2017年5月6日土曜日

雄略天皇:『長谷』と『日下』〔032〕

雄略天皇:『長谷』と『日下』

暇が取り柄の老いぼれの古事記の旅、第一次遠征が終了。第二次の時間と体力が心配、なんて思いながら少し足下、いや足元を眺めてていると…「飛鳥」のような難読文字に・・・。「長谷」と「日下」、こんなところに安萬侶くんが埋め込んでいた。時代をグッと戻して第二十一代雄略天皇紀に移る。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様

大長谷若建命、坐長谷朝倉宮、治天下也。天皇、娶大日下王之妹・若日下部王。无子。)[オホハツセノワカタケの命(雄略天皇)、大和の長谷はつせの朝倉の宮においでになって天下をお治めなさいました。天皇はオホクサカの王の妹のワカクサカベの王と結婚しました。御子はございません]

「長谷」と「日下」一気に登場する。通説を紹介するが、読みの謂れには諸説あり、一例である。「長谷」はそのまま読めば「ナガタニ」である。そう読む地名も多々あるが、何故か「ハセ」、武田氏の読みは「ハツセ」であり、これが「ハセ」になった、ということらしい。

「長谷朝倉宮」現在の奈良県桜井市初瀬、長谷寺のある近傍とのこと。紫陽花の見事な、それ以上に素晴らしい景観の寺であり、山合の長い谷、清流初瀬川が流れるところである。あまりにも素晴らしい自然に囲まれ過ぎて、天皇の御所?別宅?なんて思うところでもある。「朝倉宮」そのものの比定は難しいようである。

地形象形的にはそんなところであろうが、本ブログはこの地に求めず、「長谷(ナガタニ)朝倉(アサクラ)宮」と読む。香春岳東麓、金辺峠辺りから金辺(清瀬)川が流れる地、「長谷」の地形である。「朝倉(アサクラ)」の意味は?場所は?…「長谷」についてはこちらも参照願う。

「朝倉」=「朝暗(い)」あろう。御神楽の儀式の終わり、夜が明けるころに歌われるのが「朝倉」とのことである。ならば、この「長谷」は南北に配置されてなければならない。では、北から南に流れる清瀬川のどの場所にあったのか? それは「日下」が教えてくれる筈である。

初大后坐日下之時、自日下之直越道、幸行河內。爾登山上望國內者、有上堅魚作舍屋之家。天皇令問其家云「其上堅魚作舍者誰家。」答白「志幾之大縣主家。」爾天皇詔者「奴乎、己家似天皇之御舍而造。」卽遣人令燒其家之時、其大縣主懼畏、稽首白「奴有者、隨奴不覺而過作甚畏。故、獻能美之御幣物。能美二字以音。」布縶白犬、著鈴而、己族名謂腰佩人、令取犬繩以獻上[初め皇后樣が河内の日下くさかにおいでになった時に、天皇が日下の直越ただごえの道を通って河内においでになりました。依って山の上にお登りになって國内を御覽になりますと、屋根の上に高く飾り木をあげて作った家があります。天皇が、お尋ねになりますには「あの高く木をあげて作った家は誰の家か」と仰せられましたから、お伴の人が「シキの村長の家でございます」と申しました。そこで天皇が仰せになるには、「あの奴は自分の家を天皇の宮殿に似せて造っている」と仰せられて、人を遣わしてその家をお燒かせになります時に、村長が畏れ入って拜禮して申しますには、「奴のことでありますので、分を知らずに過って作りました。畏れ入りました」と申しました。そこで獻上物を致しました。白い犬に布を縶かけて鈴をつけて、一族のコシハキという人に犬の繩を取らせて獻上しました]

「河内」の「日下」と「長谷朝倉宮」行き来する説話である。「日下」=「クサカ」の読みの通説は、神武天皇が瀬戸内海から難波に流れ着いた際に東方の生駒山麓の「草香」地方から太陽が昇ったので「日下の草香(ひのもとのくさか)」、ということらしい。かなり“しんどい”由来である。

通説に頼らず「日下之直越道」を解釈する。どうやらこの言葉に全ての「謎」が秘められているようである。「日下之直越道」=「日下(ヒノモト)之直越(ジカゴエ)道」と読む。「日下之」とは「太陽の下の」であろうか? 日中なら全てものが太陽の下にあるのに敢えて「日下之」と表現するであろうか?

