2017年8月24日木曜日

葛城安寧天皇の苦闘 〔085〕

葛城安寧天皇の苦闘


未開の地「葛城」に飛び出した神沼河耳命(綏靖天皇)、祖父三嶋湟咋の「茨田」の技術で何とか開墾に着手したものの悪戦苦闘が始まったであろう。「茨田=八井」の地は多くの河が緩やかに流れ水源の確保が容易であり、田を積み上げるだけで、と言っても簡単ではないが、棚田を作ることができた。

「葛城」は予想を遥かに越える急傾斜の地、谷間に沿って多くの河が流れるが、田に水を貯め、穏やかな水の流れを望むことはできない。この矛盾をどう解決するか?…思案に思案を重ねた結果は「衝田」と「池」であった。傾斜を滑らかにするために山麓を掘ることと水の流れを池によって制御することであった。

例え出来たとしても収穫を得るには一年、いや二年はかかる。気が遠くなりそうな地道な努力を、土との戦いを継続したのである。開拓民と化した彼らの支えは、豊かな海と山の自然、その恵みに溢れ、一面に稲穂が棚引く光景を思い描けることであったろう。

そんな光景を見ることはなかったであろうか、先代綏靖天皇は亡くなった。まだ三十歳前で、おそらく引継いだ師木津日子玉手見命(安寧天皇)も幼い時期であった。父親の思いを遂げるよう、ひたすら開拓に心血を注いだ姿が目に浮かぶ。娶る比賣の出自も同じく師木に絡む。

古事記原文…

師木津日子玉手見命、坐片鹽浮穴宮、治天下也。此天皇、娶河俣毘賣之兄、縣主波延之女・阿久斗比賣、生御子、常根津日子伊呂泥命、次大倭日子鉏友命、次師木津日子命。此天皇之御子等、幷三柱之中、大倭日子鉏友命者、治天下也。次師木津日子命之子、二王坐、一子孫者伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置之祖、一子、和知都美命者、坐淡道之御井宮、故此王有二女、兄名蠅伊呂泥・亦名意富夜麻登久邇阿禮比賣命、弟名蠅伊呂杼也。天皇御年、肆拾玖歲。御陵在畝火山之美富登也。

「片鹽浮穴宮」の在処は既に紐解いた。当時の海抜0mの彦山川流域(現在の福岡県田川郡福智町赤池・上野辺り)は潮の干満によって海水、川水の混じるところであったろう。現在も残る多数の池がある場所、現在の同町上野常福辺りと特定した。先代の場所の近隣である。葛城での拡がりも果たせず、早々の日嗣であった。

波延・河俣

娶ったのが従兄弟にあたる縣主波延之女・阿久斗比賣であった。母親の「河俣毘賣」伯父の「縣主波延」は師木の何処辺りに居たのであろうか?…「波延」から紐解いてみよう。「波延」=「波()・延(尾根がずっと延びたところ)」とすると、英彦山系岩石山の北方の稜線の先端を示すと読み解ける。

現在の田川市糒の日吉神社辺りではなかろうか。

その場所は金辺川が直角に曲がるところの近隣であり、現在も複数の川の分岐が見られるところである。

「河俣比賣」の名が示すところであろう。

師木の詳細は未だ紐解けてないが、おそらく師木の中でも縁に居た一族ではなかろうか。

阿久斗比賣」はその北側の「久」の字の岡に囲まれた「斗」を示していると紐解ける。左図を参照願う。

三男の師木津日子命の御子の活躍が記述される。孫が「伊賀須知之稻置、那婆理之稻置、三野之稻置」の祖となるのである。

 
伊賀須知・那婆理・三野*

いきなりの地名である。が、現在の三重県に絡むところであろう。ならば「伊勢国」近隣と連想する。「伊賀須知」は「小ぶりな入江がある州の地」と推定される。


伊(小ぶりな)|賀(入江)|須(州)|知(地)

