垂仁天皇【説話】


垂仁天皇【后・子】                        景行天皇

垂仁天皇【説話】



1. 沙本毘古・沙本毘賣の謀反
 
記述された説話を紐解いてみよう。第一番目が上記の説話となる。古事記中最も物語性の高い記述だとか、兄弟亡くなるわけだから悲劇的なストーリーであることには違いない。また氷室冴子氏の「銀の海金の大地」この物語が原型とか、多くの方がご存知であろう。結論めくが、全く異なったものとなりそうである。
 
古事記原文[武田祐吉氏訳](以下同様)…、
 
此天皇、以沙本毘賣爲后之時、沙本毘賣命之兄・沙本毘古王、問其伊呂妹曰「孰愛夫與兄歟。」答曰「愛兄。」爾沙本毘古王謀曰「汝寔思愛我者、將吾與汝治天下。」而、卽作八鹽折之紐小刀、授其妹曰「以此小刀、刺殺天皇之寢。」故、天皇不知其之謀而、枕其后之御膝、爲御寢坐也。爾其后、以紐小刀爲刺其天皇之御頸、三度擧而、不忍哀情、不能刺頸而、泣淚落溢於御面。
[この天皇、サホ姫を皇后になさいました時に、サホ姫の命の兄のサホ彦の王が妹に向つて「夫と兄とはどちらが大事であるか」と問いましたから、「兄が大事です」とお答えになりました。そこでサホ彦の王が謀をたくらんで、「あなたがほんとうにわたしを大事にお思いになるなら、あなたとわたしとで天下を治めよう」と言つて、色濃く染めた紐のついている小刀を作つて、その妹に授けて、「この刀で天皇の眠つておいでになるところをお刺し申せ」と言いました。しかるに天皇はその謀をお知り遊ばされず、皇后の膝を枕としてお寢やすみになりました。そこでその皇后は紐のついた小刀をもつて天皇のお頸くびをお刺ししようとして、三度振りましたけれども、哀かなしい情に堪えないでお頸をお刺し申さないで、お泣きになる涙が天皇のお顏の上に落ち流れました]

メインの登場人物はこの三人、垂仁天皇、その后の沙本毘賣命とその兄の沙本毘古王である。夫と兄を天秤に懸けるという設定、少々無理があるように感じられるが、内輪の事情を忖度しても致し方ないのでこのまま続けよう。

天皇の寝首をかけとは物騒な話で、何だかその為に妹を天皇に差し出した、と言う感じもする。それよりも自分が天皇になろう、ということだから、えらく力をつけてきた連中であろう。彼らの出自を下図に示した。丸邇臣の祖となる系譜を持つ日子國の日子坐王が沙本之大闇見戸賣を娶って誕生したのが沙本毘古王と沙本毘賣命である。
 
<沙本毘古王・沙本毘賣命>
彼らの名前に付く「沙本=辰砂の麓」とし(前記【后・子】を参照)、辰砂が取れる「壹比韋」の麓を意味すると解釈した。

母親の沙本之大闇見戸賣が示すのは「辰砂の採掘坑」であり、それを管理監督する役目を持っていた読み解いた。

彼女は春日建國勝戸賣(父親不明)の子と記され、この名前も「国を建てる」という、なんとも物騒な命名であった。

「辰砂」=「丹」であり、当時の大変貴重な材料である。天皇の別名(崇神天皇紀)は伊玖米入日子伊沙知命であり「沙知=辰砂の獲得」を暗示していたと紐解いた。本事件に深く関わる命名なのである。

図に示した通り「丸邇」=「丸(壹比韋)の近隣」と解釈した。「辰砂」の採掘/精製に長けた一族と告げているようである。古事記が詳細に、応神天皇紀の歌の中にも記載しているキーワードである。従来は「沙」の意味するところが読み取れず、闇を見る人、預言者、巫女のような受け取り方である。古事記解読、全く闇の中である。

余談だが…金属鉱山の坑道は「間歩」と呼ばれ、人一人が入る洞穴が各地に今も残っている。辰砂の坑道も同じように呼ばれたのであろうが・・・世界遺産となっている石見銀山を訪れた時、数百も残る「間歩」と周辺の街並み、当時の勢いを感じさせられた。

日本書紀では二人の名前は「狭穂毘古」「狭穂姫」である。読みが合えば良し、ではなかろう。いや、事実はこの表記であったのかもしれない。が、それでは上記の紐解きは不可、古事記は敢えて場所を示す為に異なる表記をしている、と読み解くこともできる。日本書紀が最も嫌がるところである。

春日建國勝戸賣も「建国しがち(仕勝ち)」=「建国を心密かに目論む」としたが、これも本事件の伏線のつもりで記述されているように感じられる。なんとも壮大な夢を持った女性なのである。彼らは全て「春日」に住まう邇藝速日命の血統を持つ。服したと言えども心の底に潜む思いも重ね合せているのかもしれない。

更に父方の祖母である日子坐王の母親、意祁都比賣命、「意祁都」=「山稜の端が大いに集まるところ」と紐解いたが、また「思いは大きく都にする」と解釈できなくもない。とすれば、負けじと壮大である。丸邇臣之祖・日子國意祁都命之妹である。ここに登場する人々の名前は地形象形とその性格を同時に表現したものと判る。正に万葉の世界であろう。
 
<系譜>
「虚空見日本国」で果てしない夢と希望を抱いて来た一族の中にいる沙本毘古、沙本毘賣である。

兄妹の両親、祖母達は「丹」を獲得して、再びその夢を叶えようとする気配を示し、その一端に兄妹の行動を位置付けようとした説話と読み取れる。

こんな背景が天皇家の王子に取入り、そして天皇そのものに取入った今がチャンスと「どっちが大事」と言わせしめたのであろう。そしてそれに応えようとした妹・・・、

乃天皇驚起、問其后曰「吾見異夢。從沙本方暴雨零來、急沾吾面。又錦色小蛇、纒繞我頸。如此之夢、是有何表也。」爾其后、以爲不應爭、卽白天皇言「妾兄沙本毘古王、問妾曰、孰愛夫與兄。是不勝面問故、妾答曰愛兄歟。爾誂妾曰、吾與汝共治天下、故當殺天皇云而、作八鹽折之紐小刀授妾。是以、欲刺御頸、雖三度擧、哀情忽起、不得刺頸而、泣淚落沾於御面。必有是表焉。」
[そこで天皇が驚いてお起ちになつて、皇后にお尋ねになるには、「わたしは不思議な夢を見た。サホの方から俄雨が降つて來て、急に顏を沾ぬらした。また錦色にしきいろの小蛇がわたしの頸くびに纏まといついた。こういう夢は何のあらわれだろうか」とお尋ねになりました。そこでその皇后が隱しきれないと思つて天皇に申し上げるには、「わたくしの兄のサホ彦の王がわたくしに、夫と兄とはどちらが大事かと尋ねました。目の前で尋ねましたので、仕方しかたがなくて、兄が大事ですと答えましたところ、わたくしに註文して、自分とお前とで天下を治めるから、天皇をお殺し申せと言つて、色濃く染めた紐をつけた小刀を作つてわたくしに渡しました。そこでお頸をお刺し申そうとして三度振りましたけれども、哀かなしみの情がたちまちに起つてお刺し申すことができないで、泣きました涙がお顏を沾ぬらしました。きつとこのあらわれでございましよう」と申しました]

・・・事は成就しなかった。夢を使って「言向」である。いや、本当に見た夢なんだから・・・。迫真の演技に后は思わず「言向」に答えてしまった・・・何も知らない、心優しき夫の寝首などかける筈もなく、全てを曝してしまう…ドラマチックな展開、世に言われる物語性十分な場面である。そして物語は先へと進む・・・、

爾天皇詔之「吾殆見欺乎。」乃興軍擊沙本毘古王之時、其王作稻城以待戰。此時沙本毘賣命、不得忍其兄、自後門逃出而、納其之稻城、此時其后妊身。於是天皇、不忍其后懷妊及愛重至于三年、故廻其軍不急攻迫。如此逗留之間、其所妊之御子既產。故出其御子、置稻城外、令白天皇「若此御子矣天皇之御子所思看者、可治賜。」於是天皇詔「雖怨其兄、猶不得忍愛其后。」故卽有得后之心。
[そこで天皇は「わたしはあぶなく欺あざむかれるところだつた」と仰せになつて、軍を起してサホ彦の王をお撃ちになる時、その王が稻の城を作つて待つて戰いました。この時、サホ姫の命は堪え得ないで、後の門から逃げてその城におはいりになりました。 この時にその皇后は姙娠にんしんしておいでになり、またお愛し遊ばされていることがもう三年も經つていたので、軍を返して、俄にお攻めになりませんでした。かように延びている間に御子がお生まれになりました。そこでその御子を出して城の外において、天皇に申し上げますには、「もしこの御子をば天皇の御子と思しめすならばお育て遊ばせ」と申さしめました。ここで天皇は「兄には恨みがあるが、皇后に對する愛は變らない」と仰せられて、皇后を得られようとする御心がありました]