「日下」=「草香」などと置換えるから古事記が伝えんとすることから無縁の場所になってしまった。いや、そうする意図があった。それをそのままに解釈してきてしまったのである。悔やまれる解釈である

「日」は一体何を言わんとするのであろう。彼らの「日」は「邇藝速日命」である。太陽ではない。「日下」は「邇藝速日命」が天下った場所の「下」を意味する。古事記は語らないがその場所は「哮(コウ)ヶ峯」と知られる。「哮(コウ)ヶ峯」=「香具(カグ)山」と比定できる。現在の香春三ノ岳となる。

「香具山」の麓、それが「日下」であると解釈される。それにある「直越(ジカゴエ)道」=「間に挟まれるものなく通じる道」を行くと「河内日下」、后が坐しているところである。通説は「邇藝速日命」降臨地を大阪府交野市(磐船神社)、「河内の日下」は東大阪市日下とする。過ぎ去った過去は取り戻せないが、歴史は未来に取り戻せる、と信じる。

少し外れるが、「邇藝速日命」が降臨して発した言葉「虚空見日本国」(日本書紀)、「日本」の語源とも。「虚空見」古事記では「蘇良美都(ソラミツ)」である。枕詞となるが、諸説がある。「虚空」=「何も妨げるものがなく、全てのものの存在する場所としての空間」という解釈を頂戴する。

「空即是色」である。今は何もないが、これから多くのものが存在することができるところ、それが日本、と仰っているのである。朝鮮半島から降って来た者にとって、なんと素晴らしいところかと、叫んでしまったのである。古朝鮮語による解釈「新羅と百済の日本」繋がらないわけではない。この時代に民()の移動をこれほどまでにあからさまに記した資料、世界遺産である。大切に紐解くことであろう。

さて、天皇は山に登り、行きがてら例によって「望国」する。見るところは「志幾」=「磯城」=「師木」である。既に比定した現在の福岡県田川郡香春町「中津原」と「今任原」の境辺り、である。そこに鰹木を飾った立派な家を見つけたという。

通説が破綻する箇所である。初瀬から日下へ、その間に磯城がある…武田氏は困り果てて「シキ」とした。位置関係が矛盾するのである。本ブログで示したように位置関係の齟齬、それを無視して解釈してきた。地名さえ合えば良し、むしろ逆である。位置関係の齟齬は致命的なのである。あらためて各場所の比定を見直されることをお勧めする

「長谷朝倉宮」=「田川郡香春町の宮原」、「河内日下」=「京都郡みやこ町勝山宮原」、「日下之直越道」=「障子ヶ岳北方の味見峠越えの道」とする。地図を参照願う…

天皇の館を真似るとは、なんと不届きな…民が豊かになってきたことを示すのであろう。「己族」=「一族」とは面白い表現。身内なんですかね? 更に続いて…

故、令止其著火。卽幸行其若日下部王之許、賜入其犬、令詔「是物者、今日得道之奇物。故、都摩杼比此四字以音之物。」云而賜入也。於是、若日下部王、令奏天皇「背日幸行之事、甚恐。故、己直參上而仕奉。」[依ってその火をつけることをおやめなさいました。そこでそのワカクサカベの王の御許においでになって、その犬をお贈りになって仰せられますには、「この物は今日道で得ためずらしい物だ。贈物としてあげましよう」と言って、くださいました。この時にワカクサカベの王が申し上げますには、「日を背中にしておいでになることは畏れ多いことでございます。依ってわたくしが參上してお仕え申しましよう」と申しました]

「背日幸行之事、甚恐」香具山を背にして向かったとのことである。安萬侶くんの優しさを受け止めよう。「日」が解ければ、納得の中締めとなる。

この説話で「日下」「背日」と「邇藝速日命」を語った。古事記の編集方針は天照大神―邇邇芸命―神武天皇一派を主軸とする。「邇藝速日命」の存在は脇役にするには大き過ぎたのかもしれない。少し今日は語ったが、またいつの日か神社で最も多く祀られる神について述べてみるかも、である。

どうやら「長谷(ハセ)」「日下(クサカ)」共に「国譲り」に際しての苦肉の臭いがする。時代を越えて定着したこと、それはそれとして、未来の歴史に止揚するべきかと思われる。一見何気ない記述の中に歴史の襞が潜んでいた。

雄略紀の冒頭の一部に「此時吳人參渡來、其吳人安置於吳原、故號其地謂吳原也」という記述がある。香春町の東部、仲哀天皇の「穴門豊浦宮」があった場所、呉川が流れ上流には呉ダムがある。大挙して渡来して来たのであろう。歴年の地層もさることながら人層でもあれば…大陸との関係も、また調べてみよう…。

…と、まぁ、今日のところは辺りで・・・


<追記>

2017.07.14
「日下」=「クサカ」について考察、詳細はこちらで…。