2017年7月12日水曜日

大倭国の天皇:允恭天皇・安康天皇 〔063〕

大倭国の天皇:允恭天皇・安康天皇


大国となった倭は一体何処に行くのであろうか。古事記に「飛鳥」の文字が登場する。あの華やかな、いや、そう教えられてきた時代の開幕である。それにしても前記の「橘」の解釈、一応文字にするので背景をあらためて調べてみたが、そうすればそうするほどに悲しい現実に遭遇する羽目になった。

「當岐麻道」「阿岐豆野」「弊岐」等々の解釈が果たされていなかったことが実感として理解できた。むしろ「登岐士玖能迦玖能木實」よりこれらの言葉の方が短いだけに紐解きの難度レベルが高かった。一文字一文字で伝えようとする安萬侶くんの努力を、都合の良い言葉に置換えてしまって、闇の中に葬り去ってきた過去に愕然である。1,300年は重い。

さて、既に一部は紐解いた説話は別として読み残したところを見てみよう。二つの飛鳥、からである。仁徳天皇の施策、近淡海国(現在の福岡県行橋市・京都郡みやこ町)の治水、難波津の港湾整備に履中、反正両天皇は与えられた地所に居して整備の統括に駆り出された。間違いなくしっかりその任務を果たしたのであろう、近淡海国は見違えるような豊かな国に変貌した。

末っ子の男淺津間若子宿禰命(允恭天皇)になると難波を離れ「遠飛鳥」に坐す。倭国の中心、神武天皇以来、そこが彼らの本願の地であった。どうやらこの天皇の時代が倭国の最も隆盛な時代になったと思われる。邇邇芸命一派の夢、いや、天照大神及び高木神の思惑、が果たせた、という顛末である。

允恭天皇<追記>


意富本杼王之妹・忍坂之大中津比賣命を娶って九王を授かった。その内既に地名関連で紐解いた木梨之輕王、境之黑日子王、八瓜之白日子王の他に「橘大郎女」がいた。前記に従って地形象形として紐解いてみよう。

何の修飾もなく「橘」であるから倭の近隣である。山麓に多くの支流を持つ川があるところを探すと、最有力の候補が見つかる。現在の同県京都郡みやこ町勝山松田の新町・飛松辺りであろう。仲哀峠の東麓を流れる初代川及びその支流が作る「橘」である。川は暫くして長峡川に合流する。


現在までに行ってきた地形象形からの地名の特定が全て正鵠を得ているかは定かではないが、一に定めることが可能な表現と理解された。この「橘」もそれに漏れることなく、見事、と言える象形であった。

大倭国となった一つの証であろうか、允恭天皇は氏姓の見直しを断行する。誤りを訂正する、いや、気にくわない輩を格下げ、粛清する…様々な解釈は出来るだろうが、強権発動が出来たのである。この発動した場所が記載されている。「味白檮之言八十禍津日」の神前である。何処であろうか?

「白檮」は「橿」ではない、と既に記述した。あらためて調べてみてもこの二文字を「粗樫」の別称と記載されているだけで無根拠である。「白檮」=「真新しく白く輝く切り株」である。それが目立つ地を指し示す。木材の伐採が盛んに行われた処、畝火山がある現香春町の「採銅所」近隣である。

「味白檮」とは? 「味」=「口+未(新しい枝が出始めた木の象形)」と分解できる。ここまでくれば伝わってくる「味白檮」=「切り口に新しい枝が生え始めた切り株」である。そんな光景が目に入るところを示してると思われる。現在の味見峠(隧道)へ向かう山麓である。「味見峠」の由来が当地に掲載されているとのことだが、全て棄却である。「味見峠」=「味(白檮)が見える峠」とさせて頂きたい。

逼迫する木材の需要に今か今かと気を揉んで眺めた景色なのであろうか。エネルギー資源を木材に求めた過去においては日常ですら極めて主要な関心事であったろう。エネルギーの課題は現在も不変である。米国の内向きな指向はそれを自己で賄いきれるという思惑が重要な要因であろう。日本のエネルギー政策の無能さ、他の政策もだが、T()社にそれを負わせて・・・おや、資源のブログではなかった・・・。