是以、選聚軍士中力士輕捷而宣者「取其御子之時、乃掠取其母王。或髮或手、當隨取獲而掬以控出。」爾其后、豫知其情、悉剃其髮、以髮覆其頭、亦腐玉緖、三重纒手、且以酒腐御衣、如全衣服。如此設備而、抱其御子、刺出城外。爾其力士等、取其御子、卽握其御祖。爾握其御髮者、御髮自落、握其御手者、玉緖且絶、握其御衣者、御衣便破。是以、取獲其御子、不得其御祖。故、其軍士等、還來奏言「御髮自落、御衣易破、亦所纒御手玉緖便絶。故、不獲御祖、取得御子。」爾天皇悔恨而惡作玉人等、皆奪其地、故諺曰「不得地玉作也。」
[そこで軍隊の中から敏捷な人を選り集めて仰せになるには、「その御子を取る時にその母君をも奪い取れ。御髮でも御手でも掴まえ次第に掴んで引き出し申せ」と仰せられました。しかるに皇后はあらかじめ天皇の御心の程をお知りになつて、悉く髮をお剃りになり、その髮でお頭を覆おおい、また玉の緒を腐らせて御手に三重お纏きになり、また酒でお召物を腐らせて、完全なお召物のようにして著ておいでになりました。かように準備をして御子をお抱きになつて城の外にお出になりました。そこで力士たちがその御子をお取り申し上げて、その母君をもお取り申そうとして、御髮を取れば御髮がぬけ落ち、御手を握れば玉の緒が絶え、お召物を握ればお召物が破れました。こういう次第で御子を取ることはできましたが、母君を取ることができませんでした。その兵士たちが還つて來て申しましたには、「御髮が自然に落ち、お召物は破れ易く、御手に纏いておいでになる玉の緒も切れましたので、母君をばお取り申しません。御子は取つて參りました」と申しました。そこで天皇は非常に殘念がつて、玉を作つた人たちをお憎しみになつて、その領地を皆お奪とりになりました。それで諺ことわざに、「處ところを得ない玉作たまつくりだ」というのです]

沙本毘古王は稲城(稲を積んで造る柵か?)を作って応戦する。沙本毘賣の別名である「佐波遲比賣」の表現が伏線である。沙本の地は「治水の行き届いたところ」と紐解いた(上図参照)。沙本は辰砂の麓であるが、同時に豊かな水田を有するところでもあったと告げている。だから「稲城」なのであろう。

残念ながら「稻城」の場所を特定することは難しいようである。上図<沙本毘古王・沙本毘賣命>の沙本毘古王と沙本毘賣命の間に四郎丸という地名がある。広々とした水田に面したところであり、この辺りで城を構えたのかもしれない。

「不得忍其兄」・・・時が過ぎて二人の間に出来ていた御子について、夫婦間の思いやり、涙を誘う場面が続く。罰するのは黒幕の兄であって、后は許そうとしたが、后自らその機会を閉じる。最後の場面である・・・、

亦天皇、命詔其后言「凡子名必母名、何稱是子之御名。」爾答白「今當火燒稻城之時而火中所生、故其御名宜稱本牟智和氣御子。」又命詔「何爲日足奉。」答白「取御母、定大湯坐・若湯坐、宜日足奉。」故、隨其后白以日足奉也。又問其后曰「汝所堅之美豆能小佩者、誰解。」美豆能三字以音也。答白「旦波比古多多須美智宇斯王之女、名兄比賣、弟比賣、茲二女王、淨公民、故宜使也。」然、遂殺其沙本比古王、其伊呂妹亦從也。
[また天皇がその皇后に仰せられるには、「すべて子この名は母が附けるものであるが、この御子の名前を何としたらよかろうか」と仰せられました。そこでお答え申し上げるには、「今稻の城を燒く時に炎の中でお生まれになりましたから、その御子のお名前はホムチワケの御子とお附け申しましよう」と申しました。また「どのようにしてお育て申そうか」と仰せられましたところ、「乳母を定め御養育掛りをきめて御養育申し上げましよう」と申しました。依つてその皇后の申されたようにお育て申しました。またその皇后に「あなたの結び堅めた衣の紐は誰が解くべきであるか」とお尋ねになりましたから、「丹波のヒコタタスミチノウシの王の女の兄姫えひめ・弟姫おとひめという二人の女王は、淨らかな民でありますからお使い遊ばしませ」と申しました。かくて遂にそのサホ彦の王を討たれた時に、皇后も共にお隱れになりました]

「汝所堅之美豆能小佩者、誰解。」なかなかの言い回し。流石に天皇、着替えも従者がする。もっと意味深く、后は心得て対応する。しかし、シナリオを后に喋らさせるという小賢しい設定でもある。ところで「本牟智和氣(ホムチワケ)」の由来は何と解する?…「火中所生」の「火=ホムラ」と掛けられていることは判るが…、
 
本(沙本)|牟(奪う)|智(火の傍らで得る)

…「沙本を奪って火の傍らで得た」和気と紐解ける。「智」=「知(得る)+日(火)」と解釈する。些かゴリ押しの感があるが、通うじないわけでもないようである。やはり真面目に地形象形しているのではなかろうか・・・。


<本牟智和氣>
「本」=「沙本」で「沙の麓」を表すことに変わりはなく、「牟」=「[牟]の地形」を象ったものであろう。

「智」=「知+日」と分解され、更に「知」=「矢+口」と粉々にする。

これも既に幾度か行った分解である。和知都美命などに含まれていた。

すると「日(炎)」と「矢口(鏃)」の地形があるところを示すと紐解ける。

後にこの地に智奴王が坐した場所と比定することになる。本牟智和氣が古事記に登場するのは垂仁天皇紀以降には見当たらないようである。

必要なところを繋ぐと…、
 
沙本の[牟]の形の地にある[炎]と[鏃]の地形

…の和氣(嫋やかに曲がった様子の地)と紐解ける。母親の沙本毘賣命の許にあって、真に御子の出自の場所を丁寧に表す名前であることが解る。

前記<垂仁天皇【后・子】>では「品牟都和氣命」と表記された。あらためて「品牟都」を紐解くと…、
 
品(段差)|牟([牟]の地形)|都(集まる)

…「段差の地と[牟]の形の地が集まるところ」と紐解ける。全く矛盾のない地形象形であろう。随行した曙立王は師木登美豐朝倉曙立王報償される。これに含まれる「豐」=「段差の高台」を示す。実に丁寧に重ねた表現と思われる。

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「湯坐(ユエ)」=「養育者」「日足」=「養育」と解釈される。「日足」は日別の株価?…なんてことはなく「日々の歩み」と原義に戻って理解しておこう。

この説話は間違いなく垂仁天皇が仕組んだ「罠」である。急激に台頭してきた丸邇一族の処置、これが彼の最重要な課題であった。その技術を受け継ぎながら天皇家に巣食う彼らの放逐、またその首謀者たる者の処分、それらを両立させた解が求められたのである。

兄妹は敢無く命を失くすのであるが、后に後添いの心配をさせ、最もよく知る春日の地の比賣を紹介せず、他国の「淨公民」を推薦する。それに従う心優しきだけの天皇・・・ではないであろう。后に優しく「言向」て全てを曝させることができた天皇であった。

首謀者の沙本毘古王は採銅、採石場所の日下部連の祖、鏡の製作には朱砂は欠かせない研磨剤であり、そのままでは全ての実権を握られる不安があった。他の二人の王子、袁邪本王と室毘古王は葛野別、近淡海之蚊野別の祖及び若狭之耳別の祖にそれぞれ配置転換、左遷とも受け取れる。

「春日」に入って来たのは旦波と山代出身の母親を持つ二人の王子である。伊許婆夜和氣王:沙本穴太部之別祖、五十日帶日子王:春日山君、高志池君、春日部君之祖となる。

天皇に奏上する体裁を保ちながら暗に示した記述は流石である。「丹」は柱を鮮やかな朱色に変える、神宝となる鏡の輝を増す、金と合せ使えば(アマルガム)、なんと黄金の館が生まれる、艶めかしい女性の眉を引く、何故か食物が腐らない…一般人には無用なものもあろうが、天皇及び王族にとっては欠かせないものであったろう。また、その摩訶不思議な変化、魔術であった。それに惹かれた。

決して丸邇氏一族を排除したのではない。天皇家に絡んできた、その一部の者達を排除しただけである。残った彼らはその技術に誇りと自信をもって益々需要の高まる「丹」を生産したことであろう。皇位継承の兄弟紛争以外には殲滅作戦を取らない、と言っているようである。

