倭はトンボの島にある
古事記の中で最も有名な虫「トンボ」それが何処を飛んだのか、諸説入り乱れて混迷に…1300年間そうして来た、ある意味気楽な国民である。たとえ権力たるものが無謀な行いをした時代があったとしても・・・。
東大の助手であった宇井純氏がかつて「戦争で優秀な連中がいなくなり、残ったのがのさばってる」という意味の言葉を発した。科学技術のようなグローバルな査定を当たり前とする世界との違いであろうか、ガラパゴス化した、この国が得意とする「村」社会が日本の歴史を扱うところに巣食っているようである。
雄略天皇紀は「吉野」に入る。そしてトンボの島と叫ぶのである。「近淡海国」と「遠飛鳥」の支配に始まり、諸国を「言向和」して来た自らの拡張とその中に生きる民の充実の実感、それがトンボに繋がる。万葉集は、その第一首を雄略天皇の歌に捧げた。古朝鮮語解釈の助けを借りるまでもなく、立国宣言なのである。
古事記原文[武田祐吉訳](以下同様)…
天皇幸行吉野宮之時、吉野川之濱、有童女、其形姿美麗。故婚是童女而、還坐於宮。後更亦幸行吉野之時、留其童女之所遇、於其處立大御吳床而、坐其御吳床、彈御琴、令爲儛其孃子。爾因其孃子之好儛、作御歌、其歌曰、[天皇が吉野の宮においでになりました時に、吉野川のほとりに美しい孃子がおりました。そこでこの孃子を召して宮にお還りになりました。後に更に吉野においでになりました時に、その孃子に遇いました處にお留まりになって、其處にお椅子を立てて、そのお椅子においでになって琴をお彈きになり、その孃子に舞わしめられました。その孃子は好く舞いましたので、歌をお詠みになりました。その御歌は、]
阿具良韋能 加微能美弖母知 比久許登爾 麻比須流袁美那 登許余爾母加母[椅子にいる神樣が御手ずから彈かれる琴に舞を舞う女は永久にいてほしいことだな]
卽幸阿岐豆野而、御獦之時、天皇坐御吳床。爾𧉫咋御腕、卽蜻蛉來、咋其𧉫而飛。訓蜻蛉云阿岐豆。於是作御歌、其歌曰、[それから吉野のアキヅ野においでになって獵をなさいます時に、天皇がお椅子においでになると、虻あぶが御腕を咋くいましたのを、蜻蛉とんぼが來てその虻を咋って飛んで行きました。そこで歌をお詠みになりました。その御歌は、]
美延斯怒能 袁牟漏賀多氣爾 志斯布須登 多禮曾 意富麻幣爾麻袁須 夜須美斯志 和賀淤富岐美能 斯志麻都登 阿具良爾伊麻志 斯漏多閇能 蘇弖岐蘇那布 多古牟良爾 阿牟加岐都岐 曾能阿牟袁 阿岐豆波夜具比 加久能碁登 那爾淤波牟登 蘇良美都 夜麻登能久爾袁 阿岐豆志麻登布[吉野のヲムロが嶽に猪がいると陛下に申し上げたのは誰か。 天下を知ろしめす天皇は猪を待つと椅子に御座遊ばされ 白い織物のお袖で裝うておられる御手の肉に虻が取りつき その虻を蜻蛉がはやく食い、かようにして名を持とうと、 この大和の國を蜻蛉島あきづしまというのだ]
故、自其時、號其野謂阿岐豆野也。[その時からして、その野をアキヅ野というのです]
優雅な佇まいから説話は始まる。「吉野宮」「吉野川」が登場する。自らを神様と表現するなど、「上」を越えた存在と思うからであろうか。そして狩猟である。吉野宮があるところは狩猟場であり、トンボが飛び交う高原の様相を醸し出している。
虻の登場、あわやの時にそのトンボが危機を救う。自らと国の安泰を象徴する出来事なのである。それに甚く感動されて詠われた歌である。場所は「吉野」の「阿岐豆野」、これが国生みの最後の嶋「大倭豊秋津嶋」の謂れである。詠った場所は間違いなくこの秋津嶋の中心に在している。
一語一語の固有の地名を紐解いてみよう。「阿岐豆」は地形象形の表現であろう。「阿」=「丘」前回の「熊曾国」でも記述した「熊」=「隈」にも通じる。「阿」=「人里離れた台地」を示す。「岐」=「分岐(二つに分かれた)」かつて「當岐麻道」での解釈の通りである。「豆」=「小さなコブ(粒状の突起)」と解釈する。
三つの文字に全て地形情報を埋め込んである、見事である。「阿岐豆」=「二つに分かれた小さなコブがある台地」となる。こんな特徴的な地形を持つ場所は、容易に、現在の平尾台(北九州市小倉南区)と解釈できる。日本有数のカルスト台地の場所である。「岐」の意味が示すところ、現在の県道28号線によってこの台地が分断されていることに繋がる。
「袁牟漏賀多氣」とは? 「御諸山」と解釈されるが、例によって良質の石灰岩の産地、山は当時の姿を留めない。が、竜ヶ鼻に続く、と思われる、諸山が該当するであろう。「多氣」と表現するのはその山々がその地で際立った高さと威容を有していたのであろう。<追記>
