2017年6月14日水曜日

倭国の繁栄を示す地名:その四〔049〕

倭国の繁栄を示す地名:その四


この「地名」シリーズも雄略天皇の「立国」宣言に近付いてきた。取り敢えずこの天皇までの「地名」を片付けてみることにする。途中、省いて来たものについては、後日纏めてみよう。国の拡大は明らかに止まり、詳細な地域の記述になると思われるが、比定は一層難しくなるであろう。

懐かしの履中天皇、本ブログは彼の逃亡劇から始まった。あらためて見てみると、彼の歌の中にある「かぎろひ」が示す方向、地理情報を紐解くこと、それが古事記解釈の基本であることを知り、現在に至ってその考え方の確からしさを感じる。

さて、シリーズの様式に従って、天皇ごとに記述された地名を列挙する。色の表示も前記と同じである。尚、[ ]内は「娶」と「祖」とは無関係だが重要と思われ、追記した。今回:太字。

1.履中天皇
伊波礼 葛城 

2.反正天皇
丸邇

3.允恭天皇
忍坂 木梨 長田  

4.安康天皇
葛城 [淡海之佐佐紀山] [淡海之久多綿之蚊屋野] [小治田]

5.雄略天皇
 日下 [伊勢国之三重]

一見して娶りと御子の派遣先の地名数が減少する。そして「国名」は殆どなく地域名の記述となる。が、それはそれで伝えんとするところを読取ってみようと思う。

伊波礼<追記>・市辺


「伊波礼」の地名は不確かである。関連する説話もなく、殆どが天皇の宮の地名に被せられる言葉である。そう言う意味では地名と言う保証もないが記述のパターンからすれば、ということであろう。神武天皇の名前(神倭伊波禮毘古命)と宮の推定場所(畝火之白檮原宮:福岡県田川郡香春町高野)から推し量るのみである。

履中天皇の宮「伊波禮之若櫻宮」については既に比定された例(若咲神社:福岡県田川市川宮)があり、それに準じた記述をしたが、その後も古事記中に出現することなく、現在に至っている。

「伊波礼」=「謂れ」=「由来、物事の起こったわけ」であるが、「伊波礼」=「波のように繰り返し頭を垂れて敬意を表す」と解釈できるかもしれない。推測になるが、より「高野」に近い、現在の香春町鏡山辺りとなるのではなかろうか。今後、幾人かの天皇の宮の在処探索で詰めてみたい。

「市辺」は履中天皇が娶った葛城之曾都毘古の孫娘、黑比賣命との御子「市邊之忍齒王」に記載されている。「市」は人々が多く集まるところ、歌垣などの解釈があるが、「市」=「聖と俗との境界」という解釈がある。現在とは異なり、物の売り買いなどは存在しない時に使われた文字とすると適切な表現かと思われる。

ならば「市」は何らかの境界、地形的には海と川との境界が考えられる。現在の福岡県田川郡福智町市場辺りが該当する場所として浮かび上がる。「市津」という地名も残る。この場所は正に海と川との境界、縄文海進と沖積進行の兼合いで生じた地形と思われる。前記でこの場所の地名を「葛城」とした。川向こうは「欠史」の天皇達の宮がずらずらと並んでいるところである。




毛受

少々補足になるが、履中天皇の陵は「毛受」、次の反正天皇は「毛受野」とある。また、前後するが仁徳天皇は「毛受之耳原*」である。通説では大変有名な墓場である場所を突止めてみよう。御陵の比定は今後の課題とするが…。

「毛受」の解釈は難しいものであろう。通説の「百舌」に引き摺られることなく一語一語解いてみると…、


毛受=毛(鱗:鱗片状)|受(引継ぐ)

…である。「鱗片状の地形の小高い丘が連なったところ」と解釈される。「受」=「渡し舟を受け渡す」が原義である。また、仁徳天皇が絡む以上河内、即ち現在の福岡県行橋市、京都郡みやこ町辺りであろう。

これだけの条件が揃えば、現在の行橋市延永辺り、「ビノワノクマ古墳」があるところと推測される。おそらくこの古墳が仁徳天皇の「毛受之耳原」、反正天皇の「毛受野」が「牧場」となっている場所で、履中天皇の「毛受」がその真ん中辺りではなかろうか。仁徳さんのお墓、鱗の縁にあった…。


木梨・長田・八瓜・小治田


「曾婆加理」抹殺の反正天皇に関する記述は簡単、素晴らしい歯の持主だったとか…宮が「多治比之柴垣宮」、この表記のお陰で「多治(遅)比」が解けた。「多くの川を寄せ集めて一つにするところ」現在の行橋市吉国辺り、「毛受」の近隣である。ついでながら「柴垣」=「柴(守る、防ぐ)垣(囲い)」で適切であろう、この名前が多くの宮で使われている。

「木梨」とくれば「ノリタケ」なんて言う訳ではなく、「梨」=「役立つ木」木が重なるから木々とでも解釈しておこう。「山梨県」は「木が無い」という意味ではなく、「役に立つ木がある山の県」確か恩賜林が多くあったような記憶があるが…。

