2017年8月21日月曜日

神倭伊波禮毘古命の御子:神八井耳命 〔083〕

神倭伊波禮毘古命の御子:神八井耳命


神倭伊波禮毘古命と伊須氣余理比賣との第二子、神八井耳命の話に移ろう。神沼河耳命に皇位を譲って気儘な自由人、と言う訳ではなく、幾つかの例に違わず大活躍を為さるのである。彼が祖となる記述の引用…

古事記原文…

神八井耳命者、意富臣、小子部連、坂合部連、火君、大分君、阿蘇君、筑紫三家連、雀部臣、雀部造、小長谷造、都祁直、伊余國造、科野國造、道奧石城國造、常道仲國造、長狹國造、伊勢船木直、尾張丹羽臣、嶋田臣等之祖也。

既に紐解いたものを抜き出してみると(現在地名)

・意富臣:出雲国(北九州市大里)
・伊余國造:伊豫国(北九州市若松区)
・科野國造:科野国(北九州市小倉南区葛原)

地名関連ではなく「部」となるものが…

・小子部連:宮中の雑務を務めた品部
・坂合部連:領域を定める職掌の部
・雀部臣・雀部造:「雀=ササ=酒」と解釈して、酒造及びその管理。宮中儀式(宴開催)もあった
 のかも?

残りの祖となったところを紐解いてみよう。

火君・大分君・阿蘇君・筑紫三家連


安萬侶くんの戯れなのか、それとも出雲国の在処をあからさまに書くな、なんてご指示があったのか、今となっては知る由もないが、全て出雲国関連である。「火君」=「肥君」上記の「意富臣」と併せて国譲り後に入り込んだ邇邇芸命一家の派遣幹部である。まだ支配統治には程遠いように思われるが…。

「大分君」大分県の由来?…まさか、でしょうね。「大分」=「大の境」=「出雲国の国境」と読み解すことができる。この国は淡海を除く三方を山で区切られた国境を持つ。豊な平地を持つ国は常に外部からの侵入に備える必要があったようである。後に意富富杼王が赴任する記述がある。

「阿蘇君」はまるであの「阿蘇」を示しているような命名であるが…違うのでしょう。「阿蘇」=「山奥のこれから目覚めるところ」=「阿多」であろう<追記>。「阿多」は「熊曾国」の中の「出雲国」に近いところという表現かと思われる。「阿蘇」とは…ややこしい言い方をしたもんだ。

先ずは「言向和」した出雲に統治の手掛かりをつけ、それを倭国の発展に繋げようとした「神八井耳命」の行動は納得できるものであろう。古事記中における出雲関連の記述の多さに違和感?を覚えるのは島根のような飛び地に何故?…であろう。

だが、本ブログで示した出雲の位置はそんな違和感を払拭する。「大倭豊秋津嶋」を「言向和」するためには、途切れることなく食料、人材(比賣を含め)等の供給源としての出雲は無くてはならない存在であった。戦線南下が進行する時、出雲は後方兵站基地としての役割も果たしたと思われる。


その後の読み解きから以下のように解釈する。詳細はこちらを参照願う。

先ずは「言向和」した出雲に統治の手掛かりをつけ、それを倭国の発展に繋げようとした「神八井耳命」の行動は納得できるものであろう・・・と理解するところであるが、良く見ると出雲の北部と縁である。即ち大国主命が支配した領域と、そして縁は国境を守ると解釈するよりも、むしろその内側を伺う位置を意味していると思われる。

実のところ、出雲はまだまだ手中にしたわけではないことを示している。大年神系列との確執は真に根深いものがあったのであろう。天神達の出雲での躓きは大きな代償を払うことになったのである。と同時に戦略転換の時期でもあった筈であろう。神八井耳命は大物主大神の後裔でもある。彼が出雲に侵出できる領域は大国主命と大物主大神に由来するところに限られたのであろう。


