2018年5月16日水曜日

大入杵命と淡海之柴野入杵 〔210〕

大入杵命と淡海之柴野入杵

御眞木入日子印惠命(崇神天皇)の娶りに尾張連之祖となる意富阿麻比賣が記される。その御子が四人で、大入杵命、八坂之入日子命、沼名木之入日賣命、十市之入日賣命が誕生する。意富阿麻比賣自身も含め、彼らは意富の「阿麻」に留まらず各地に散らばった様子である。既に比定した通り、「阿麻」の地(現地名北九州市門司区丸山辺り)は決して広くはなく、新天地を求めざるを得なかった理由の一つであったろう。

「沼名木」は伊豫之二名嶋の土左国(現地名北九州市若松区乙丸・山鹿辺り)を「沼名木」と呼び替えたと推定した。「十市」は「十市縣主大目」の場所(現地名田川郡赤村赤辺り)と思われる。「八坂」は既出で「ヤ・サ・カ」(八百万の神が助くる処)として北九州市八幡東区祇園辺りとしたが、今回、少々追加の考察を述べてみよう。

残る「大入杵命」についても既に詳細を述べたが、あらためて纏めてみようかと思う。また関連する「淡海之柴野入杵」についても共通する「入杵」の文字を紐解いてみることにする。これらの人物は古事記にのみ登場で、日本書紀には現れない。だからこそ重要な意味を持っている人名と推察される。


 大入杵命

前記の概略を再掲しながら述べてみると・・・大入杵命の「大=意富=出雲」として、「入杵」の解釈を試みた。「杵」の意味は?…臼、杵以外は「金剛杵(ショ)」という武器を表す等々が見出せるが、地名との関連は見当たらない。しかし現在の出雲大社関連では多くの「杵」にまつわる文字が見出だせた。例えば出雲大社の旧名「杵築大社」、現在の大社境内には「杵那築の森」そしてお土産の「杵つき餅」等々。

また大国主命に関連して「鎌海布之柄、作燧臼、以海蓴之柄、作燧杵」[武田祐吉訳:海草の幹を刈り取って來て燧臼(ヒウチウス)と燧杵(ヒウチキネ)を作って]、その場所が淡海に面した「出雲」とある。「杵」と「出雲」は実に密接な関連があることを示していると思われた。

「大(斗)」↔「杵」↔「淡海」この三つのキーワードについて通説は出雲の神々の主たる武器として「杵」を説明できそうなこと以外残り二つのキーワードは無視である。特に問題となるのが最後の「淡海」である。手も足もでない有様、故に日本書紀は「大入杵命」を抹消したと推察される。

初見の考察では、やはりこの通説に引き摺られた感が否めない。これほどまでに出雲と杵との関連があるのだから、と地形象形への一歩踏み込みが不足したと反省する。神の武器などを記述する古事記ではない。重要な武器なら「天之麻迦古弓・天之波波矢」と名付けて報告するのである(こちらを参照)。間違いなく地形象形し、かつ重要なランドマークであったと思われる。


<大入杵命>
「入杵」を紐解くと…「入」=「谷の入口」の地形を表しているとして…、


入杵=入(谷の入口)|杵(杵の地形)

…と読める。あらためて地形を見ると、そのものズバリの山(丘陵)が見出だせる。肥河(現在の大川)の谷間の入口に位置する小高い丘陵である。

図を参照願うが、現在の下関市門司区にある観音山団地、命名からその地は観音山と呼ばれていたところであろう。

出雲、即ち大国を示すランドマークして「杵」の文字が使われていたのである。現在は丘陵でもなく、ましてや山でもなく大きな団地に造成されているが、何とか嘗ての面影を留める地形が伺える。中央部が括れたところが何とも感動的である。時代と共に地形は変わる、変えられるのであるが、その基本的なところを留められているようである。また、そうあって欲しく願うばかりである。


<観音山>
淡海之柴野入杵

景行天皇の太子、倭建命が東方十二道遠征の旅で遭遇した海難に「其入海弟橘比賣命」身代わりとなった比賣に生ませたのが若建王で、この王の娶りに淡海之柴野入杵之女・柴野比賣が登場する。

複雑に入り組む皇統なのであるが、確実にそれに絡む比賣の名前が記述される。数代に亘る時の経過がある以上同一人物とは思われないが「入杵」は地名(形)を人名にしたものと推察される。

