2018年6月14日木曜日

登岐士玖能迦玖能木實:縵八縵・矛八矛 〔222〕

登岐士玖能迦玖能木實:縵八縵・矛八矛


垂仁天皇紀の最後の説話登岐士玖能迦玖能木實=橘」を既に読み解いたが、世の中は日本書紀の「非時香菓=橘」の表記に引きずり回され解釈しか見出だせなかった。今回、2016年の論文が入手でき、それも参考しながら深掘りしてみようかと思う。

古事記の中で重要なキーワードとなっている「橘」の紐解きが未だなされていないことに愕然としながらも、懲りずに情報発信することと割り切ってキーボードをポチポチと引っ叩いている今日此頃である。関連するところを引用する。

古事記原文[武田祐吉訳]

又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。[また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依ってタヂマモリが遂にその國に到ってその木を採って、蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本を持って參りましたところ、天皇はすでにお隱れになっておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持って參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです]

前記の概略を述べると・・・、

1.「登岐士玖能迦玖能木實」の解釈には二通りあることが判った。

 ①「登岐士玖」…「登」=「成熟する」の意味がある。「岐」=「()分かれる」頻度高く用いられる言葉である。「士玖」=「敷く=広がる」とすれば、「登岐士玖」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がる

…と読み解ける。更に迦玖能木實」では「迦玖」=「懸く(垂れ下がる)」とすると、「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がり垂れ下がる木の実

=「橘」そのものである。「士()」・「迦玖(カク)」であり、「時(ジ)」・「香(カグ)」のような濁音への勝手な解釈は不可であろう、とも記述した。

 ②「登岐士玖」…「登」=「登る」、「岐」=「分岐」、「士玖」=「敷く(広がる)」、「迦玖」=「廓or閣(囲まれた場所)」、「木實」=「君」とすると、「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
登って行くと分岐して広がるその先の囲まれた処の君

…と紐解ける。複数(多く)の支流を持つ川の上流にある「宮」に居る「君」(比古、比賣達)のことを表現しているのである。

古事記は事実、この二通りの解釈ができるように文字を並べている。最後に「其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也」で結んで、亡き垂仁天皇に捧げた「人柱(=タチバナ)」=「橘」に繋げたのである。

2.縵八縵・矛八矛」…「縵=比賣」「矛=比古」としてそれぞれ八人と解釈した。

通常は、武田氏訳にもある通り「蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本」と知られているようである。カツラのように輪になったもの、棒に実を付けたものとか解釈されている。がしかし、何故に木の実の形状を書き記したのか、不自然さそのもの表現となる。だから延々と新解釈が登場する。

本ブログは「縵=比賣」、「矛=比古」と解釈して、全てが意味のある説話となったのである。課題として残ったのが、「矛=比古」は見たまんまであるが、「縵(マン)」がどうしても繋がらなかった。何となく女性器の表現に絡むようでもあるが、根拠に乏しい。

・・・のようであった。今回検索で見つかった論文は、根来麻子氏が”『古事記』における「登岐士玖能迦玖能木実」の位置づけ”のタイトルで投稿されたものである。専門外でなかなかに読み辛いところではあるが、抜粋すると・・・、

「薬として服用する」は疑問である。奈良時代以降装飾として特殊な役割を担う。
「縵と矛」は形状の違いを意味する。
「迦玖」→「香ぐ」ではなく、「輝く」(新潮日本古典文学集成より)。次節を定めず輝く木の実。
「橘の実」は持続性、不変性(万葉集など)を表す。「登岐士玖能迦玖能木實」に視覚的な印象を重ねている。
 装飾具としてのその輝きや不変性にあやかる目的である。
「縵」は実をつないで環状にした装飾具(原義は模様のない絹布) 「縵」は「蔭」とも表現される例がある。
「矛」は棒状のものに実をつけたもの。「縵」「矛」は形状が神事に関わる装飾具としての役割。
この説話は天之日矛の子孫、多遲摩毛理の忠誠譚としての位置付けである

・・・結果的には服用薬ではないが、そのものが長寿の意味を示すものとして解釈されている。不老不死ではないようである。木の実の残りの半分を貰った后が亡くなっても不思議ではない、ということかも?…辻褄は合う。