前記で垂仁天皇の和風諡号は二つの表記があった。「伊久米伊理毘古伊佐知命」「伊玖米入日子伊沙知命」これらによって「丹を手中にし、更にその取得を促進する」策を施したと読み解いた。本説話はその実態をあからさまにしたものであろう。真に辻褄が合った記述と感心させられる。
 
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登美の地に邇藝速日命の一団、三十数名の将軍を抱える大船団がやって来た(別書に従う)。現在の福岡県田川郡赤村、そこに聳える戸城山を根城として、十種の神宝を持ち、天神の見印をかざして侵攻した。その地を「春日」(日=邇藝速日命)という呼び名に変えて「虚空見日本国」への第一歩を歩んだのである。

しかし、思うようには事は運ばず、特に「銅」の産地を抑えられなかったのが痛かった。「神」の怒りをかってしまい、神倭伊波禮毘古命の登場となった。彼の戦略は当たった(太陽饒速日でキャンセル)。饒速日命から受け継いだ神宝を守り、香春の地に落ち着いたのである。

だが、決して楽ではなかった。幾人かの天皇が変わって始めて「春日」に辿り着き、そして御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が都の中心「師木」(低く小さな山が無数にあるところ)、現在の田川郡香春町中津原の御祓川辺に「師木水垣宮」を作って坐した。

<辰砂>
邇藝速日命一族が切り開いた地に若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)が侵出した。それは元来そこで生きて来た住民にとって全てを歓迎する出来事であったろうか。

彼らは辰砂=丹という世にも珍しいモノを見つけていたのである。だが、力及ばず次第に端に追いやられてしまう、そんな経緯を想像する。

これが沙本毘古・沙本毘賣の謀反の背景であり、真相ではなかろうか。開化天皇の諡号「大毘毘命」=「坑道に集まる人を加護する天皇」裏を返せば見張ってる張本人とも解釈できる。

丹に関する鬩ぎ合い、軋轢それが謀反の動機であろう。春日の地の銅に勝るとも劣らない「宝」に多くの人が集まった。天皇家を脅かす輩も現れる。この危機を乗越えずしてなんとする、垂仁天皇の知恵の出しどころと、記されている。上図<辰砂 (cinnabar), HgS, trig. 大和水銀鉱山、益富地学会館標本 No. 001336,8.5cm>。

戸城山西麓、大坂山南麓のこの地は多彩なところであった。難波津に向かう重要な交通路でもあった。今は静かな佇まいのように思うが、人々が踏み残した跡は計り知れないものがあった、が、今は知るすべを知らない。あらためて香春岳周辺の資源の豊かさに驚かされる。銅(一時金も)、石灰石、丹、後世には石炭あり。鉱物種類の豊富さには目を見張るものがあるとの報告もある。

資源ではないが極めて特異な、穴ぼこだらけのカルスト台地もある。また、決して楽に暮らせるところでもなかった。葛城、葛原の地名、「葛」=「乾いてゴツゴツしている様」、加えて決して高山ではないが驚くほどの急斜面の土地、それらを巧みに利用してきた「知恵」と「工夫」の豊かさにも驚かされる。

そんな「技」を大切に思う心を持っていたこと、と言うか、それこそ「国力」を示す、今も変わらない根本を繰り返し述べている古事記に教えられた。こんなことを考えると日本の発祥の地として、さもありなん、という気持ち、少ない資源を如何に有効に使い続けていくこと、それが現在、未来の日本人としての変わらぬ原点、と心よりそう思う。
 
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2. 鵠の追跡

助け出された御子は「今當火燒稻城之時而火中所生、故其御名宜稱本牟智和氣御子」(火=ホムラ)の曰くがあって命名された。ところがこの御子は言葉を発せず、飛び行く鵠を見て”阿藝(アギ)”と言ったことから鵠捕り名人の山邊之大鶙が鵠を追い求める羽目になった、と前段に記述される。


古事記原文[武田祐吉訳]…、

率遊其御子之狀者、在於尾張之相津、二俣榲作二俣小舟而持上來、以浮倭之市師池・輕池、率遊其御子。然、是御子、八拳鬚至于心前、眞事登波受。故、今聞高往鵠之音、始爲阿藝登比。爾遣山邊之大鶙此者人名令取其鳥。故是人追尋其鵠、自木國到針間國、亦追越稻羽國、卽到旦波國、多遲麻國、追廻東方、到近淡海國、乃越三野國、自尾張國傳以追科野國、遂追到高志國而、於和那美之水門張網、取其鳥而持上獻。故、號其水門謂和那美之水門也。亦見其鳥者、於思物言而、如思爾勿言事。
[かくてその御子をお連れ申し上げて遊ぶ有樣は、尾張の相津にあった二俣の杉をもって二俣の小舟を作って、持ち上って來て、大和の市師の池、輕の池に浮べて遊びました。この御子は、長い鬢が胸の前に至るまでも物をしかと仰せられません。ただ大空を鶴が鳴き渡ったのをお聞きになって始めて「あぎ」と言われました。そこで山邊のオホタカという人を遣って、その鳥を取らせました。ここにその人が鳥を追い尋ねて紀の國から播磨の國に至り、追って因幡の國に越えて行き、丹波の國・但馬の國に行き、東の方に追いつて近江の國に至り、美濃の國に越え、尾張の國から傳わって信濃の國に追い、遂に越の國に行って、ワナミの水門(みなと)で罠を張ってその鳥を取って持って來て獻りました。そこでその水門をワナミの水門とはいうのです。さてその鳥を御覽になって、物を言おうとお思いになるが、思い通りに言われることはありませんでした]

なん10ヶ国名…通説は近畿、山陽の一部、山陰、近江を経由して北陸まで大鶙さん、無口な御子に”阿藝”と言って頂くために大変な旅をなされたのこと。勿論これは登場する主要な国の位置関係が極めて明瞭に判るように記述されている。通説の配置にすると混迷だけが明かになるのであるが・・・。

❶木國

命を受けた山邊之大鶙は南の端から順に鵠を追って行ったのであろうか。スタートは「木國」である。大國主命の段で登場の木國之大屋毘古神は英彦山山系の求菩提山の最も南側の山稜が延びた端、現地名の福岡県豊前市大村辺りとした。鵠が居そうなところとしては中川などの多数の川が注ぐ大きな入江にある「州」と考えられる。勿論当時の海岸線は現在よりも大きく内陸側に後退していたものと推定される。おそらく現在の標高から推測す現在の国道10号線辺りが海岸線であったのではなかろうか。

❷針間國

自木國到針間國」の表記を見ると、木國に隣接するところと思われる。隣接しなければならないほど堅苦しい表現ではないが、自然な読み取りはその間に特に注目すべきこともなし、という受け取り方であろう。「針間」…、
 
針(針のように細長い)|間(谷間)

…の地形象形である。現在の築上郡築上町椎田辺りと思われる。椎田の「椎」=「背骨」である。山の稜線を胸骨に見立てた、そのものズバリの表現ではなかろうか。

真如寺川、極楽寺川、岩丸川そして城井川など複数の川が針間の谷から流れて来る地形である。豊前市に隣接するところである。木國から針間國へは河口付近を探索したのであろう。山稜が海岸線近くにまで延びており海路を選んだものと思われる。

❸稻羽國
<稻羽國>

追越稻羽國」と記述される。「追越」=「追って越える」と読める。針間國からは山稜が伸び切った地形、丘陵地帯に入ったのであろう。

即ち海路からでは鵠の居そうな水辺は内陸に入った池、沼の近隣を探索するのは難しく、上陸したと思われる。おそらくは、舟を引いてであろうが・・・。
 
稻(しなやかに曲がる)|羽(羽のような地形)

…「しなやかに曲がって羽のような地形」と解釈できるであろう。大國主命の段の稻羽と同じ解釈である。「稲」の様子を象った表記である。この地形を示す場所に名付けられたものと思われる。

城井川と岩丸川で挟まれた実に広大な丘陵地帯であり、現在も多くの池がある「州」である。現地名は築上郡築上町越路とある。この大きな「州」は越えていくイメージであったのだろう。

❹旦波國、多遲麻

卽到旦波國、多遲麻國」と記される。「卽」=「直ちに」接していると告げている。城井川を引っ張って来た舟で渡れば多遲麻國、更には遮る大河もないその先は旦波國となる。
 
多(山稜の端の三角州)|遲(延びた山稜が刃物の形)|麻(擦り潰された)

…「山陵の端の三角州が擦り潰された刃物のような形をしている」國と紐解ける。頻出の「多」([三日月]の地形)また「麻」は「阿麻」の解釈と同様である(多遲麻はこちら参照)。

この地も海まで台地形状の地が続き、治水のための多くの池が作られていたのであろう。やや内陸側の陸地を辿ることになったと推測される。またそれが旦波国の北端近くにまで続き、漸く河口付近の「州」に到着できたと思われる。「旦波」とは?…「旦」=「水平な地に昇る太陽」の象形として…、
 