説話は進んで「軽」様の登場となる。「伊余湯」は既に紐解いた。その後どこかのブログで現在の松山ではなく、その近隣の山に囲まれた場所だと言われていた。地形的にはかなり近づくようだが、やはり「温泉場」。島流しで温泉はなし、である。「伊豫之二名嶋」→「四国」としてしまっては、取り返しがつかないのであろう。

安康天皇


「石上之穴穗宮」に坐したとある。成務天皇が坐したところは「近淡海之志賀高穴穂宮」であった。近淡海、志賀、高穴穂全て意味不明に感じた頃を想い出せてくれた。ほんの数ヶ月前ではあるが、古事記の世界が見え始めた頃であった。

回想は後にして、「石上之穴穂宮」は何処であろうか? 「石上」=「香春岳周辺」、「穴穂」=「鍾乳洞」と結び付ければ、現在の田川市夏吉にある須佐神社辺り(下図+印の左の)と思われる。石灰岩の山がもたらす自然の恵みにどっぷりと浸かった古代であったろう。極めてシンプルな日常、過去には戻れないが忘れてはならない事実である。

説話は真に凄惨な記述に走る。仁徳天皇から允恭天皇までの御子達から、大日下王、黒日子王、白日子王、目弱王、市辺之忍歯王、それに安康天皇までもが敢無く命を落としている。大長谷命が活躍するのであるが、古事記の世界も様変わり、した印象である。大国となった倭は内部崩壊の兆しを示している。

そんな訳で既に紐解いた説話以外には取り上げるアイテムも少なく、市辺之忍歯王の御子、意祁王・袁祁王が針間国に逃亡する記述で終わる。この逃亡劇もかなり初期に解読したのであるが、未だに修正をかけることもなく至っている。良しとすべきであろう・・・。<追記>

暗殺された安康天皇の霊を弔って、御陵の場所を求めてみたい。「菅原之伏見岡」とある。「菅原」なんとも一般的な名称で手掛かりが掴めないが、「伏見」は特徴あり。「伏見」=「伏()(フシミズ)」の転化と言われているが、それをそのまま引用して「菅原之伏見」=「鍾乳洞穴前の菅の原」と解釈できる。


「石上之穴穗宮」近く、現在の田川郡福智町伊方の東長浦辺りの丘(上図左下隅)あろう。複数の池()と川が流れる水の豊かな地である。いずれにしても頂点を迎えつつある国に早崩壊の兆候、古事記は語らないが渡来人を祖に持つ豪族達の動向が見え隠れする。邇邇芸命一派の国はこれらの豪族なくして成立しないものであり、当然起こるべき事柄であったろう。

…と、まぁ、こんな調子で最後まで突っ走ろうかな?・・・。


<追記>

2017.07.13
当初「大長谷命」を「大の長谷の命」として解釈したが再考を要するようなので、一旦取り下げ。

2017.11.30
「古事記新釈」の允恭天皇の項を参照願う。

2017.12.06
古事記は「苅+羽田」ではなく「苅羽+田」という文字区切りをしていると判った。文字解釈の根本からの見直しである。では「苅羽田」とは?…、


苅羽・田=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・田

「羽の形をした地の一部を刈(切)り取った」ところを意味すると紐解ける。現在の犀川大村及び谷口が含まれる丘陵地帯を「羽のような地形」と表現したものと思われる。苅羽田」は羽の端に当たる現在の犀川谷口辺りと推定される。既に比定した場所そのものに大きな狂いはない。

また意祁王・袁祁王の二人が逃亡する際に登場する「苅羽井」は何と紐解けるであろうか?…


苅羽・井=苅(刈取る)|羽(羽の形状)・井(井形の水源)

…「羽の形をした地の端を切り取った四角い池(沼)」と解釈される。現在の犀川谷口大無田の近隣にある池を示していると思われる。





思い起こせば「苅+羽田」=「草を刈取った埴田」では埴田は草を刈取ってあるのは当然で、何とも釈然としない解釈と思われる。古事記はこのような無意味な修飾語を使わない。より明確に場所を示していたと漸くにして気付かされた。