日下=ク・サ・カ
雄略天皇紀に入るや、解き解し残したことが気になってきた。「日下」である。既に「日=(邇藝速日命」として解釈し、「日下」「春日」「日子国」などを紐解いた。通説が意味不明とするところが極めて合理的な記述として浮かび上がり、その地名が示すところも矛盾なく特定できることがわかった。
雄略天皇が坐するところ「長谷」と「日下」は重なることが必須である。「長谷」の中に「日下」があると解釈された。「長谷(ナガタニ)」も「ハセ」と呼び慣らされている。関連するところの多くの由来が怪しいのである。勿論古事記は語らない。
その中でも「日下」=「クサカ」の読みについては定かでなく、通説の「草香」の枕詞を置換えられるだけの解釈は未達であった。そんな訳で再考してみようかと思う。
「飛鳥」のように古事記の中に由来の記述があれば、通説の根拠のない枕詞に落とし込む必要はなくなるが、「日下」の由来は皆目である。あらためて検索すると序にも記載がある。姓として「日下=玖沙訶(クサカ)」と読む、とある。
本文中では神倭伊波禮毘古命の東行(通説神武天皇の東征)の白肩津における登美能那賀須泥毘古との初戦敗退の記述が最初である。雄略紀の歌の中に「日下部」=「久佐加辨」と表記される。古事記の中で「日下」=「クサカ」と読まれていたとわかる。地名草香の枕詞などではなく「クサカ」はそれ自身が意味を持つ言葉であると思われる。
由緒ある姓名として、また古事記説話の記述からも「日下=クサカ」の意味は紐解くべき課題であろう。その後に紐解き信憑性が高いと思われる言葉の中から連想されるのは「八坂=ヤサカ」である。これも併せて見直してみよう。
「祇園の八坂」という、現在にまで繋がる八百万の神々が集まる場所から「ヤ(多くの)・サ(佐る)・カ(神)」とした。「カ」はどこかで見た解釈に引き摺られたようで(古田武彦氏?)、それを廃棄して「カ=処」とする。「飛鳥(アスカ)」の「カ(処)」である。
八百万の神が加護する場所となる。
八坂*=ヤ(八百万の神)・サ(佐る)・カ(処)
八百万の神が加護する場所となる。
祇園の意味に対して前記した解釈でも通じるところではあるが、修正した内容はより明解だと思われる。同様に
日下=ク・サ・カ=ク・サ(佐る)・カ(処)
となる。では、「ク」とは?
邇藝速日命の別称が「櫛玉命(クシタマノミコト)」とある。古事記は邇藝速日命のことを語らない。神宝の譲渡など必要最低限である。その背景からしても「日」=「ク」は表に現れないものだった。「ク」=「櫛玉命」と置換えられることがわかった。
日下=ク(櫛玉命)・サ(佐る)・カ(処)
櫛玉命が加護するところと紐解ける。
古事記原文…
故、從其國上行之時、經浪速之渡而、泊青雲之白肩津。此時、登美能那賀須泥毘古興軍待向以戰、爾取所入御船之楯而下立、故號其地謂楯津、於今者云日下之蓼津也。
後に敗退したことを知る後世の者達が「日下之蓼津」と言った。初戦勝利は邇藝速日命のお陰であると。兄の五瀬命は己が命と引き換えに、背後に邇藝速日命がいることを察知して、
「日」には「日」の作戦
を述べた。後者の「日=太陽」である。
結果的には登美能那賀須泥毘古軍の手薄なところ、熊野村、から上陸、黒い烏のような八田山の道案内人の助けを借りて、吉野河之河尻に至り、侵攻作戦を開始した、という筋書きである。このルートは大倭豊秋津嶋の東部、現在の福岡県京都郡苅田町・みやこ町・同県行橋市などの地に見事に当て嵌まることを示すことができた。
後代の歌詠み達が多用した枕詞、それに解を求めた言葉の解釈、恣意的なものも含めて混乱を生じてきたのが現状である。多くの地名ピースを求めてきたが、一つ一つそれを行うことが重要と思う。歪切った日本の古代の歴史を未来に取り戻すために・・・。
「橘」の意味のところで、やや言葉を荒げて日本の国文学…などと記述したが、今はネットで博士論文及びその査読結果を知ることができる。勿論一部であろうが、論文の内容とそれを査読した「XXX大学XXX教授」の肩書をもつ輩の文面を見て、感じたことから発っしたものである。
垂仁天皇紀は国の拡がり、説話の多彩さ等々極めて豊かな内容を古事記は記述する。それだけに「謎」も多く、研究対象となるのであろうが、ならばその根底から考え方を見直すべきであろう。「橘」一つ紐解けていなかった現実にタメ息が出る有様である。 抑え切れないものがある、ご容赦を・・・。
それにしても邇藝速日命の古代における様々な影響は大なるものがあるとわかる。古事記も所詮勝者の記録であろう。彼が残した影を随所に感じる。古代の解明にも「クサカ」を期待したいのだが…。
それにしても邇藝速日命の古代における様々な影響は大なるものがあるとわかる。古事記も所詮勝者の記録であろう。彼が残した影を随所に感じる。古代の解明にも「クサカ」を期待したいのだが…。
…と、まぁ、今日はこれくらいにして、残りの地名ピース、頑張ろう・・・。
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八坂*
…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。
確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。
急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。
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八坂*
上記の解釈で場所の特定ができるようあるが、現存地名から求めただけでは何とも心もとなく思われる。
八(谷)|坂
…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。
確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。
急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。
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