旦(水平な地に昇る太陽)|波(稲穂の波)

…「水平な地に昇る太陽で稲穂の波が燦めく」国のように受け取れる。この国名は「丹波」とも表記される。「丹波」=「赤い稲穂の波」と紐解く。赤米が実る地を表したものではなかろうか。

現在の行政区分からではあるが、行程は築上郡築上町築城から上・下別府を経て、行橋市松原及び稲童に抜けたのであろう。池(沼)から池へと辿って行ったと推測される。そして長野間川河口付近に至ったと思われる。

❺近淡海國

追廻東方、到近淡海國」と記載される。とりわけ注目すべきは「追廻東方」=「追って東方に廻る」と解釈する。東方に向かうのではない。東に回るとは、一旦東に出て向かうという意味であろう。結果的には西方の地に向かったのである。

近淡海國は現在の行橋市の中心地を囲む入江であったと推定される。当時は大半が海面下であり、極めて大きな入江であったと思われる。祓川、犀川、長峡川、小波瀬川等々多くの、かつ大河が流れ込む場所である。おそらく大鶙の一行は難波の海辺を周回しながら入江の北端に辿り着いたのではなかろうか。現地名は京都郡苅田町片島辺りである。

だが、この先は大変過酷な道筋になる。三野國に向かうのであるが、海路を使うと大きく迂回の行程になる。逡巡するところであったろう。

❻三野國

<近淡海國・三野國>
越三野國」である。海路を採用せずに、と言っても山越えもできず、陸路を進みながら山稜の端、海辺との境の行程を取ったのであろう。

神倭伊波禮毘古命の「熊野村」(現地名は京都郡苅田町神田辺り)を通過して「三野」に到着する。

阿遲志貴高日子根神が大暴れをした「美濃」である。この地は「箕」の地形象形と紐解いた。現地名は北九州市小倉南区朽網辺りと推定された。

山稜が海辺に迫り、海路からの接近の方法を採用したのではなかろうか。「本巣」=「元来は州」の辺りを眺めれば鵠が居るかどうかが判ったと思われる。

そんな地形は尾張国まで続く。ここも現在とは大きく異なり内陸部に食い込んだ入江(干潟)であったと推測される。川の河口付近の探索が主となったであろう。

❼尾張國

この国への工程については記述がない。三野から尾張は「卽」なのであろう。現地名は北九州市小倉南区長野、些か尾張は広く、長野の周辺を海路で見渡したのではなかろうか。
 
尾(山稜の端)|張(張り出した)

…貫山山塊の山稜が幾重にも重なりながら大きく広がった地形である。

❽科野國
<尾張國・科野國>

「自尾張國傳以追科野國」尾張國から「伝」して科野國と記される。入江の奥を伝え行ったと読める。

現在は竹馬川が流れる場所であるが、複数の川が流れこむ地であったと思われる。その河口付近を眺めて、着いたところが科野国と言う。

「科」=「段差」と読む。よく知られた蕎麦屋さんの屋号「更科」は信州の「蕎麦」が有名なことからその地形を表したものと言われる。

「更」と「科」は同じ意味を示し、それが「段差」である。地形が急峻で段差をつけて人々が住んだところである(国土地理院報告書)

現地名は北九州市小倉南区葛原、足立山の南麓に当たる。急傾斜の山腹を持ち、川は「湯」の如く流れ、留まることを知らない。「葛」→「渇」に通じ、渇いた土地を表すと紐解いた。ここには鵠は立ち寄らない、かも?…作られた「沼」は海辺にはないが、何とか探索して…そこから先は増々急峻になって海路を選択したのであろう。山が迫る海岸線を迂回しながら目指すは高志國である。

❾高志國

「高志」は速須佐之男命の高志之八俣遠呂智で登場した。「高志」=「盛んに蛇行して流れる川」と紐解いた。同様に出雲の東側の地も「高志」が見られる場所であり、その地を「高志國」として名付けたのであろう。勿論「越(峠を越したところ)」も意味するのであろうが、古事記にその表記は出現しない。現在の北九州市門司区伊川辺りと推定される。

この説話中で唯一情報があるのが「水門」と「和那美」であろう。「水門(ミナト)」=「港、湊」と解釈されている。場所は判っているが、その国の何処か?…これから紐解いてみよう。

「水門」Wikipediaによると古くは「港湾(ミナト)」、日本書紀、古事記に記載があるから…全体が拡大解釈ならパーツも拡大? そんなわけはない古くから「水門」=「樋門(ヒモン)」として治水事業にはなくてはならないものとして開発されて来ている。「唐樋門」などがあるという。
 
<鵠の追跡>
これでネット検索すると伊川に隣接するところで「猿喰新田の唐樋門」がヒットする。

現存するものは18世紀頃に設置されたとのことである。

急傾斜の山麓で川が少なく、それに伴う扇状地の発達が遅く、止むを得ず海面ぎりぎりで水田を確保する必要性があったと思われる(猿喰新田潮抜き穴)。

この地は「樋門」が不可欠、と言うか実に巧みな工夫がなされていたのであろう。

「高志」に隣接し、同様の地形を示している。天菩比命之子・建比良鳥命が祖となった伊自牟國、「自牟」=「自ら増大する」言い得て妙な命名である。

後には大入杵命が祖となり、「能登」と呼ばれたところでもある。

少ない川の水を貯め、そして海からの塩水の逆流を防ぐ、知恵です・・・古事記はそんな「技術」を見逃さないである。

「和那美」とは?…「美」=「羊+大」から羊の甲骨文字を使った地形象形とすると、山稜に挟まれた「谷間が広がる」と紐解ける。
 
<羊>

和(しなやかに曲がる)|那(ゆたりとした)|美(谷間が広がる)

…「しなやかに曲がってゆったりとした谷間が広がるところ」と読み解ける。


<和那美之水門>
この入江…現在は広々とした水田地帯となっているが…当時は海面下で山稜で囲まれたところであったと推測される。

推定した当時の海岸線を破線で示した。入江の入口付近の広い高台は明らかに後代に手が加えられた地形であろう。残念ながら水門の詳細を推定するのは難しいようである。
 

勿論、「和那美」の文字が示す「穏やかに豊かで美しい」という意味合いも重ねているであろう。

求める「鵠(コウノトリ)が好むところは、ここである。だから捕獲することができたと安萬侶君は述べておられる。

超が付く概算で行路100km弱、お疲れさんでした。でも「鵠」がゲットできて目出度し、目出度しである。

最後「吉備國」は「高志國」の更に北にある。その手前で「鵠」を入手できたのだから記述がなくて当然である。目出度し、目出度しである。
<山邉之大鶙>

ところで大変な苦労をした「山邊之大鶙」は何処に住まっていたのか?…どうでも良いこと?…ではなかろう。

天皇であろうがなかろうが、名前はその現住所を物語っている、というのが古事記の「ルール」の筈である。

結果は図に示したように、真に見事な地形象形であった。「鶙」=「帝+鳥」として、「帝」の甲骨文字の形で山稜の図柄を表したものと解る。

柿本(現地名柿下)の「」更には大坂山の「」と並び、この地の名称は、山稜の図柄に依存して名付けられたと思われる。

やはり、解いてみるものである。大坂山~愛宕山山系の南麓が如何に早期に開け、人々が住まった地であるかが、これらの名付けからも伺える。

名前に「鳥」が含まれるから(?)御呼びが掛かり、苦労させられ、挙句に効果は芳しくなかった。何とも悲哀なことなのだが、「山邉」の場所を確定するには、不可欠な登場人物と言える。重ね重ね、労を労わねばならないようである。

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この段最後に「尾張之相津」を紐解いておこう。
 
尾張之相津

<尾張之相津>
「高志道」と「東方十二道」つの異なる道で遠征した将軍親子がドラマチックな再会を「高志国」で果たした。

安萬侶くんの粋な計らいで会った場所が、なんと「相津」。偉大な親子を山に見立てた記述は、なかなかのもの…ちょっと小ぶりな山であるが・・・。

ところでこの「相津」とは異なる場所で「尾張」と修飾される。

また「二俣榲作二俣小舟而持上來」と、どうやら今回の安萬侶くんの見立ては「二俣」である。素直に川が合流する場所と思われる。

「相津」は大毘古命親子の場合と同様に…「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解する。「目」は「網の目(隙間)」を意味するとして…、
 
相津=山稜の隙間にある津

…と読み解ける。現在の地形とは異なり、当時は山稜の端(尾が張った地形)を除くと大半が海面下にあったところである。現地名は小倉南区長野本町(一)辺りと推定される。「目」が二つとしたのは「二俣」に掛けれている、としたが深読み過ぎるかも・・・。