「袁牟漏賀多氣」とは? 「御諸山」と解釈されるが、例によって良質の石灰岩の産地、山は当時の姿を留めない。が、竜ヶ鼻に続く、と思われる、諸山が該当するであろう。「多氣」と表現するのはその山々がその地で際立った高さと威容を有していたのであろう。<追記>
さて、この地は「大倭豊秋津嶋」の中心であろうか、いや、ここを中心とするならばこの嶋の実体は如何に求められるのであろうか。上記の比定結果と併せて下図に示す…
北と東は響灘、周防灘の海に囲まれ、西は遠賀川と彦山川の大河が流れ、南は犀川(今川)の清流が流れて「嶋」となった。縄文海進もさることながら沖積の進行が未熟な「嶋」は今よりももっと小さく、人の住める環境が少なかったであろう。そこに我らが祖先は住みつき現在に至る(参考資料)。
その「嶋」のほぼ真ん中に「阿岐豆野」があった。現在は環境保護区と産業利用区に分けられているとのことだが、歴史に取り戻せる区も持続可能であって欲しく思う。正に際どい時代である。
通説のように「大倭豊秋津嶋」を本州にしては、「阿岐豆野」の意味、また雄略天皇が叫んだ立国宣言の意味、現在に繋がる日本の天皇家の原点を見失ってしまう。もったいないのである。
忘れてました…「吉野川」大切です。平尾台から流れる川、「小波瀬川」である。雄略天皇、「日下之直越道」を越えて、河内日下⇒現在の県道64号線⇒高来、矢山辺り⇒県道28号線⇒平尾台、かつてはより距離の短い直登ルートがあったかも、である。
「小波瀬川」とは「高来」「矢山」辺りで出合う。そう言えば成務天皇の「志賀之高穴穂宮」があったところ、美しい孃子もいる筈。「洞」だけでなく清流の畔でもあった、御所の条件である。
「小波瀬川」とは「高来」「矢山」辺りで出合う。そう言えば成務天皇の「志賀之高穴穂宮」があったところ、美しい孃子もいる筈。「洞」だけでなく清流の畔でもあった、御所の条件である。
吉野之国主
応神天皇紀に下記の説話がある。
又於吉野之白檮上、作横臼而、於其横臼釀大御酒、獻其大御酒之時、擊口鼓爲伎而歌曰、[また吉野のカシの木のほとりに臼を作って、その臼でお酒を造って、その酒を獻った時に、口鼓を撃ち演技をして歌った歌、]
加志能布邇 余久須袁都久理 余久須邇 迦美斯意富美岐 宇麻良爾 岐許志母知袁勢 麻呂賀知[カシの木の原に横の廣い臼を作りその臼に釀したお酒、おいしそうに召し上がりませ、 わたしの父さん。]
此歌者、國主等獻大贄之時時、恒至于今詠之歌者也。[この歌は、クズどもが土地の産物を獻る時に、常に今でも歌う歌であります]
「吉野之國主等」吉野の国栖(武田氏:クズ)が天皇に献上するお酒の話である。この国栖については別途述べるとして、吉野の地が誇るお酒とは? 単純には確かに清水はある、が、米がない。狩猟場である。当然カルスト台地に水田は無理、農耕の歴史は見られず、集落の形成もない土地である。余談だが戦前まで陸軍の演習場であったとか。
草原から蜂蜜酒が浮かぶ。調べるとミードと呼ばれ、古代よりあったとか。自然発酵でない時は、酵母は巫女の口の中にあるんだそうで、なんとも、奇麗な巫女さんを想像すると、許容範囲? 巫女の役割がすごいのである。発酵に重要なことは、温度である。洞穴の中は年中一定温度、これである。カルスト台地である必然、安萬侶くんはここでも重要なヒントを書き記していた。
成務天皇の「志賀之高穴穂宮」で気付かされ、倭建命の遠征で再び出会い、そして、止めは「大倭豊秋津嶋」の在処で行き着いたこのカルスト台地、その暗闇の迷路の先に薄日をみたような気分である。
…と、まぁ、まだまだ手探りだが、一歩一歩進んでみよう・・・。
<追記>
2017.09.03「美和山」=「足立山(竹和山)」の修正に伴い「御諸山」=「谷山」(北九州市門司区大里)とした。あらためて「袁牟漏賀多氣」を紐解いてみよう。
「袁(ゆったり)・牟(大きい)・漏(液体が隙間から出てくる)・賀多氣(ヶ岳)」となる。そのものズバリ「湧水が流れ出る大きな山」竜ヶ鼻を指し示している。カルスト台地の山、大和には無縁の地である。
場所の特定には変更はないが、解釈そのものは悲惨であった。手を抜かず、一語一語丁寧に読み解く、忘れべからずの反省である
2018.02.19
長く時間が掛かったが「大倭豊秋津嶋」の由来が紐解けた。詳細はこちらを参照願う。
結論は「秋」の文字を地形に模したものと判った。それは現在の宗像市にある三つの岬を「火」の頭に象形したことを突き止めたことから紐解けたのである。
世界遺産の宗像(胸形)、かつては「秋郷」とも呼ばれたが、古事記はそこを「秋津」と伝えている。「豊秋津嶋」は、豊にある秋津嶋を示していたのである。