選択の余地なく、現在の北九州市小倉南区守恒辺りと思われる。何故伊勢?…師木津日子命の娶り記述がない以上不明である。

「那婆理」は上記が解ければ現在の同区葉山町辺りと推定できる。山稜の端にあって伊賀に隣接する地であろう。


那(豊かな)|婆(端)|理(整えられた田)

後の倭建命関連で出現した「石代」(現同区石田)「漁田」(現同区蜷田若園)は近接の地であることがわかる。

地名ピースはピッタリ納まったが、これ以上出てくると大変?…であるが・・・。

「三野」は「隠蓑」であろう。現在地名は同区隠蓑。「尾張之三野」とも言われた。雨具「蓑」の地形象形ではなかろうか。師木津日子命の后の出自は、おそらく尾張国だったのであろう・・・。古事記の記述のみではこれ以上の追求は不可であろう。「三野」を除き登場もこの段のみである。

それにしても「国譲り」は徹底しているようである。しかも能くできている。白地図に地名をやたらと書き込んでいく作業であったのかもしれない。さて、もう一人の孫の話に移ろう・・・。

 
淡道之御井宮


和知都美命が坐したところ「淡道之御井宮」とは?…間違いなく淡海、現在の関門海峡であり、その道に面したところと思われる。下関市の彦島公園の西側、「由良能斗」と特定したところの北側土手は「向井」という地名である。現在の田ノ首八幡宮辺りが「淡道之御井宮」と言われたところと特定できる。

<和知都美命>
確かに状況証拠的には確度の高い比定であろうが、名前に刻まれて意味は何と紐解けるであろうか?…

和(丸い)|知(矢口の地形)|都(集まる)|美(谷間の大地)

…「丸い矢口(鏃)のような地と谷間の大地が寄り集まるところ」の命となる。

「知」=「矢+口」として鏃と解釈し、「美」=「羊+大」として羊の甲骨文字の象形から求めたものである。
<羊>


「美」=「谷間の大地」の地形象形に気付かなければ到底行き着くことのない解釈であろう。他意にも使用される「美」を使った見事な象形表現と思われる。初見に追記して置く。(2018.06.25)

神八井耳命が入り込んだ出雲国の対岸にあり、後に出雲にあった高い木の影が延びるところである。

周辺諸国の記述の少ない古事記の中で貴重な情報と思われる。古事記記述の初期に登場する出雲と淡嶋、これらの地が飛び離れたところにあるという理解を受け入れることは到底できない。
大斗の出雲国は国境警備に神経を使ったところであった。この御井宮は海からの監視に極めて有利な場所であったのであろう。

興味ある土地であるが、その後古事記に登場することは無いようである。先代と同じくこの天皇も若くして亡くなってしまう。「御陵在畝火山之美富登」と記述される。度々登場の「富登」畝火の近く…現在の地名に「殿町」というのが見つかる。

福岡県田川郡香春町殿町、香春一ノ岳の北東麓にあり、九折の道を辿れば一ノ岳に届く道(現在は立入禁止?)がある。高座石寺がある近隣を示すのではなかろうか。

<畝火山之美富登>
「殿」⇒「臀」⇒「尻」なんていう置換えも考えられないこともないが、地形象形からの「美富登」であろう。

単刀直入の表現、正に古事記の魅力であろう。単刀直入に解釈することこそが要である。


美富登=美(谷間の大地)|富(山麓の坂)|登(登る)

…「谷間の大地である麓の坂を登ったところ」と紐解ける。「美」は上記と同じ解釈である。甲骨文字も丈夫の三角の山形二つが香春一ノ岳と二ノ岳を表しているのである。

そろそろ動きが出ても良い時期になるのでは?…宮が動く筈である。

師木に近付くのか、それとも更に開拓を拡張するのか、次回はそんな背景を踏まえて紐解いてみよう。

…と、まぁ、短い原文ながらしっかりと伝えているようである・・・。

三野*

「三野」の場所の修正。地図を参照願う。(2018.05.28)