2018年3月6日火曜日

速須佐之男命の後裔:その伍 〔180〕

速須佐之男命の後裔:その伍


速須佐之男命の御子は出雲の北部を治めた八嶋士奴美神と南部を治めた大年神の二つの系譜があったことを伝えている。前者は北部に居た櫛名田比賣が生んだ神であり、肥河に沿った地にその子孫を繋げた。後者は出雲のほぼ中央部に居た神大市比賣が生んだ御子であり、宇都志国に近接する地でその子孫を繋げたのである。下図に登場する全ての神の居場所を求めた結果に基づいて考察してみよう。

八俣遠呂智と比喩された肥河の氾濫は生易しいものではなかったろう。氾濫によって肥沃化するにはあまりにその谷の出口は狭く、広がりをもたらさなかったと推測される。八嶋士奴美神の子孫は早期に「天」に系譜を渡すことになったと伝えている。近隣の高志国の急斜面の地形は開発を遅らせていたであろうし、また後に阿多と呼ばれる地、おそらく熊曾国などは全くの未開であったろう。

「天」に向かう事自体は、生き延びることからすれば決して間違った選択ではなかったろう。がしかし、天神達にとっては全くの不甲斐ない結果であった。彼らは櫛名田比賣を後の大后と見做し八嶋士奴美神の系列を本流とした。出雲に再進出した大国主命の系列も同じ轍を踏む。勿論既に天神が派遣した建御雷之男神に「言向和」された後のことであり「天」に向かう理由に事欠かなかったであろう。





だが、「天」での扱いは同じではなかったと思われる。一層冷ややかに見られたであろう。そしてあろうことか新羅に向かい、結局は「天」に出戻るという流離いの系譜を示すのである。




一方の大年神の系列はどうであろうか。彼は間違いなく「宇都志国」の谷の下流域を開発したのある。誕生した御子を引き取り、更に「秋津」の比賣を娶り「竈」をもたらし、立ち昇る煙を現実のものとした。そして肥河流域を除く出雲の地にその子孫を配置したのである。

出雲の主要な地点に配置された御子達の活躍が浮かんで来る。決して豊かな地ではない。大年神の財力を背景にした展開であったと推測される。

八嶋士奴美神・大国主命(オレンジ色)及び大年神・羽山戸神(ブルー色)関連で記述された人名(地名)を下図に示した。

上記したように、大きく別けると大国主命は出雲の北部に限られ、一方の大年神はほぼ全面的に分布していることが判るが、二系列の軌跡が重なっているのは中央部、戸ノ上山の西麓と南部の「宇迦」(桃山の西麓)である。

天神達から出雲に送り込まれた大国主命は黄泉国で須佐之男命から大国の主と認知され、桃山の麓の宮作りからスタートしたと記述される。確かに大国主命は正統の出雲国主だったのである。

大年神は南部の肥沃な「州」に居たと推定した。八嶋士奴美神の御子「布波能母遲久奴須奴神」は大年神の近隣に居たと推定した。だが彼はその地を広げることはなく肥河の流域に戻るのである。大年神の伊怒比賣の子供が取り巻くように出雲の南部を抑えたのである。古事記が述べるところからのみでは推測の域を出ないが、壮絶な闘いがあったと見ることもできるであろう。いずれにしても八嶋士奴美神の系列は駆逐されたと伝えている。

そこに天神の支持を受けた大国主命が送り込まれ、更にそこに宮を建てようとした。勿論これも壮絶な闘いを想定することができるかもしれない。下図で色が重なるところである。だが、事は成就しなかった。八上比賣の御子、木俣神の説話がそれを示している。これを伝えるために挿入された説話と解釈される。

北部に追いやられた大国主命、大年神と同様に秋津の比賣を求めても事態を好転するには至らず、同じく神の下の比賣を娶ってもその御子は神の下に佇む御子であった。事代主命には「八重」が付く。「谷が重なる」ところに居たのである。

国作りに悩む大国主命への少名毘古那神、大物主大神の支援も効果なく、建御雷之男神による「言向和」で終焉を迎える。少名毘古那神は神御産巣神の子、即ち稲作の指導であり、建御雷之男神は水の神、肥河の治水の状態を査察したと解釈される。彼らを持ってしても肥河流域の拡張は叶わなかったと伝えているのである。



後に邇邇芸命を送り込むに際して天神達は天之菩比神などを送り込んだと述べ、ことごとく失敗した経緯が明かされる。天之菩比神の子、建比良鳥命が出雲国造の祖となったと伝えるが、出雲を支配・統治するには至らなかったと思われる。

古事記が編纂された時の性格から何が正統かは明らかである。記述された時の系統が正統なのである。だが、その正統は正統となるまでに幾多の紆余曲折を経てきていることを晒しているのである。それがあまりにも大きな曲折であるが故に古事記らしい表現となっているのであろう。

大年神の御子達の捻れた命名など、そのような表現が許されるからなし得たと思われる。古事記の中ではこれらの系統がその後如何になったかは語られない。皇統に関わることは不詳である。出自不明の大物主大神として表現しているのであろう。

ある意味上手い方法である。現在では不可能な記述である。如何なる理由があるにせよ、1,300年間読み解けていなかったことが奇跡である。編者達にとっても想定外のことであろう。日本書紀編者達の撹乱が極めて有効だったと思うべきか・・・。

棘国で生まれた刺客を送り込んだという駄洒落な物語にして天神達の思惑の達成に多くの困難が降り掛かって来たことを告げた。やはり生きることの厳しさ、生きることができる環境の少なさ、そんな世界を思い浮かばせる記述と思われる。

①「八俣遠呂智」は退治できなかった。
 幾らかはその勢いを抑えることはできたが、手懐けるまでには至らなかった。

②「大国主命」は大国の主にはなれなかった。
 彼はあくまで刺客であり、その使命を遂行することは叶わなかった。

③「大國主神之兄弟、八十神」は大年神の後裔達である。

速須佐之男命の後裔の物語は天神達が東に向かう悪戦苦闘の顛末を晒した記述であった。記述されていないことが更に多くあると思われる。「邇藝速日命」は邇邇芸命の兄「天火明命」と言われるが、古事記には名前が登場するだけで関連する記述はない。「天津瑞」を所持していたことを思えば、その可能性は十分であろう。また「日下」「春日」として消去することなく登場する名前があることも支持するところである。

何れにせよ邇邇芸命が降臨する前の記述には多くの簡略化が行われいたと推測される。当然のようでもあり、もう少し書き加えよ、と思いたくなるところでもある。長かった速須佐之男命の後裔物語はこれにて落着である。