「迦玖」はそのまま濁音にしないで解釈、これは結構なことなのだが、「輝く(カガヤク)」では似たり寄ったりではなかろうか?…なかなか「カク」に届かない。「カク」にはかなりの数の意味があるのだが、思いに沿わない、ってところであろう。

「縵と矛」は従来よりの解釈に従っておられるのだが、参考文献豊かにより詳細に事例を挙げられている。それぞれの文字単独で引用すれば説明されている通りかと思われる。苦労されたのが、やはり、この形状を二つ、ワザワザ記述した根拠であろう。神事に関わる装飾具とされているが、推論に留まっているように思われる。

雑駁に読んだのみであるが、従来説に則った解釈では到底納得できるようなものには至っていないと思われる。本説話の本意「多遲摩毛理の忠誠譚」そうと受け取っても差し支えないとは思われるが、それでは古事記の伝えるところが軽薄になる。急速に拡大する倭国の若手人材への要求であろう。それを求めるのは、やはり「常世国」新進の人が集まっているところなのである。

根来麻子氏に感謝である。「縵=比賣」に繋がったのである。上記⑸に「縵」=「蔭」と記述されている。「蔭」=「陰」=「富登」古事記に「訓陰云富登」と記載されている。Wikipediaよると種々雑多な謂れが記載されている。不詳であろう。縵=比賣」「矛=比古」ひょっとしたらこれが最も確からしい由来になるかもしれない。

「登岐士玖能迦玖能木實」読み解き、漸く完了である。そして垂仁天皇【説話】も無事終わらせることができたようである。参照願う。

ところで常世国の何処を多遲摩毛理は探したのか?・・・前記の記述も併せて示す。
 
<常世国:壱岐市勝本町仲触>
「橘」は端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる「図柄」を「橘」に比喩したものと解釈される。

その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川の流れる谷が描く図柄の象形を示していると読み解ける。

常世国の何処に行ったのであろうか?…常世は既に登場し、現在の壱岐市勝本町の北端にあったところとした。

この地は標高差が少なく深い谷間があるとは言い難いが、台地の北麓は急な斜面を持ち分岐した谷を形成していることが判る。

北側から眺めた俯瞰図では現在も多くの棚田が作られていることが見て取れる。図に示した以外にもっと小ぶりなものもあっただろう。多遲摩毛理はそれを隈なく訪れたのであろう。
<登岐士玖能迦玖能木實の俯瞰図>

「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。

「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。

「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。

だから「(死者の霊に手向ける)立花(タチバナ)」なのだ、と伝えている。

「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實(キミ)」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。

后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったと伝えられているとのことである(古事記では「土師部」を定めるとの記述と関連)。上記の事件が関連するのであろうか、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。

おっと、垂仁天皇と后の墓所が残っていた。これが決して簡単ではないようで、次回にしようかと思う。古事記には珍しい后の御陵、特と拝見、である。










 
















<常世国:壱岐市勝本町仲触>
「橘」は端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる「図柄」を「橘」に比喩したものと解釈される。

その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川の流れる谷が描く図柄の象形を示していると読み解ける。

常世国の何処に行ったのであろうか?…常世は既に登場し、現在の壱岐市勝本町の北端にあったところとした。

この地は標高差が少なく深い谷間があるとは言い難いが、台地の北麓は急な斜面を持ち分岐した谷を形成していることが判る。

北側から眺めた俯瞰図では現在も多くの棚田が作られていることが見て取れる。図に示した以外にもっと小ぶりなものもあっただろう。多遲摩毛理はそれを隈なく訪れたのであろう。


「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。

「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。

「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。

だから「(死者の霊に手向ける)立花」なのだ、と伝えている。

「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。

古事記は語らないが、后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったという説話もあるとのこと。上記の事件が関連するのかどうか定かでないが、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。

「不老不死」の木を持ち帰ったのに后も亡くなる、だから古事記の記述は矛盾する?…などの論考もネットにある。自ら作り上げた齟齬は矛盾とは言わない。いずれにしても「不老不死」などと関連付けてきた解釈は廃棄すべきものであろう。