言い換えれば「入杵」という極めて特徴的な地形を示すところを他に求めることは困難であることを表している。ならば「淡海之柴野入杵」は如何に紐解けるか?…既述を見直しながら纏めてみよう(こちらを参照)。

幾度も出現する「淡海」は変更することなく、関門海峡を示すとし、「柴野」も「柴」=「比(並ぶ)+木(山稜)」と分解すると「山稜に沿って並ぶ」と紐解ける。反正天皇の柴垣宮に類似する。

柴野=柴(山稜に沿って並ぶ)|野

…となる。並ぶものは大国主命の墓所「出雲之石𥑎之曾宮」である。現在の門司区寺内、寺内団地となっているところと紐解いた。上図を参照願うが、戸ノ上山山稜の麓にある野を表現していると解釈される。「入杵」の場所を確定的に示しているのである。

現在の出雲に関わる「杵」その由来は、淡海に面した谷から流れる肥河の河口にあった「杵」の地形の丘陵であった。それは出雲を示すランドマークであり、国譲り後も人々の心から消し去ることのできない文字であったのだろう。

能登

大入杵命は能登之祖となると書かれる。現在の能登(半島)としてよく知られた地名であるが、勿論通説はその通りで比定されているようである。この地も簡単に読み解いた前記があるが、あらためて見直してみよう。「入杵」を読み飛ばした反省も込めて・・・。

能登の「能」は「大きな口を開けた熊の象形」とある。とすると安萬侶コードは「能」=「熊」=「隈」となろう。果たして「隅」はあるのか、「熊曾」以外の「隅」は・・・前者が北端の隅ならば後者は南端の隅を指しているのではなかろうか。

<能登>
現地名門司区猿喰、その入江を登ったところが「能登」であったことを示していると思われる。

東方十二道が尽きる道奥石城国の北側、高志国の南側に位置するところである。陸地が途切れた隅に当たる。

神八井耳命が祖となった道奥石城国は、現在の北九州市門司区畑、戸ノ上山東麓を流れる「谷川」「井手谷川」の南側に位置する。

当時はこれらの川によって東方に向かう陸路は行止まりで「道奥」という表現が使われたのであろう、と既述した。この道奥石城国と高志国との端境にあった地と推定される。

能登の祖を史書から抹消するという無謀な英断?を放置して今日に至る。例え大入杵命のような人物が居たとしても、出雲と能登は同じ日本海沿岸で簡単に行き来できるなどと事なきを得て来たようである。淡海之柴野入杵も同様に抹消される。挙げ句には景行天皇紀の倭建命の系譜が怪しいとして既述全体が誤謬であるかのような論が登場する。古事記は誕生以来悲しい扱いをされて来た書物なのである。

古事記編者は「熊」としたいところだが、忖度して「灬」を取って「能」とした。何とかこれで判るであろう…そんな思いであろうか・・・「熊登」より「能登」の方が落ち着くかな?・・・。

八坂之入日子命

「八坂」は何と解く?…既に紐解いた詳細はこちらを…、



八坂(ヤサカ)=ヤ(八百万の神)|サ(佐る)|カ(処)
 
<八坂之入日子命>
…「八百万の神の加護があるところ」と紐解ける。よく知られているように八坂神社は祇園神社と呼ばれた。「八坂」=「祇園」である。

地名として現存する場所を探すと次のところが見つかった。北九州市八幡東区祇園・祇園原町辺りである。

上記の解釈で場所の特定ができるようあるが、現存地名から求めただけでは何とも心もとなく思われる。


八(谷)|坂

…「谷の坂」とすると上記の「祇園」の背後に巨大な谷があることに気付かされる。

急な傾斜面で多くの川が集まり麓に流れる古事記に度々登場する地形である。確かに「八坂」と言えば当時の人々にとってはこの地以外には考えられないところのようである。「谷坂(ヤサカ)」↔「八坂(ヤ・サ・カ)」↔「祇園」と繋げたのであろう。

この地も急斜面の麓にあり、田が作られるには些か労力・時間を要したのであろう。後に景行天皇の御子、押別命がこの地に田を作るが、葛城と同様の状況であったと推察される。いずれにしても天皇家は田地の開拓に大きな努力を払ったということであろう
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古事記新釈の崇神天皇紀はほぼ見直し終了。こちらを参照願う。