倭建命:建貝兒王・足鏡別王
本ブログの投稿数100に到達。何とも時間が掛ったものである。そして未だに完を見ない、霧中に居るようなもの…焦らずにボチボチ、である。景行天皇の御子が終わったかと思いきや、小碓命の後裔にそれなりに記述のある御子が残っていた。あらためて娶りと御子の記述を掲げると…、
古事記原文…
此倭建命、娶伊玖米天皇之女・布多遲能伊理毘賣命生御子、帶中津日子命(仲哀天皇)。一柱。又娶其入海弟橘比賣命、生御子、若建王。一柱。又娶近淡海之安國造之祖意富多牟和氣之女・布多遲比賣、生御子、稻依別王。一柱。又娶吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣、生御子、建貝兒王。一柱。又娶山代之玖玖麻毛理比賣、生御子、足鏡別王。一柱。又一妻之子、息長田別王。凡是倭建命之御子等、幷六柱。
故帶中津日子命者、治天下也。次稻依別王者、犬上君、建部君等之祖。次建貝兒王者、讚岐綾君、伊勢之別、登袁之別、麻佐首、宮首之別等之祖。足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也。
次息長田別王之子、杙俣長日子王。此王之子、飯野眞黑比賣命、次息長眞若中比賣、次弟比賣。三柱
故、上云若建王、娶飯野眞黑比賣、生子、須賣伊呂大中日子王。此王、娶淡海之柴野入杵之女・柴野比賣、生子、迦具漏比賣命。故、大帶日子天皇、娶此迦具漏比賣命、生子、大江王。一柱。此王、娶庶妹銀王、生子、大名方王、次大中比賣命。二柱。故、此之大中比賣命者、香坂王・忍熊王之御祖也。
多くの祖となる「建貝兒王」と既に祖は片付けたがご本人が残っていた「足鏡別王」の二名について先ずは紐解いてみよう。かつてにとっては決して簡単なものではなかったと思われる、例によって簡単な記述である。だが、残すことは許されない。
建貝兒王
吉備臣建日子之妹・大吉備建比賣の御子である。福岡県田川郡香春町鏡山から山口県下関市吉見下まで直線50km弱、奈良~岡山約200kmに比べたら近いと言えばそうかもであるが、当時の交通事情を鑑みるとよくも通われたものである。それにしても吉備国が頻繁に登場する。鬼ヶ城の故であろうか・・・。
「建貝兒王」の「貝兒」は何を意味するのか?…「兒」が付くからやはり「吉備兒嶋」辺りを指し示しているようである。
貝(貝のような)・兒(それに成りかけ)
と紐解いてみると、兒嶋の南で東に突出た円い形の山が見つかる。標高64mの奇麗な円錐状で貝殻を伏せたような形である。
「建貝兒王」居場所はこの山の麓、おそらくは南側、であったと推定される。現在の地名は下関市永田本町(二)辺りである。国生みの嶋でありながらそこの住人が見当たらなかった「吉備兒嶋」であるが、漸くにしてご登場である。「隱伎之三子嶋」の住人は菟であった…。
「建貝兒王」及び子孫はこの地を離れ各地の祖となる。①讚岐綾君 ②伊勢之別 ③登袁之別 ④麻佐首 ⑤宮首之別と記述される。順に紐解いてみよう。
① 讚岐綾君
伊豫之二名嶋にある「讃岐国」を示すと思われる。その中の「綾」と言われた地に居た君である。「綾」は綾織りで知られるように模様が斜めに交差するように紐が編まれたものを表す。地形象形であろうか?…やや判断に苦しむところであるが・・・地図に「修多羅」という地名があることがわかった。
現在の北九州市若松区大字修多羅(畑谷町)である。「修多羅」=「スータラ:経文」に飛んでしまうが、これは「袈裟の装飾として垂らす赤白四筋の組紐」でもある。「綾」と同義と思われる。讃岐国と粟国の境を占めた場所と思われる。ほぼ確実な残存地名と信じて更にその地の地形を観察すると…
並列した山稜の谷筋が折り重なって、正に綾織りのような地形をしていることが伺える。当時とは異なり山麓の開発が進行した現在では些か判り辛いところではあるが、推測可能であろう。地名由来は経文であるとのことだが、何故経文を地名にしたかは不詳である。だが、上記の繋がりが判明したことによって「伊豫之二名嶋」は「若松区」と確信した。
② 伊勢之別
既に度々登場している「伊勢」と思われる。ただ「伊勢国」全体なのかその中の「伊勢」なのか、不明である。おそらくその中心である伊勢神宮辺りを指し示しているように思われる。
③ 登袁之別
既に登場である。「登袁」=「十」と置換えて師木の南、現在の福岡県田川郡赤村赤辺りであろう。と、ここまでで、祖となる地名は吉備から師木の「南北ライン」上にあるような気がするが、果たして・・・。
④ 麻佐首
これには少々お手上げしかかったが、仁徳天皇の吉備行きで立寄った「阿遲摩佐能志麻」ではなかろうか。無口な御子が言葉を発して立寄り、一夜を共にした比賣に追っかけられるという説話も残しているところである。「首」の称号も狭い地域を示す。南北ライン上の現在の馬島(北九州市小倉北区)である。
⑤ 宮首之別
御眞木入日子印惠命(崇神天皇)が坐した師木水垣宮があったところと読み解ける。「印」=「首」から紐解いた「首」にあった宮である。ということで見事に南北ライン上を走ったことになった。しかもその多くが主要な地点を指す。倭建命の子孫がその後倭国において重要な位置にあったことが伺えるのである。
足鏡別王
「足鏡別王者、鎌倉之別、小津、石代之別、漁田之別之祖也」と記述される。鎌倉を含め解けてないのはその主人公だけ、少々反省。小津は倭建命が行き帰りに立寄った主要交通地点で、石代、漁田の地名から一に特定できた記憶がある。本ブログにとっても地名主要地点であった。
「山代之玖玖麻毛理比賣」が母親で、この名前が素晴らしい。
山代(山代国:馬ヶ岳南麓)・玖(三つの山頂)・玖麻(隅)・毛理(守)・比賣
現在の福岡県京都郡みやこ町犀川花熊、その地ズバリである(△216-208.7-134m)。比賣の素性は今一不詳なのだが…。その子「足鏡別王」は何処に居たのか?
足(山稜の端)・鏡(池)
と紐解いてみると、御所ヶ岳・馬ヶ岳山稜の端、標高約30mの高台に池があることがわかった。当時もそうであったかどうか不詳であるが、山稜の端でこの高さに池があることは珍しいと思われる。人工的でなければ特徴的な地形であろう。山稜の端を「足」という「ルール」も度々登場である。
「建貝兒王」「足鏡王」も地の端に居た王子である。子孫の繁栄はその地を離れ、新たな地を求めざるを得なかったのではなかろうか。が、新たな地は簡単に入手できるものではない。何らかの情報(知識、技術)または娶りで繋がって行くのが通常の手段であったろう。それも古事記に隠されているのかもしれないが、今は不確かである。
漸くにして景行天皇紀の見直しが終わった。八十人の御子に倭建命の御子も加わると随分な分量である。まだ抜けがあるようにも思うが、今のところ「古事記の国々」にすんなり嵌めることができたようである。飽きずに頑張るのみ・・・。
天皇は「山邊之道上」に葬られていると記述される。現在の田川郡香春町高野湯山辺りではなかろうか。倭国が大きな発展を遂げるための人材、「言向和」の充実でその礎を成した天皇であった。
…と、まぁ、一歩づつ、いや半歩づつの進捗かぁ・・・。