木が役に立つ、必要なところと言えば、香春町の採銅所近隣である。神武天皇の「白檮」は「橿」では決してない。切り株である。この日田彦山線採銅所駅の西側、牛斬山山地の谷筋がその場所と思われる。「木梨之輕王」の母親「忍坂之大中津比賣命」であり、「忍坂」(既に定めた香春町採銅所)の近隣に居たと思われる。

「長田」は長女の「長田大郎女」に含まれる。全く手掛かりなしだが、こんな時は意外と地名が残っている。現在の福岡県京都郡みやこ町勝山黒田小長田である。小字と思われる地名まで消去されていない、のかもしれないが…。

「八瓜」は文字情報からの推定の難しい例である。ただ、これについては開化天皇の多くの系列表記の中に埋もれて見逃していた、「日子坐王」と近淡海の御影神之女・息長水依比売との御子、神大根王、亦の名「八瓜之入日子王」がいた。彼は後に「三野国之本巣」(現在の北九州市小倉南区朽網辺り)の祖となる。

近淡海国、三野国、入日を掛合せ、更に既に比定した「八田(京都郡苅田町山口)」「近淡海国之安国(同町下片島)」を除くと、「八瓜」は現在の同町葛川辺りと推定される。今回の「八瓜」は「八瓜之白日子王」に含まれている。後の雄略天皇によって目を飛び出させられて最後を遂げる王子であり、その場所が「小治田」である。

「八瓜」の宮から引き摺り出された場所、「小治田」=「小さな治水された田」と思われる。現在の地図からもわかるように背後が急斜面の山が控えた麓になる。治水がなければ田は作れないところでもある。その昔は「瓜」などの畑作が主であったところであろう。この事件の経緯からの地形推定より「八瓜」の場所は確からしくなった、と思われる。

淡海之佐佐紀山・淡海之久多綿之蚊屋野


安康天皇紀の淡海シリーズ、娶りとは離れるが「淡海」に関連する記述は少なく、またあれば貴重な情報をもたらすものである。勿論、「近淡海」との区別は明確である。日本書紀とは異なる。この言葉が出てくるのは、後の雄略天皇が安康天皇殺害の下手人及びその関係者を処罰する説話である。

複数王子達の処罰の背景、深読みは差し控えて、先に話を進める。「近淡海」と比べて「淡海」の領域は広く感じる。「市邊之忍齒王」を誘って行くとなると彦山川~遠賀川河口の淡海に抜けるルート上が有力な候補と考えられる。山は「福智山」山系であろう。現在名「金剛山」その麓を「笹尾川」が流れる。その周辺を「笹田」と記載されている。

この辺り、既に「淡海」である。何度か引用してきた地形に合致する。そして「金剛山」=「佐佐紀山」であった。わざわざこの祖を記述し、「淡海之久多綿之蚊屋野」に繋げる。安萬侶くんの仕込みである。

「久多綿」=「くちゃくちゃ(秩序のない様)の海」であろう。同じ「淡海」でも程度が違う。そこに接する「蚊屋野」=「蚊(小さい、少ない)屋(覆うもの)野」=「地面を覆う木が少ない(殆どない)野原」と思われる。その場所は、現在の福岡県遠賀郡水巻町の宮尾台など複数の団地となっているところであろう。「久多綿」=「水巻」である。

雄略天皇紀の「伊勢国之三重(采女)」もルート変更した結果と整合性の良い表記である。三重が伊勢国に含まれた配置で納得である。但し詳細な場所の特定には至らないが…。またこの天皇の御陵は「河內之多治比高鸇」<追記>とある。反正天皇の宮<追記>の近くにあったものと推測される。安康天皇陵も下図に示したが、詳細は後日に(福岡県田川郡福智町伊方丸山)

紐解いてみると彼らの地形認識を、定性的ではあるが、極めてスムーズに理解できる。この「蚊屋野」は今までに登場していない。伊豫之二名嶋の「土左国」の南方にあたる。早くから開けていたように思うが、やはり「淡海」の環境は厳しいものがあったとわかる。地名が特定され、そこで彼らが何をしたかがわかると当時の環境の全体像が浮かんでくる。面白い作業になるように思われる。

「倭国の発展」シリーズは一応完了。見返してみると抜けが多い、それはまた後日に…。本日の地図を参考までに…


…と、まぁ、こんな具合で先に話を進めてみよう・・・。


<追記>

2017.11.22
「伊波礼」の地についてその詳細を紐解いた。『伊波礼』の地を参照願う。



2017.12.13
「鸇」=「亶+鳥」に分解して、「亶」=「物が多く集積されている様」文字の印象からも積み重なった様子と見られる。これを適用してみると…


河内之|多治比|高鸇=河内の|治水された(田)|積み重なる

と紐解ける。河内にある「高い山稜が作る谷間の棚田」に近接する場所となる。現在の地形からではあるが、河内(長峡川と小波瀬川に挟まれたところ)の中では一ヶ所、それを示すところが見つかる。行橋市入覚の西側、塔ヶ峰南麓の谷間が合致することが判る。鳥は何処かに飛んで行った?



詳細な場所の特定は難しいが五社八幡宮辺りではなかろうか。

反正天皇:多治比之柴垣宮


<毛受之耳原>

2018.10.17修正

<毛受之耳原>