2017年8月9日水曜日

天孫降臨のプロローグ 〔078〕

天孫降臨のプロローグ

<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
邇邇芸命が降臨したところ、「竺紫日向之高千穗之久士布流多氣」については日向国の比定と併せて紐解いた。日向国は筑紫嶋を羅針盤とした方位の「白日別」に当たるところ、現在の福岡県遠賀郡岡垣町辺りであることがわかった。「久士布流多氣=串触岳」は孔大寺山塊(宗像四塚連峰と呼ばれる)の象形と解釈した。

ネットで検索する限りにおいてこの地に着目した例は見当たらないが、真に特異な地形を幾度となく古事記が異なる表現で指し示しているように思われる。「笠沙之御前」「氣多之前」「韓國眞來通」も「串触岳」の表記に密接に関連した地形象形の表現である。

通説となっている宮崎の高千穂、また博多湾岸の高祖山塊などに引き摺られた結果であろうが、何を隠そう、暇が取り柄の老いぼれも、宮崎はともかく、博多湾岸説には随分と引き摺られた。微かな記憶に、「筑紫」は現在の福岡市近辺ではなく北九州市近辺を指す、との記述がある。その根拠は記憶の外だが、結果として合致することになった。

今回はその天孫降臨の前の説話について詳細に紐解いてみよう。また、何か見落としていたことが見つかるであろう…見つからないで欲しい気もあるが・・・。

古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)

爾天照大御神・高木神之命以、詔太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命「今平訖葦原中國之白。故、隨言依賜降坐而知者。」爾其太子正勝吾勝勝速日天忍穗耳命答白「僕者將降裝束之間、子生出、名天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命。此子應降也。」此御子者、御合高木神之女・萬幡豐秋津師比賣命、生子、天火明命、次日子番能邇邇藝命二柱也。是以隨白之、科詔日子番能邇邇藝命「此豐葦原水穗國者、汝將知國、言依賜。故、隨命以可天降。」[そこで天照大神、高木の神のお言葉で、太子オシホミミの命に仰せになるには、「今葦原の中心の國は平定し終ったと申すことである。それ故、申しつけた通りに降って行ってお治めなされるがよい」と仰せになりました。そこで太子オシホミミの命が仰せになるには、「わたくしは降ようとして支度をしております間に子が生まれました。名はアメニギシクニニギシアマツヒコヒコホノニニギの命と申します。この子を降したいと思います」と申しました。この御子はオシホミミの命が高木の神の女ヨロヅハタトヨアキツシ姫の命と結婚されてお生になった子がアメノホアカリの命・ヒコホノニニギの命のお二方なのでした。かようなわけで申されたままにヒコホノニニギの命に仰せ言があって、「この葦原の水穗の國はあなたの治むべき國であると命令するのである。依って命令の通りにお降りなさい」と仰せられました]

葦原中国と豊葦原水穂国


出雲国の大国主神は贅沢な宮を造って貰って隠居した。それを「今平訖葦原中國之白」と表現する。ならば「葦原中國」=「出雲国」となる。それとも事代主神の言うことなら他の神が従うのだから「出雲国」に限らず全て、即ち「日本」と考える。武田氏訳は「中心の国」となっている。

通説の怪しげな解釈のところは本当の姿が隠れているところである。他にも高天原=上、黄泉国=下でその中間にある地上の世界が「葦原中国」もちろん日本を指す、というのもある。本ブログをお読み頂いた方はすぐに気付かれるように、高天原も黄泉国も地上に存在すると主張しているのが古事記である。

「葦原中國」=「出雲国」とするには問題がある、日本が出雲で代表されては困る?から上記のような諸説が氾濫する。「葦原中国」をあらためて考えてみよう。この説話にもう一つ「豐葦原水穗國」という表記が登場する。通説は「葦原中國」=「豐葦原水穗國」=「日本:後の大和」である。

結論から述べてみよう。「葦原中国」=「筑紫嶋の中にある出雲国」、「豐葦原水穗國」=「大倭豊秋津嶋」である。伊邪那岐・伊邪那美が国生みした島の中で最大かつ最終のターゲットが「豐葦原水穗國」であり、その最終作戦が邇邇芸命の降臨と述べられている。

「筑紫嶋」は伊邪那岐・伊邪那美が生んだ島ではあるが、その北半分は現在の関門海峡、周防灘に取り囲まれ、加えて地形は「比比羅木」の地であって「水穂」とは無縁である。その中の奥まったところにある「斗」の地形を持つ出雲国を「葦原中国」と称したのである。

「筑紫」という重要な名称を持つのだが「天」が付かない。高天原の神達が支配し、統御するところではなかった。むしろこの筑紫嶋を橋頭保として、更にまた羅針盤として彼らの世界を描く手段としたのである。須佐之男命は「出雲国之須賀宮」からスタートし、神倭伊波礼比古は「筑紫之岡田宮」から畝火山の麓に辿り着いた。