少々余談だが・・・古事記検索では「相津」がヒットするが「(会、合、遭、逢、遇)津」はである。単に「あう」だけでは安萬侶くんの地名命名基準を満たさないようである。戯れたのが多いので、全く基準は不明だが…。
 
二俣舟

ところで、この「二俣舟」とは如何なる物かと調べてみると、実はあまりわかっていない。少し古い文献であるが、田中巽氏の論文(海事資料館年報11(1-6)1983)を紹介する。

田中氏もこの無口な御子の説話の「二俣舟」に興味を持たれた。特に1962年に大阪門真市三島で出土した「古代の独木舟」が「二俣舟」であること、またそれを保管してきた大阪市博物館が手狭になったゆえに廃棄するとの情報を得て、いろいろ画策した上に、論文としておこうとされた、とのことである。

結論的には虚伝ではない。 ②ヘサキが分かれた独木舟である。 ③船木部(八井耳系)なる集団があった。出雲系、尾張系共に銅鐸と関係あり(福井県大石出土の銅鐸絵図は二俣の可能性あり)等が記述されている。何故、二俣? に関しては不明のようである。古代にしか存在しなかったものなのであろう。ならば、博物館の廃棄騒ぎはトンデモないことである。その後如何になったか知る由もないが…。

おそらく、かつての舟は水陸両用であったかと思われる。海上も陸上も滑らせることが重要、船としては二俣にして転覆抑制、ソリの時は引張り/押しやすく、少々スピードは犠牲にしても、である。地図上「船越」地名が多々残ってることを考え合わせれば、こんな予想も許されるであろう。事実、この御子、企救半島を舟で横断している。
 
<遠江國大井河・南海>
また、田中氏は日本書紀の仁徳天皇紀「大井河」にも言及されている…遠江國司表上言「有大樹、自大井河流之、停于河曲。其大十圍、本壹以末兩。」時遣倭直吾子籠、令造船而自南海運之、將來于難波津、以充御船也。…と記述されている。尚、本著が読み解いた場所を右図に示した。

御子の二俣は池に浮かべる大きさだが、大井河の二俣の木は大変な太さである。「二俣舟」は大小問わずに利用されていたと思われる。福井の銅鐸に記載された「二俣舟」の使い道については決着がついていない様子とのことである。

更に上記の「尾張之相津」「遠江国大井河」通説に従って地名比定をされている。かなり説得力あるようで、興味のある方は原著を参照願う。海事資料館、一度訪れてみようかな?…。

ところで、御子が二俣舟を浮かべて遊んだ池の名前が「倭之市師池・輕池」と記されている。不詳なのであるが、鎮西公園の少し東方にある菖蒲ヶ迫池・中原池ではなかろうか。

3. 出雲大神之御心

垂仁天皇の命を受けて大鶙さん、高志國までお出掛けて鵠を見事にゲット、目出度し・・・とはいかず、御子は無口なままであった。困った時の神頼み、占ってみると、出雲の神様の祟りだとか。お参りするほか手は無し。

古事記原文[武田祐吉訳]を示すと…、

於是、天皇患賜而、御寢之時、覺于御夢曰「修理我宮如天皇之御舍者、御子必眞事登波牟。自登下三字以音。」如此覺時、布斗摩邇邇占相而求何神之心、爾祟、出雲大神之御心。故、其御子令拜其大神宮將遣之時、令副誰人者吉、爾曙立王食ト。故、科曙立王令宇氣比白宇氣比三字以音「因拜此大神、誠有驗者、住是鷺巢池之樹鷺乎、宇氣比落。」如此詔之時、宇氣比其鷺墮地死、
[そこで天皇が御心配遊ばされてお寢やすみになつている時に、御夢に神のおさとしをお得になりました。それは「わたしの御殿を天皇の宮殿のように造つたなら、御子がきつと物を言うだろう」と、かように夢に御覽になつて、そこで太卜ふとまにの法で占いをして、これはどの神の御心であろうかと求めたところ、その祟たたりは出雲の大神の御心でした。依つてその御子をしてその大神の宮を拜ましめにお遣りになろうとする時に、誰を副えたらよかろうかと占いましたら、アケタツの王が占いに合いました。依つてアケタツの王に仰せて誓言を申さしめなさいました。「この大神を拜むことによつて誠にその驗があるならば、この鷺の巣の池の樹に住んでいる鷺が我が誓によつて落ちよ」かように仰せられた時にその鷺が池に落ちて死にました]

又詔之「宇氣比活爾。」者、更活。又在甜白檮之前葉廣熊白檮、令宇氣比枯、亦令宇氣比生。爾名賜曙立王、謂倭者師木登美豐朝倉曙立王。登美二字以音。卽曙立王・菟上王二王、副其御子遣時、自那良戸、遇跛盲、自大坂戸、亦遇跛盲、唯木戸是掖月之吉戸ト而出行之時、毎到坐地定品遲部也。
[また「活きよ」と誓をお立てになりましたら活きました。またアマカシの埼の廣葉のりつぱなカシの木を誓を立てて枯らしたり活かしたりしました。それでアケタツの王に、「大和は師木、登美の豐朝倉のアケタツの王」という名前を下さいました。かようにしてアケタツの王とウナガミの王とお二方をその御子に副えてお遣しになる時に、奈良の道から行つたならば、跛ちんばだの盲めくらだのに遇うだろう。二上ふたかみ山の大阪の道から行つても跛や盲に遇うだろう。ただ紀伊きいの道こそは幸先さいさきのよい道であると占うらなつて出ておいでになつた時に、到る處毎に品遲部ほむじべの人民をお定めになりました]

故到於出雲、拜訖大神、還上之時、肥河之中、作黑巢橋、仕奉假宮而坐。爾出雲國造之祖・名岐比佐都美、餝青葉山而立其河下、將獻大御食之時、其御子詔言「是於河下、如青葉山者、見山非山。若坐出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神以伊都玖之祝大廷乎。」問賜也。
[かくて出雲の國においでになつて、出雲の大神を拜み終つて還り上つておいでになる時に、肥の河の中に黒木の橋を作り、假の御殿を造つてお迎えしました。ここに出雲の臣の祖先のキヒサツミという者が、青葉の作り物を飾り立ててその河下にも立てて御食物を獻ろうとした時に、その御子が仰せられるには、「この河の下に青葉が山の姿をしているのは、山かと見れば山ではないようだ。これは出雲のいわくまの曾その宮にお鎭まりになつているアシハラシコヲの大神をお祭り申し上げる神主の祭壇であるか」と仰せられました]

爾所遣御伴王等、聞歡見喜而、御子者坐檳榔之長穗宮而、貢上驛使。爾其御子、一宿婚肥長比賣。故、竊伺其美人者、蛇也、卽見畏遁逃。爾其肥長比賣患、光海原、自船追來。故、益見畏以自山多和此二字以音引越御船、逃上行也。於是覆奏言「因拜大神、大御子物詔、故參上來。」故、天皇歡喜、卽返菟上王、令造神宮。於是天皇、因其御子、定鳥取部・鳥甘部・品遲部・大湯坐・若湯坐。
[そこでお伴に遣された王たちが聞いて歡び、見て喜んで、御子を檳榔あじまさの長穗ながほの宮に御案内して、急使を奉つて天皇に奏上致しました。そこでその御子が一夜ヒナガ姫と結婚なさいました。その時に孃子を伺のぞいて御覽になると大蛇でした。そこで見て畏れて遁げました。ここにそのヒナガ姫は心憂く思つて、海上を光らして船に乘つて追つて來るのでいよいよ畏れられて、山の峠から御船を引き越させて逃げて上つておいでになりました。そこで御返事申し上げることには、「出雲の大神を拜みましたによつて、大御子が物を仰せになりますから上京して參りました」と申し上げました。そこで天皇がお歡びになつて、ウナガミの王を返して神宮を造らしめました。そこで天皇は、その御子のために鳥取部・鳥甘とりかい・品遲部ほむじべ・大湯坐おおゆえ・若湯坐をお定めになりました]

少々長い引用になったが、物語りの主たる流れから紐解いてみよう。誓約もして、いよいよ出発である。が、宮殿の戸口に三方向あって、占いによると一方向しか良いところがない、そこを通って行くことになった。通説とは大きくことなるが、これは極めて重要なところである。折角、師木玉垣宮の在処を示しているのに「奈良の道」「大坂の道」「紀伊の道」では有耶無耶である。ハッキリさせたくなかった?・・・。
 
