味深い。


初國之御眞木天皇は大往生で山邊道勾之岡上に葬られたが、その場所は既に記述した。最後に師木の何処に坐したのかを「御眞木*入日子印惠命」から「師木水垣宮」を紐解いてみよう。


印恵=印()|(入江)

…とすると、川の入江が首の形をしているところではなかろうか(地図の右)。

師木の場所は大坂山と那良山と木国の方角が直交するところとした。その辺りで…現在中津原小学校がある台地状の場所が該当するかと思われる。現地名は


福岡県田川郡香春町中津原

である。ここが


初国…日本国の発祥の地…

である。と、本日は控え目な表現で…後日確度が高まったらもう少し賑やかに・・・。


参考までに「斗=柄杓」で表す凹となった地形を「首」とも言う。由良能斗に比定した場所…


山口県下関市彦島田の首町

がそれに当たり、和知都美命が坐した淡道之御井宮の立地と類似する。表現は異なるが、凹地を見下ろす高台、宮の在所である。

…と、まぁ、出てくる出てくる、懲りずに頑張るのみ・・・。

<追記>

2017.09.28
「下毛野」の場所を修正。上毛野の川下にあったとして、現在の築上郡吉富町辺りであろう。

中津市の地形を調べるとそのほとんどが海中、即ち当時は行橋市と同様に大きな入江を形成していたとわかった。

山国川の河口付近の河流は推測の域を脱せないが、現在の中津市辺りはおそらく遠賀川河口付近の水巻町辺りのように人が定着するのはずっと後代になってからではと思われる。領域としては下毛野に含まれていたとも考えれる。

いずにしても地形の変化が大きく、現在の地形とは大きく異なっていたことは間違いないであろう。



御眞木*
「御眞木」は何を意味しているのであろうか?…「御」=「御する」、「木」=「山稜」なのだが、「眞」は「正しく、本当に」の意味では通じないようである。「眞」=「匕+鼎」と分解すると「入れ物を一杯に詰める、満ちている」と解釈されている。ならば…、


御眞木=山稜に満ちているところを御する

…と紐解ける。(2018.04.19)