「葦原中国」を日本の中心、果ては日本そのものとして扱うならば、「今平訖葦原中國之白」と言う時点で物語はエピローグに入らねばならない筈である。真逆の様相で、これから物語は始まり「豐葦原水穗國」=「大倭豊秋津嶋」の「言向和平」に向かって神様自らシャシャリ出る場面も用意されるのである。

全ての事は伊邪那岐・伊邪那美が産んだ島の比定に関わる。国生みが比喩であることを素っ飛ばし、縄文海進による海面の状況など考慮することなく、都合の良い「吉備兒嶋」のみにそれを適用するという姑息さの中で議論が繰り返される。常世に古事記の伝えるものを把握できないであろう。

天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命


いつの間にやら太子となった正勝吾勝勝速日天忍穗耳命が息子の天邇岐志國邇岐志天津日高日子番能邇邇藝命にお役譲りすることになった。それにしても何とも長い名前、親子揃ってだから尚更凄い。邇邇芸命に「邇岐志」が二度も登場する。で、何処か考えてみたのだが・・・。

「邇岐志」=「邇(近い)・岐(二つに分かれる)・志(之:川の蛇行象形)*」としてみると、何となく適当な場所がありそう。また、「津」も含んでいるので、川が頻繁に合流して一本の川になる場所である。現在の壱岐市勝本町片山触、多くの池があるところの下流域に当たる。壱岐全島を見渡しても分岐の多さと蛇行の様子はこの場所が随一のように見受けられる。


「天」の地の詳細もそれなりに紐解くと、例によって名前に刷り込んでいることがわかる。神代紀以外に登場することはないであろうから貴重な記述と受止めよう。と言ってる間に降臨命令が下るのである。その準備の段階で更に一つのエピソードが加わる。

爾日子番能邇邇藝命、將天降之時、居天之八衢而、上光高天原、下光葦原中國之神、於是有。故爾天照大御神・高木神之命以、詔天宇受賣神「汝者、雖有手弱女人、與伊牟迦布神面勝神、故專汝往將問者『吾御子爲天降之道、誰如此而居。』」故問賜之時、答白「僕者國神、名猨田毘古神也。所以出居者、聞天神御子天降坐故、仕奉御前而、參向之侍。」[ここにヒコホノニニギの命が天からお降くだりになろうとする時に、道の眞中まんなかにいて上は天を照らし、下は葦原の中心の國を照らす神がおります。そこで天照らす大神・高木の神の御命令で、アメノウズメの神に仰せられるには、「あなたは女ではあるが出會った神に向き合って勝つ神である。だからあなたが往って尋ねることは、我が御子のお降りなろうとする道をかようにしているのは誰であるかと問え」と仰せになりました。そこで問われる時に答え申されるには、「わたくしは國の神でサルタ彦の神という者です。天の神の御子がお降りになると聞きましたので、御前にお仕え申そうとして出迎えております」と申しました]

「天宇受賣神」なかなかの出来の良い女性のようで出演場面がそこそこにある。いやぁ~是非一度お会いしたかった人物の一人である。出会ったら負けそうですが・・・。天照大神の気遣いに、突然ですが、と「猨田毘古神」が登場。「国神」、「天神」に対して用いられる神。

各個別の国を差配する者と理解すると、この「猨田毘古神」が何処の国か、知りたいところであるが、記述は簡略。これ以上のことは後程にわかると言っているようである。現在この神を祀る神社の多さを考えると各個別の国というより全国区の神のようでもある。いや、古事記の記述が、というより通説の解釈が、全国区にしてしまったのであろう。

天之八衢


「天之八衢」という地名らしき言葉がある。八方に通じる場所であろう。「邇岐志」の近傍で探すと同じく勝本町片山触に東西及び南北方向の道路が交差するところがある(上図中と北方のとの間にある十字路辺り)。おそらくここに邇邇芸命が居たのであろう。武田氏はこの地名スルーである。大和以外は素っ気ない…とりわけ「天」が付くと、当たり前か?…。


大勢の御伴と共に勾玉、鏡、草薙の剣を添えて出立である。八岐大蛇から奪った剣、名前と剣は倒した相手から奪うもの、なのであろうか?…やはり現代の感覚では理解は困難かも…。随行者の一人に「常世思金神」の名前が出てくる。彼は「常世国」の住人だった。既にこの国は壱岐にあるとしたが、間違いないと思われる。

常世国


では、「常世国」<追記>は何処であろうか?…壱岐の中で「常世」と思しき場所…彼らが「比比羅木」の国からやって来て居ついたところであろう。現在の勝本町仲触、天ヶ原遺跡やセジョウ神遺跡の場所である。「セジョウ」の漢字表現は見当たらず、仮に「世上」とすれば「常(ツネ)の世」と同義である。


「天」の地名を具体的にできることにより彼らの行動…古事記に記述された…をより明確に把握できると思われる。「橘の君」を求めて常世国に向かった多遲摩毛理、不老不死の果実ではなく、明らかにこの常世国に有能で若い人材が海を渡って来ていたからである。