師木玉垣宮の那良戸・大坂戸・木戸

<師木玉垣宮>
前記<垂仁天皇【后・子】>で伊久米伊理毘古伊佐知命の和風諡号から玉垣宮の場所を比定した。現地名は田川市伊田にある鎮西公園の東側辺りである。

「宮殿の戸口()」とすると「那良戸」=「那良山の方を向いている戸」、「大坂戸」=「大坂山の方を向いている戸」、「木戸」=「木の国の方を向いている戸」となる。

これら三つの方向が直交している場所が垂仁天皇の御所「師木玉垣宮」の在処を示すと告げている。占いは「木戸」が好ましい、という。「出る戸口」が「木戸」であれば良いのである。大事なことは出雲に向かう「道」を選ぶことではない。

さて、曙立王と菟上王の二人を従えた、大軍団で何処に向かったのであろうか?「品遲部」が重要なヒントである。これを置きながらの道行である。「品遲部(ホンヂブ)」=「奉仕義務の直属集団(名代(ナシロ))」と解釈すると、彼らの行く道は陸行であり、その周辺に「国」が形成されていないところである。

<出雲への行程>
選択できる道は唯一「木戸」を出て直に反転し、現在の香春岳東麓を北上、金辺峠越をする道である。


彼らは「品遲部」を設けながら、北へ北へと進んで行くと・・・神倭伊波禮毘古命が通ったルートに行き当たる。当時の幹線ルート、だから語らない?…であろう。

おそらくは東方十二道の伊勢、尾張を経て「波速之渡」で筑紫へと抜けたと推測される。問題はここからで、古事記原文は「故到於出雲、拜訖大神」となる。

大物主大神を祭祀する御諸山への行程も全く語られない。理由は?…相変わらず出雲の南部は彼らにとって未だ踏み込めない地域だからであろう。

迂回のルートではあるが、唯一許されたところは、意富多多泥古の出自に関わる、即ち陶津耳命及び比賣の活玉依毘賣らの住まう地を経て御諸山に参詣したと思われる。

その後は肥河に辿り着いたという。御諸山で参詣すると、山を降りることはなく尾根伝いに戸ノ上山に至り、肥河の畔に達したものと推測される。ここでも古事記は語らないが出雲の南部に踏み込んでいないのである。天皇の御子が御諸山に参詣することは、崇神天皇紀で述べた大国主命と大年神一族との諍いの事後処理の意味を兼ねているようでもある。実に大物主大神の登場はこの段にて終わる。

このように詰めて来ると、古事記は既に十分な情報を提供していたことに気付かされる。相変わらずの記述の仕方なのだが、見事に抜けなく御諸山に辿り着けるのである。
 
出雲之石𥑎之曾宮

肥河に到着した御子達を出雲國造之祖・名岐比佐都美が出迎えたと記述される。帰りはもと来たルートではなくどうやら高志を経由するようである。これも至極当然のルートである。大役を果たした一行は手厚い饗しを受けたと追記される。

肥河之中、作黑巢橋」は「肥河の中流域に黑巢橋を作る」と解釈する。肥河は現在の大川、すっかり小さな流れになったようであるが、当時は大河、八俣之遠呂智であった。「黑巢」は何を意味しているのであろうか?…地形を示している筈である。「巢」=「州」としても、この地は州だらけと思われる。特定は困難であろう・・・孝霊天皇の黑田廬戸宮に含まれる「黑」の紐解きに類似するとして…、
 
黑(谷間で[炎]形の山稜が延びる)|巢(鳥の巣)

…「[炎]のような山稜が延び出ている鳥の巣のようなところ」と解釈すると、肥河の中流域に求める地形が見出だせる。現在は細かい行政区分となっているが北九州市門司区松崎町・奥田辺りと推定される。

大国主命が娶った八嶋牟遲能神之女・鳥耳神の「耳」の更にその端に当たるところである。黑巢橋はこの山稜の裾野で、肥河に架けられた橋を示していると思われる。造られた仮宮は、おそらく現在の大山砥神社辺りではなかろうか。

出雲國造之祖・名岐比佐都美の「岐比佐都美」はその居場所を表しているようである…、
 
岐(二つに分かれる)|比(並ぶ)|佐(支える)|都(集まる)|美(谷間が広がる)

…やや羅列気味の記述かと思われるが、「山稜が二つに分かれていて、川、道など諸々が集まる谷間が広がるところを支える」と解釈できる。居場所は下図を参照。で、なんと、肥川で休息中に無口な御子が喋ったのである。

出雲之石𥑎之曾宮、葦原色許男大神」大国主命の宮の名前が登場する。言葉を発するどころか目に入る風景をみて重要な情報を述べたのである。何が重要か、それを下記に述べる。勿論現在まで全く気付かれなかったことである。
 
<出雲之石𥑎之曾宮>
上記の説話は、御子が肥河の中流域に坐した時川下に見える山ではないが小高いところを見つけ、それを
大国主神が眠る「出雲之石𥑎之曾宮」を祀る場所ではないのか、と言葉を発したと記述されている。

では、この小高いところとは何処であろうか?…坐した場所から見えるところと言えば・・・、


現在の北九州市門司区寺内(一)にある寺内第二団地辺りの小高くなったところと推定される。川下にあるその場所との標高差は殆どなく、山に見えなかったとの記述と全く矛盾しない。

多くの説話を残した出雲のた大国主命の墓所はここで初めて明らかにされる。須佐之男命の須賀宮以来肥河の河口にある小高い場所、現在の観音寺団地と上記の寺内団地となっているところが中心となって栄えていたのであろう。

後に淡海之柴野入杵が登場する。その東側に隣接するのが、この「石𥑎之曾宮」と紐解ける。古事記の舞台の最も重要なランドマークと解読されるところである。「出雲=淡海」である。通説の「淡海=近江」に従えば、「出雲=近江」となる。この矛盾に目をつぶって1,300年、なのである。

「石𥑎」=「イワクマ」と本居宣長以来読み下されて来た。ユニコードに登録されるくらいだから文字としては存在するのであるが、読み・意味については明確な説明を見出されなかった。「𥑎」=「石+冋」とすると「冋」=「ケイ;遠い所の境界線」であるが、墳墓の玄室及び棺を象形した表現と解釈できるのではなかろうか。安萬侶くんが使ってるだけかも、であるが・・・。
 
石(山麓の小高いところ)|𥑎([冋]形)|之|曾(積重なった)|宮

…「戸ノ上山山麓の小高いく[]の形に積重なったところの宮」と紐解ける。速須佐之男命が退治した八俣之遠呂智に含まれる「呂」は、この「冋」が示す場所であった。全て繋がった表記と思われる。
 
肥長比賣

取り巻きが歓喜したのは当然の記述。天皇に急便を出すは、檳榔(ビンロウ)の島でお寛ぎのために船の調達やら、てんやわんやの騒動に、大成果である。そんなにも「出雲大神」は霊験あらたかだったのか・・・。

<馬島=檳榔>
「アヂマサの島」=「馬島」(現地名は北九州市小倉北区馬島)と比定するのだが、これは後の仁徳天皇紀の記述で紐解けた。

檳榔の古名を「アヂ(ジ)マサ」といったという解説もあり、繋がるところではある。

がしかし、それぞれの繋がりの根拠は決して明確ではない。古事記は周り巡る繋がりでその根拠を示す書ではない。

「檳榔」は檳榔が生えている島と解釈するのであろうか?…いや、やはりこれは地形を象形した表現と思われる。

現在の馬島は金崎島を含めた一つの島になっているが、標高を示すと、何と、当時は小高いところの周りは全て海面下であったことが判る。


<例:檳榔の実>
この島の地形を檳榔の実が枝にぶら下がる様子に喩えたものと推察される。面白いのはそれぞれの粒のような島の標高は漸減するのではなく5~10mあたりで明確に段差となっていることである。

即ち粒の縁が暈けておらず、くっきりとしていることが判る。それを受けて、くりっとした実の形状に見立てのではなかろうか。

仁徳天皇が黒比賣を追って吉備に向かう途中で詠う歌に「阿遲摩佐能志麻」と記される。詳細はこちらを参照願うが、「アヂマサ」の記述との関係は仁徳天皇紀にて述べることにする。この「檳榔」の表記が紐解けたことは貴重な結果となった。古事記のランドマークが一つ増えたと思われる。
 
<肥長比賣>
檳榔之長穗宮」は、「穗のように長く延びた地形」を示す場所を表しているのであろう。馬島の北部でその地形を見出すことができる。「宮」は多分谷間の奥辺りかと思われる。

肥長比賣の「肥」=「月([三日月]の地形)+巴(小丸く小高くなったの地形)」の象形であり、「月」=「山稜の端」と解釈すると、「肥長」は…、
 
山稜の端が丸く小高くなった傍で長く延びた山稜があるところ

…と紐解ける。月讀命の「月」=「三日月」=「山麓の三角州」としたが、上記も海に囲まれた三角州である。

ここで寛ぐのは初めからの予定であったようだが、随伴の王たちも喜んで、だろう。が、事件が・・・何かを寓意しているのか…いやこれは戯れの領域であろう。肥長比賣の「肥」に「巴(蛇の象形)」が含まれているとすると、既に名前に「蛇」が含まれている。海上を照らす「月」もある・・・取り敢えず君子危きに近づかず、一目散に逃げる。その逃げ方が貴重な情報提供になる、かもである。
 