大年神後裔の名前と同じく、安萬侶くんの「ややこしい」表現は真相を難解な文字使いで包み隠すように…が、決して省略することなく…感じられるが、如何であろうか?・・・。長文の出雲関連の記述の真意を少しは読み取れたように感じられる。(2018.03.23)


…全体を通しては古事記の「神武天皇」を参照願う。


「筑紫三家連」この地は出雲国の隣、何度も出現した「伯伎国」である。「筑紫国」の地形を既に記述したが、急勾配の山の斜面と淡海に挟まれた少ない平地のところである。食料の確保が第一の場所であったろう。だが、何と言っても淡海に面した交通の要所である。東西及び南北の十字路として直轄領地「ミヤケ」設置の戦略地点である。

小長谷造・都祁直


倭の中心地に絡むところであろう。「長谷」は雄略天皇紀に紐解いた。現在の福岡県田川郡香春町を流れる金辺川沿いに金辺峠に向かう長い谷である。そうとしたら「小長谷」は何処であろうか?…大きさから言っても呉川が流れ、仲哀峠に向かう長い谷であろう。後に仲哀天皇が「穴門之豊浦宮」に坐するところである。

「都祁」とは?…「祁」の原義は「神が宿るところ」である。「神が宿る都」=「畝火之白檮原宮」神倭伊波礼比古の坐した場所であろう。現地名香春町高野である。勿論この痕跡が残っている筈もない。倭に入った神武天皇一族を見守る役目を果たそうとしたのだが、結局入り込めたのは畝火山の東~東南の地の止まったのであろう。

「長谷」「師木」「春日」に達するには多くの時間がかかった。だが彼らは何代もかけてその核心に近付いて行くのである。どの地から手をつけたのか、それがわかるだけでも極めて興味ある記述と思われる。

道奧石城國造・常道仲國造・長狹國造


これらは全てこの記述以外には古事記に出現しない。そもそもそれで十分な位置付けであったのだろう。「茨木国」また別名として倭建命の歌の中に登場する「邇比婆理=新治」「都久波=筑波」に近接するところと思われる。企救半島南東部の地は全て網羅されたと思われる。

個々に特定した場所を示すと「道奧石城國」は現在の北九州市門司区畑、戸ノ上山東麓を流れる「谷川」「井手谷川」の南側に位置する。当時はこれらの川によって東方に向かう陸路は行止まり「道奥」という表現が使われたのであろう。その先は「高志国」となる。

「常道仲國造」は現在の同区恒見であろう。詳細には鳶ヶ巣山の北及び東麓に限られた場所と思われる。現在の茨城県にある「いわき市」「ひたちなか市」「つくば市」「かすみがうら市(旧新治郡)」など、ほぼ全ての主要な地名は古事記に出現していたことになる。

極めて几帳面な「国譲り」が行われた様子、ある意味見事である。それにしても全てひらがな表示…カタカナ表示も含めて流行?…古事記は遠くなりにけり…漢字の持つ意味、その象形が表す画像情報、記号文化とは異なる世界観を失くすことに忸怩たる思いである。

と同時に古事記をAIで紐解かせてみたい・・・。

「長狹國」>その表現通り、長い峡谷の国であろう。現在の県道71号線、井手谷川沿いの場所ではなかろうか。現地名は「道奧石城國」と同じく同市門司区畑であるが、東方にある同区今津までを含めた範囲であったと思われる。

天照大神と須佐之男命の誓約によって誕生した「天津日子根命」が「茨木国造」の祖であり、この近隣の地はかなり初期の段階で「言向和」されていたことが伺える。「出雲国」からその東側にある国々へ着実に彼らは進出していったと古事記が伝えている。その仕上げが「倭建命」なのである。

伊勢船木直・尾張丹羽臣・嶋田臣


「伊勢国」は現在の紫川の中流~下流の地域である。また「伊勢神宮」はその内宮として現在の蒲生八幡宮辺り(同市小倉南区蒲生)と紐解いた。外宮は対岸の同区守恒辺りにあったと思われた。上記の「天津日子根命」が「蒲生稻寸」の祖となる記述もあり、この地も早くから開けた場所であったと思われる。

