『橘』の意味
少し話題を変えて「橘」について考察してみようかと思う。これは垂仁天皇紀に出現しており、「常世国」の説話に出てくる。神代紀の解釈の中でと考えてみたが、やはり気に掛かる言葉である。一つには既に「・・・木」の表現は地形象形そのものであったこと、垂仁紀の記述についての従来の解釈がどうも納得できないこと等々、「常世国」はさて置いてもキチンと紐解いておこうと思ったからである。
古事記の中を検索すると神代から宣化天皇まで10件ヒットする。重要なキーワードであることには違いない。やはり垂仁天皇紀の記述が「橘」について最も詳しく、また安萬侶くんの伝えたいことが潜んでいるようである。それを紐解いてみよう。
古事記原文[武田祐吉訳]…
又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國<追記>之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。[また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依ってタヂマモリが遂にその國に到ってその木を採って、蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本を持って參りましたところ、天皇はすでにお隱れになっておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持って參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです]
解釈の焦点の一つは「登岐士玖能迦玖能木實」である。ネット検索の結果もほぼ同様に「時じくの香の木の實」とされている。日本書紀の表記は「非時香菓=橘」であり、この表現に基づいたと思われる。暇が取り柄の老いぼれが最も「嫌悪」する流れである。「橘」=「不老不死」など一切の記述は存在しない、少なくとも古事記中には…。
古事記が一見意味不明の表記をすると日本書紀の表記に依存する。これが1,300年間の「混乱」を招いた根源であることを理解されていない。古事記が伝えんとすることを見逃し、意味不明と解釈し、神話・伝説に陥れてしまうのである。
古事記原文を忠実に解釈してみよう。「登岐士玖」とは? 「登」=「成熟する」の意味がある。「岐」=「(枝)分かれる」頻度高く用いられる言葉である。「士玖」=「敷く」・・・纏めれば
となる。
登岐士玖=枝分かれしながら成熟して一面に広がる様
となる。
複数の意味にとれるが、ここでは「迦玖」=「懸く(垂れ下がる)」を採用する。もう既に「橘」そのものの表現であることに気付く。「登岐士玖能迦玖能木實」は、
である。「士(シ)」→「時(ジ)」、「迦玖(カク)」→「香(カグ)」と置換えることは不可である。
枝分かれしながら成熟して一面に広がり、垂れ下がった木の実をもつ木=橘
である。「士(シ)」→「時(ジ)」、「迦玖(カク)」→「香(カグ)」と置換えることは不可である。
古事記以外の日本書紀、万葉集などはこの解釈を避けている。「橘」の匂いのようにプンプン匂う、地形象形ボカシが明確になった、と思われる。では何を暈そうとしたのか? それを紐解くことにしよう。「登岐士玖能迦玖能木實」の別の解釈である。
もう一つの『橘』
「登」=「登る」、「岐」=「分岐」、「士玖」=「敷く(広がる)」、「迦玖」=「廓(囲まれた場所)」、「木實」=「君」・・・纏めると「登岐士玖能迦玖能木實」は、
となる。複数(多く)の支流が集まる川の上流にある「宮」に居る「君」(比古、比賣達)のことを表現しているのである。
分岐して広がりながら(上に)登って行った先にある囲まれた処にいる君(達)
となる。複数(多く)の支流が集まる川の上流にある「宮」に居る「君」(比古、比賣達)のことを表現しているのである。
「橘」は地形というよりもっと端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる「図柄」を「橘」に比喩したものと解釈される。その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川が流れる谷が描く図柄の象形を示していると解釈される。
「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。
古事記原文は、持ち帰ったのは「木實」と記述する、「木」ではない。ましてや枝が付いた実などの解釈はご都合主義もいい加減にしろ、言いたい。これが日本の国文学のレベルであろう。「縵」「矛」を葉っぱの有無あるいは「木」の形状の違いなどとするなら「木」としなければ都合が悪い、原文の理解が不明に近付くことになる。なんとか胡麻化した通訳が横行してきたのである。
「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木實」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。だから「(死者の霊に手向ける)立花」なのだ、と伝えている。「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。
古事記は語らないが、后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったという説話もあるとのこと。上記の事件が関連するのかどうか定かでないが、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。
「不老不死」の木を持ち帰ったのに后も亡くなる、だから古事記の記述は矛盾する? 情けない思考力である。「不老不死」などと関連付けてきた解釈は廃棄すべきものであろう。
古事記は語らないが、后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったという説話もあるとのこと。上記の事件が関連するのかどうか定かでないが、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。
「不老不死」の木を持ち帰ったのに后も亡くなる、だから古事記の記述は矛盾する? 情けない思考力である。「不老不死」などと関連付けてきた解釈は廃棄すべきものであろう。
複数の意味にとれる内容を伝えんがために多彩な文字の羅列を用いる。その複数の意味を解釈してこそ彼らの実態を伺い知ることができるのである。垂仁天皇紀の求人倍率は極めて高い。しかも優秀な人材を求めて止まない時であった。阿加流比賣に拒否された天の日矛の血を引く多遲摩毛理、常世国はやはり「天」なのかも・・・。
「橘」の地形象形、この「木」は山の斜面に多くの支流があり、それらが寄集って一つの川となる、即ち枝分かれした谷が集まり麓に届く、そんな場所を示していることがわかった。山麓にあり、川の水の豊かなところである。これが気にくわなかったのであろう、日本書紀などの編集者にとって。
須佐之男命の禊の場所などなど、後日に求めてみよう…「小戸神社」などあるわけなし、である。「・・・木」の象形、「師木」「五百木」「若木」等々、また一つ古事記のルールに当て嵌まる例が見つかったようである。