自山多和引越御船

<全行程>
「自山多和引越御船」企救半島、船を引いて越えるのである。「多和」=「撓(尾根の鞍部)」武田氏訳の「峠」である。

現在の「大川」に沿って淡島神社付近を通過して奥田峠を経て「伊川」に抜けるルートであろう。

「淡海」→「難波津」→「山背川」→「師木玉垣宮」着である。目出度し、目出度し…。

古事記記述の中で具体的に「舟で越す」とされるのはこれが唯一である。二俣舟との関連も含め真に貴重なところであろう。

谷の入口、北九州市門司区松崎・永黒から伊川まで距離約4km、標高差約50mの峠越えを行ったと推測される。

重量については全く不詳であるが、人力でも十分に可能な移動であったことが伺える。今も各地に残る「船(舟)越」の地名、そして「高志」の地名に当時の情景が浮かぶ。

曙立王・菟上王

天皇の喜びは大変なもの、幼い時に母親を亡くし不幸を背負った上に話すことができなかった御子に対する気持ちの現われであろう。多くの部、坐を作り、また貢献のあった二人の王に対する報奨を賜われたと伝えている。何とも、やはり、目出度い物語と伺える。


<師木登美豐朝倉曙立王>
開化天皇の御子、日子坐王の孫になる兄弟である。兄は「師木登美豐朝倉曙立王」という称号を拝領したとある

なんだかゴチャっと地名らしきものが並んだ名称なのであるが…。

「登美」は登美能那賀須泥毘古、登美夜毘賣の居たところであろう。「豐」=「段差のある高台」、決して豐国絡みではない。

「朝倉」=「朝が暗い」山稜の西麓、しかも東方に高山がある谷を示すと思われる。

すると図のような現在の田川郡赤村内田にある大祖神社の場所が浮かんで来る。登美の入口にあり、段差のある高台で、真東に戸城山を見るところである。

本牟智和氣の出自の場所でもある。物語を遡れば、沙本一族は謀反を起こして征伐されたり、その他の者は他所に移されたり、既に絶滅しかかっていたと読み取れる。曙立王に御子の養育も含めその地を統治させたことを伝えていると思われる。

この長い名前に冠される「師木」は、正にこの地が「師木玉垣宮」の支配下になったことを述べているのであろう。いつもの如く謀反人一族を殲滅することなく、その地の人々を支える統治を行ったと推測される。

開化天皇紀で述べられているように伊勢之品遲部君伊勢之佐那造之祖でもあり、大変な出世をしたものである。菟上王は出雲大神との折衝役であった。出雲の土地勘十分な適役を担った。後に比賣陀君之祖(現地名行橋市上・下稗田辺り)となる。この地は須佐之男命・大年神に繋がる大山咋神が坐した場所(近淡海國之日枝山)の麓と思われるが、大年神一族の消息は語られない。

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甜白檮・熊白檮

物語の展開からすると脇道のようなところであるが、上記の本文に宇氣比に用いた対象が述べられている。抜き出すと「甜白檮之前葉廣熊白檮」の「熊白檮」の葉である。神倭伊波禮毘古命の宮及び陵墓の名称に含まれていた「白檮」は「団栗のような形をした切り株」であり、「丸く小高いところが長く続くところ」の二つの意味を示していると読み解いた。

通説、と言うか一般的な辞書、辞典も含めて、「白檮」=「白樫」あるいは単に「樫」と解説されている。樫の木の一種に「シラカシ」があることから何の疑いも無く、である。漢字辞書「檮」=「切り株」の通りには解釈されていない。詳細は神武天皇紀を参照。

従来の解釈の決定的な齟齬が語られているのである。武田氏は「熊白檮」=「大きな樫の木」と訳されている。辞書によると「熊」は接頭語「大きい」であり、熊蜂・熊笹・・・例が挙げられ、大きな動植物を形容する・・・何かの間違いではなかろうか?…熊蜂はともかく熊笹の「熊」は「隈」であろう。大きな笹ではあるが、最も特徴的なのが白い「隈取り」の葉である。

論理も何もあったものではない。植物の形態を語るに動物の形態を使うなど、あり得ないことであろう。いや、古事記が「熊白檮」と書いている・・・読めていない国書を出典に持ち出すことは”危険”である。

また「甜白檮」とは?…武田氏は「アマカシ」と回避である。勿論樫の木の種類にアマカシはない。粗樫(アラカシ)はある(最も一般的な木)。即ち「白檮」≠「樫」を示しているのである。では冠される「甜・熊」は如何なる意味を表しているのであろうか?・・・。

「甜」=「舌+甘」と分解される。「口の中にある舌」のイメージから「生えでるものが中に含まれている様」を表す文字と解釈する。すると「甜白檮」は…、
 
生え出る枝がまだ中にある切り株

…と読み解ける。「熊」=「能(隅)+灬(炎)」と分解して…、
 
切口の隅に[炎]のように生え出た枝がある切り株

…と読み解ける。更に「葉廣」が付くので「葉が広がった」と修飾されている。[炎]は新芽は嫋やかに曲がって延びる様を描いているのであろう。

「甜白檮」は通説では「甘樫」となっている。後の允恭天皇紀に登場する味白檮之言八十禍津日の「味白檮」と併せてごちゃごちゃになった解釈であろう。「甘」↔「味」に関連するのだそうである。当然「味白檮」の場合は「白檮」=「薄く長く延びた山稜」と訳すことになる。
 
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無口な御子の出雲行幸については正史日本書紀は、ほぼ無視である。登場する文字が奈良大和に視点を置いていては全く理解不能に陥るからである。中でも「檳榔」の文字は決定的である。通説の出雲は檳榔の植生域外である。例え出雲からその域に向かったとしたら帰途の道筋が怪しくなる。だから削除した。

ただそれでは問題が生じることになる。仁徳天皇が浪速の崎から眺めてしまうのである。万事休すで、歌を削除するわけにも行かず放置した。それが本音であろう。そして現在も放置されたまま、得意の不詳で済ませている。丁寧に説明すると言って全くしない、説明責任を問われても語らない、どうやら日本人の本質はこんなところにあったのだと思い知らされる今日此の頃である。
 
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4. 登岐士玖能迦玖能木實

多彩な説話も最後となる。「登岐士玖能迦玖能木實=橘」を古事記の中で検索すると神代から宣化天皇まで10件ヒットする。重要なキーワードであることには違いない。やはり垂仁天皇紀の記述が「橘」について最も詳しく、内容も豊かである。それを紐解いてみよう。

古事記原文[武田祐吉訳]…、

又天皇、以三宅連等之祖・名多遲摩毛理、遣常世國、令求登岐士玖能迦玖能木實。自登下八字以音。故、多遲摩毛理、遂到其國、採其木實、以縵八縵・矛八矛、將來之間、天皇既崩。爾多遲摩毛理、分縵四縵・矛四矛、獻于大后、以縵四縵・矛四矛、獻置天皇之御陵戸而、擎其木實、叫哭以白「常世國之登岐士玖能迦玖能木實、持參上侍。」遂叫哭死也。其登岐士玖能迦玖能木實者、是今橘者也。[また天皇、三宅の連等の祖先のタヂマモリを常世の國に遣して、時じくの香かぐの木の實を求めさせなさいました。依ってタヂマモリが遂にその國に到ってその木を採って、蔓の形になっているもの八本、矛の形になっているもの八本を持って參りましたところ、天皇はすでにお隱れになっておりました。そこでタヂマモリは蔓四本矛四本を分けて皇后樣に獻り、蔓四本矛四本を天皇の御陵のほとりに獻つて、それを捧げて叫び泣いて、「常世の國の時じくの香の木の實を持って參上致しました」と申して、遂に叫び死にました。その時じくの香の木の實というのは、今のタチバナのことです]

解釈の焦点の一つは「登岐士玖能迦玖能木實」である。ネット検索の結果は、ほぼ同様に「時じくの香の木の實」とされている。日本書紀の表記は「非時香菓=橘」であり、この表現に基づいたと思われる。「橘」→「非時」→「不老不死」など一切の記述は存在しない、少なくとも古事記中には…。

古事記原文を忠実に解釈してみよう。「登岐士玖」とは?…「登」=「成熟する」の意味がある。「岐」=「()分かれる」頻度高く用いられる言葉である。「士玖」=「敷く=広がる」とすれば、「登岐士玖」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がる

…と読み解ける。

複数の意味にとれるが、ここでは「迦玖」=「懸く(垂れ下がる)」を採用する。もう既に「橘」そのものの表現であることに気付かされる。「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
成熟すると枝分かれして広がり垂れ下がる木の実