「君」には有能な「奴婢」も含まれていた、かもしれない。そう言えば「少名毘古那神」も居た。大国主神の国造りを助けて…稲作には案山子が不可欠と教えた…さっさと帰ったが…。

伊須受能宮・外宮之度相神


プロローグの最後を飾るのが下記…

此二柱神者、拜祭佐久久斯侶、伊須受能宮。次登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也。次天石戸別神、亦名謂櫛石窻神、亦名謂豐石窻神、此神者、御門之神也。次手力男神者、坐佐那那縣也。故、其天兒屋命者、中臣連等之祖。布刀玉命者、忌部首等之祖。天宇受賣命者、猨女君等之祖。伊斯許理度賣命者、作鏡連等之祖。玉祖命者、玉祖連等之祖。[この二神は伊勢神宮にお祭り申し上げております。なお伊勢神宮の外宮にはトヨウケの神を祭ってあります。次にアメノイハトワケの神はまたの名はクシイハマドの神、またトヨイハマドの神といい、この神は御門の神です。タヂカラヲの神はサナの地においでになります。このアメノコヤネの命は中臣の連等の祖先、フトダマの命は忌部の首等の祖先、ウズメの命は猿女の君等の祖先、イシコリドメの命は鏡作の連等の祖先、タマノオヤの命は玉祖の連等の祖先であります]

御伴をした神々の行く末の一部である。「伊須受能宮」=「伊勢神宮」は直観的にも理解できる。「伊須受」の意味は?…、


伊須受=伊(神の傍の)|須(州)|受(渡しの場所)

…「神の傍の州にある舟の渡し場」の近傍の宮と解釈される。上記の「天宇受賣神」の「受」と同義であろう。「伊勢神宮、伊勢大神之宮」の表記で現れるのはずっと後代になってであり、そこで初めて場所を求めることができる。例えば倭建命の記述などを参照願うが、現在の北九州市小倉南区蒲生、現在の蒲生八幡神社辺りと推定される。

ここで取り上げたいのが「登由宇氣神、此者坐外宮之度相神者也」の一文である。

「登由宇氣神」は豊受神とも訳されるが、これが意味するところは何であろうか?…「坐外宮之度相神」坐してるところが外宮の度相の神だと言う。通説は、ほぼ全面的に解釈放棄である。こういう時に極めて重要な意味が潜んでいるのである。

「度相」=「渡って相対(アイタイ)する」外宮は内宮である「伊須受能宮」に対して川向こうにあり、向き合ってる状況とわかる。「伊勢神宮」が上記のところとすると「外宮」は同区守恒の小高い丘の麓にあったのではなかろうか。

その南方の地名が「徳力」とある。由来は定かではないが「手力男神」と関連しているように思われる。「佐那那縣」となる。本題の「登由宇氣神」の示すところは…上記守恒の小高い丘は「白日別」と「豊日別」の間の方向に位置する。

「宇氣」=「請ける」と解釈すると…、


登由宇氣神=豊が受け入れる神=豊日別の傍にある神

…と紐解ける。簡単に言ってしまえば、ここも「豊」としましょう、という意味合いになる。また、結果として「伊須受能宮」の「受」(渡し場)に対応する「豊」の「受」(渡し場)の意味も併せ持つと解釈できる。

「伊勢神宮」という表現を取らずに紫川の川中にある州の「受」の表現を用いてその場所を示していたのである。「五十鈴(イスズ)」とも表現される。真に多彩な文字使いである。

「天石戸別神」亦の名が「豐石窻神」で「御門之神」とある。「御門」=「内宮と外宮の間の道」である。その地も「豊」としたことを述べている。例によって神の名前、とりわけ「亦名」に情報を含ませている。現在の伊勢神宮の外宮と内宮を繋ぐ道も古市参宮街道などとして大切に保存されているようである。


そこに「豐石窻神」が関与しているかどうかは不明である。「豊」=「豊かな」としておきましょう。あや、そうなってるではないか…衣食住の恵みの神…。

いやぁ~天孫降臨のプロローグ、もっと簡単かとの読みが大外れ、エピローグも含めて一回で、との思惑は吹っ飛んでしまった。「天」の地図については、まだまだ試案の段階かも…また後日に再考を加えてみよう・・・。

…と、まぁ、少々疲れて、降臨サラリとしてエピローグに向かおう・・・。


*中国の浙江省の「浙江」=「之江(シコウ)」川が折れ曲がって流れるさまを象形したもの。河口付近の蛇行する川のありさまを巧みに表現。また、中国のこの地にある河姆渡遺跡を含む大地は倭人の故郷と知られる。「之」とあからさまに記述しない古事記である。


<追記>

2017.08.25
「常世国」の文字解釈。「常(床:大地)・世(節or輿:挟まれたところ)・国」上記の図を参照願う。島と島とに挟まれた鞍部(輿)のような地形である。決して神の国などではなく、地形象形そのものの表現であった。「常世国」の特定、完了である。