「船木直」は文字通り、造船に係ることを示すものと思われる。その場所の立地の要件は、背後に豊かな森林地帯を持ち、山奥深くから河口近くにまで伐採した木材を運ぶことができる大河が流れていることであろうと思われる。

紫川の上流は現在の福智山山塊にあり、「頂吉」に流れる支流を集めて紫川となり「淡海」に注ぐ。縄文海進及び沖積度から現在の同区北方辺りが河口であったと推測された。合馬川、東谷川との合流地点、現在の同区長尾、東・西長行辺りが「伊勢船木」と言われた場所ではなかろうか。

紫川の上流に「船木橋という名称の」橋が架かっている。鱒渕貯水池の少し北方に当たる場所である。伐採された木材が集められ下流に運ばれて行ったのではなかろうか。「船木直」はこの地域までの統轄管理を行っていたのであろう。古代には必要不可欠の船、その建造の場所を示してくれた初めての記述である。

「尾張国」は貫山北方の尾根の稜線が広がる地域と紐解いた。現在の同区貫、長野、横代に跨る地域である。その中の「丹羽」は何処であろうか?…「丹(赤い)・羽(羽毛=稲のヒゲ)」と読み解いてみる。古代の「赤米」と言われるものを示しているようである。

「尾張国」の穀倉地帯は横代を流れる「稗田川」流域であったと推測される。尾張も現在の平地の大部分は海面下にあり、耕地を確保するには限られたところしかなかったと思われる。その数少ない場所であり、「赤米」に加えて「稗」の栽培も盛んに行われたのであろう。<追記>



最後の「嶋田」は尾張国にあったと思われる。現在の同区津田辺りと思われる。標高からみて三つの島が並んだ地形を示している。

現在の北九州市小倉南区及び小倉北区は当時の地形とは想像以上に異なったものであったと判断される。

それに基づいた考察をすれば古事記の伝えるところが見えてくるようである。

「神八井耳命」が祖となった地名を纏めて図示すると…

末子相続を続けた古代、皇位を譲った兄達の働きが国を大きくした。

彼らが各地に入り込み、その地の豪族となったと伝える古事記である。

勿論彼自身と言うより後裔達の活躍がそうしたのであろうが、詳細は語らない。

各地に伝わる伝承などと併せて読み解くことができれば更なる理解が得られるのかもしれない。

…と、まぁ、少々長引いたが初代天皇が築いた礎、だが二代目は葛城に飛ぶ・・・。



<追記>

2017.08.22
「阿蘇」の「蘇」=「紫蘇」=「紫色の花を多数つける」びっしりと葉を茂らせることから「蘇」=「多」と置換えたと紐解ける。未だ確証はないが「多賀神社」=「蘇賀神社」の置換えと思われる事例も出現する。

2017.08.30
服部英雄著、『地名の歴史学』角川叢書、2000年
その引用文献に、嵐嘉一著『日本赤米考』が挙げられ、概略が記載されている。「とおぼし(唐法師)田」「大唐田」などが赤米栽培地を示し、日本各地の赤米栽培の痕跡を求めて論及されいるとのこと。

豊前は「とおぼし田」地名が残っていないが、確実に栽培されてきた証拠があり、どうやら補足、補充的なものであった、と推測されている。また、この地方は急な「谷水田」「強湿田」であって、湿地などの悪条件で強い野生種の赤米には適さなかったとも考察されいる。

「谷水田」⇒「茨田」と表現してないが…出来るわけないか…今までに記述してきたことを裏付ける言及と思われる。「稗田川」の名称が残り、「赤」に関連する言葉は残っていない。古事記だから記述し得たことであろう。

更に古事記記載される「丹羽」一族が繁栄するようであるが、「赤米」と関連付けて読み解けていないこと、上記の「茨田=松田」も含めて再考の余地が多々ある。