=「橘」そのものである。「士()」→「自()」と置換えることは不可であろう。

古事記以外の日本書紀、万葉集などはこの解釈を避けている。「橘」の匂いのようにプンプン匂う、地形象形ボカシが明確になった、と思われる。では何を暈そうとしたのか? それを紐解くことにしよう。「登岐士玖能迦玖能木實」の別の解釈である。

もう一つの『橘』

「登」=「登る」、「岐」=「分岐」、「士玖」=「敷く(広がる)」、「迦玖」=「廓or閣(囲まれた場所)」、「木實」=「君」とすると、「登岐士玖能迦玖能木實」は…、
 
登って行くと分岐して広がるその先の囲まれた処の君

…と紐解ける。複数(多く)の支流を持つ川の上流にある「宮」に居る「君」(比古、比賣達)のことを表現しているのである。

<常世国:壱岐市勝本町仲触>
「橘」は端的に川の流れを表したものと思われる。山の斜面を流れる川が寄集って一つになる様を「橘」に比喩したものと解釈される。

その地を特定する際に重要な示唆を与えることができる。山の稜線が描く図柄を象形したのではなく、川の流れる谷が描く図柄の象形を示していると読み解ける。

常世國の何処に行ったのであろうか?…常世は既に登場し、現在の壱岐市勝本町の北端にあったところとした。

この地は標高差が少なく深い谷間があるとは言い難いが、台地の北麓は急な斜面を持ち分岐した谷を形成していることが判る。

北側から眺めた俯瞰図では現在も多くの棚田が作られていることが見て取れる。図に示した以外にもっと小ぶりなものもあっただろう。多遲摩毛理はそれを隈なく訪れたのであろう。
 
<俯瞰図>
「縵八縵・矛八矛」葉っぱが有る無し、なんていう苦労は皆無である。


「縵」=「比賣」、「矛」=「比古」とすれば一気にこの説話の意味が伝わってくる。比賣と比古、合せて16人を調達してきた、と多遲摩毛理が述べている。

「天皇既崩」を知り、持ち帰った「木」の半分を后に、残りを亡くなった天皇に擎(ささげ)たのである、人柱として。

だから「(死者の霊に手向ける)立花(タチバナ)」なのだ、と伝えている。

「橘」の字源は「矛のような棘のある木」とある。「木實(キミ)」を言わんがために作り出した「登岐士玖能迦玖能木實」だと紐解ける。加えて「橘」の地形象形の謂れを述べているのである。

古事記は語らないが、后の氷羽州比賣命が関わって、人柱の代わりに埴輪を用いるようになったと伝えられているとのこと。上記の事件が関連するのかどうか定かでないが、「橘」と「人柱」が密接に関係することを示している説話である。

「不老不死」の木を持ち帰ったのに后も亡くなる、だから古事記の記述は矛盾する?…などの論考もネットにある。自ら作り上げた齟齬は矛盾とは言わない。いずれにしても「不老不死」などと関連付けてきた解釈は廃棄すべきものであろう。
 
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複数の意味にとれる内容を伝えんがために多彩な文字の羅列を用いる。その複数の意味を解釈してこそ彼らの実態を伺い知ることができるのである。垂仁天皇紀の求人倍率は極めて高い。しかも優秀な人材を求めて止まない時であった。後代の説話に登場する阿加流比賣に拒否された天の日矛の血を引く多遲摩毛理(出自の場所はこちらを参照。詳細は応神天皇紀)、彼の祖先も常世国を訪れていたのであろうか・・・。
 
<多遲摩毛理:三宅連>
三宅連等之祖」と記載される。天皇の直轄領地のように解釈され、各地にあったと知られる。

多遲摩毛理が祖となった「三宅」は何処を示しているのであろうか?…出自の場所を調べると、その近隣であることが解った。

孝昭天皇紀の天押帶日子命が祖となった大宅臣の「宅」=「宀(山麓)+乇」=「山稜の端が[根]のように延びた様」と紐解いた。
 
三(三つの)|宅(根のように延びたところ)

…と紐解ける。谷が浅くなってはいるが、山稜の端が更に延びて行く様子を表している。「連」(山稜の端が長くのびたところ)、谷間ではなく山稜そのものに坐していたようである。この地形に住まう人々のことを「三宅連」と称したのであろう。

「橘」の地形象形、この「木」は山の斜面に多くの支流があり、それらが寄集って一つの川となる、即ち枝分かれした谷が集まり麓に届く、そんな場所を示していることがわかった。山麓にあり、川の水の豊かなところである。場所がわかる、これが気にくわなかったのであろう、日本書紀などの編集者にとって。

伊邪那岐が禊をした「竺紫日向之橘小門之阿波岐原」を「橘」=登岐士玖能迦玖能木實」で紐解けたように古事記記述の一貫性を信じることができる。今後もそうであることを信じて先に進もう。
 
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5. 陵墓

古事記原文[武田祐吉訳]…此天皇御年、壹佰伍拾參歲。御陵在菅原之御立野中也。又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部。此后者、葬狹木之寺間陵也。[この天皇は御年百五十三歳、御陵は菅原の御立野の中にあります。 またその皇后ヒバス姫の命の時に、石棺作りをお定めになり、また土師部をお定めになりました。この皇后は狹木の寺間の陵にお葬り申しあげました]…と記載されている。
 
菅原之御立野中

「菅原」は後の安康天皇の陵の場所「菅原之伏見岡」で出現する。キーワードの「伏見=伏水」から鍾乳洞が多く集まる現在の福岡県田川郡福智町伊方の東長浦辺りと読み解いた。この近隣と推定し、「御立野中」の意味するところを探してみよう。

「立」は曙立王に使われた意味と同じと考えると[立]の旧字の形を象ったものではなかろうか(図参照)。多く住宅が立ち並ぶ場所であるが、なだらかな丘陵地に[立]の地形が見出せる。その地形の中央部を示していると読み取れる。どうやら…「御立野中」は…、
 
[立]形の野を束ねるところの中程

…と告げているようである。現存する神社等が見当たらず、当該の墓所を一に特定することは難しい。
 
<菅原之御立野中陵・狭木之寺間陵>
狹木之寺間

太后氷羽州比賣命の陵「狹木之寺間」は何処を指し示しているのであろうか?…「寺間」の「寺」は通常のお寺を意味しない。

仏教の隆盛に伴ってこの文字が宛がわれたものと解説されている。
 
(狭い)|(山稜)

…と解釈できるが、狭い山稜が特徴になるなら、垂仁天皇の陵墓の近隣に特徴的な地形が見出だせる。

やはり「寺間」は何を意味しているのであろうか?…「寺」の文字に関連するところでは、伊邪那岐の御祓で誕生した時量師神の「時」を思い出す。
 
時=蛇行する川

…が紐解き結果であった。この「時」→「寺」で簡略表記していると思われる。一気に解決となる。図に示した「狭木」の両側を複数の川が蛇行していることが判る。

流石に鍾乳洞の巣の近隣である。豊かな水に溢れている場所であろう。現在の田川市夏吉にある細く延びた山稜が複数の蛇行する川に囲まれている。真に難解な表記である。場所が特定されることを防ぐためなのかもしれない。

太后の陵墓が記載されるのは限られている。事績は不詳であるが、存在感のある后でだったかも。天皇のお傍近く、というのもお二方の関係を示そうとしているのかもしれない。古事記編者は、伊久米天皇を最高の賢帝として記述している事と併せ、天皇家が隆盛を迎える過程の様相を表しているのであろう。

又其大后比婆須比賣命之時、定石祝作、又定土師部」と記される。何故、后の時に?…唐突に登場する文言に戸惑う解釈・・・それが従来であった。本著は全く自然にこの記述を受け止めることができるであろう。「登岐士玖能迦玖能木實=橘=人柱」の風習を目の当たりにした后が差し止めたのである人柱ではなく埴輪で代用するという埋葬の様式を変えたのである。在所探索に際して、氷羽州比賣命という漢字表記に感謝すると共にご冥福を祈る。

定石祝作」とは上記に登場した「石𥑎之曾宮」に絡めた表現であり、石の玄室及び棺の作製(者)を定めたのであろう。そして、その地の近隣を「土師部」(土師の地)と定めたと読み取れる。「土師」は…、
 
盛り上がった(土)麓で段差ある地が寄せ集められているところ[師]

…と紐解ける。ただこれだけの情報では特定には至らず、日本書紀に登場する土師娑婆連猪手の名前より、現在の門司区松崎町辺りと推定される(上図の黑巢橋近傍)。古事記に「土師」は、ここだけの登場であるが、天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した「天之菩卑能命」の末裔と言われている。出雲に降臨しながら音沙汰なく過ごした命、恙なく過ごされたのであろうか・・・。



垂仁天皇【后・子】                        景行天皇
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