2018年5月24日木曜日

大毘古命と日子坐王 〔213〕

大毘古命と日子坐王

苦節何代かを経て漸く師木に辿り着いた崇神天皇は、まだまだその統治する地にいる服わぬ輩への対応が必須であった模様である。将軍達を派遣したと告げる。その説話については既に読み解き生々しく語られる戦闘場面など、ほぼほぼ再現したような錯覚に陥っていた(詳細はこちら)。古事記に取り掛かって早一年以上が過ぎた。遠い昔のようでもある。

それを再掲しながら読み飛ばした文字をあらためて紐解いてみようかと思う。孝元天皇が内色許賣命を娶って誕生した大毘古命、開化天皇の兄である。前記の御眞津比賣の、また比古伊那許士別命、建沼河別命の父親でもあると記される。天皇を支える大将軍といった役割である。

少々長くなるが、説話全文を纏めて引用する…古事記原文[武田祐吉訳]…、

又此之御世、大毘古命者、遣高志道、其子建沼河別命者、遣東方十二道而、令和平其麻都漏波奴人等。又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠。
[またこの御世に大彦の命をば越こしの道に遣し、その子のタケヌナカハワケの命を東方の諸國に遣して從わない人々を平定せしめ、またヒコイマスの王を丹波の國に遣してクガミミのミカサという人を討たしめました]

故、大毘古命、罷往於高志國之時、服腰裳少女、立山代之幣羅坂而歌曰
美麻紀伊理毘古波夜 美麻紀伊理毘古波夜 意能賀袁袁 奴須美斯勢牟登 斯理都斗用 伊由岐多賀比 麻幣都斗用 伊由岐多賀比 宇迦迦波久 斯良爾登 美麻紀伊理毘古波夜
於是、大毘古命思恠、返馬、問其少女曰「汝所謂之言、何言。」爾少女答曰「吾勿言、唯爲詠歌耳。」卽不見其所如而忽失。故大毘古命、更還參上、請於天皇時、天皇答詔之「此者爲、在山代國我之庶兄建波邇安王、起邪心之表耳。波邇二字以音。伯父、興軍宜行。」卽副丸邇臣之祖・日子國夫玖命而遣時、卽於丸邇坂居忌瓮而罷往。於是到山代之和訶羅河時、其建波邇安王、興軍待遮、各中挾河而、對立相挑、故號其地謂伊杼美。今謂伊豆美也。
[その大彦の命が越の國においでになる時に、裳を穿いた女が山城のヘラ坂に立って歌って言うには、
御眞木入日子さまは、御自分の命を人知れず殺そうと、 背後の入口から行き違い前の入口から行き違い 窺いているのも知らないで、御眞木入日子さまは。
と歌いました。そこで大彦の命が怪しいことを言うと思って、馬を返してその孃子に、「あなたの言うことはどういうことですか」と尋ねましたら、「わたくしは何も申しません。ただ歌を歌っただけです」と答えて、行く方も見せずに消えてしまいました。依って大彦の命は更に還って天皇に申し上げた時に、仰せられるには、「これは思うに、山城の國に赴任したタケハニヤスの王が惡い心を起したしるしでありましよう。伯父上、軍を興して行っていらっしやい」と仰せになって、丸邇の臣の祖先のヒコクニブクの命を副えてお遣しになりました、その時に丸邇坂に清淨な瓶を据えてお祭をして行きました。さて山城のワカラ河に行きました時に、果してタケハニヤスの王が軍を興して待っており、互に河を挾んで對い立って挑み合いました。それで其處の名をイドミというのです。今ではイヅミと言っております]

爾日子國夫玖命乞云「其廂人、先忌矢可彈。」爾其建波爾安王、雖射不得中。於是、國夫玖命彈矢者、卽射建波爾安王而死。故其軍悉破而逃散。爾追迫其逃軍、到久須婆之度時、皆被迫窘而、屎出懸於褌、故號其地謂屎褌。今者謂久須婆。又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能。自波下五字以音。如此平訖、參上覆奏。
[ここにヒコクニブクの命が「まず、そちらから清め矢を放て」と言いますと、タケハニヤスの王が射ましたけれども、中てることができませんでした。しかるにヒコクニブクの命の放った矢はタケハニヤスの王に射中てて死にましたので、その軍が悉く破れて逃げ散りました。依って逃げる軍を追い攻めて、クスバの渡しに行きました時に、皆攻め苦しめられたので屎が出て褌にかかりました。そこで其處の名をクソバカマというのですが、今はクスバと言っております。またその逃げる軍を待ち受けて斬りましたから、鵜のように河に浮きました。依ってその河を鵜河といいます。またその兵士を斬り屠りましたから、其處の名をハフリゾノといいます。かように平定し終って、朝廷に參って御返事申し上げました]

❶大毘古命

大毘古命は高志道、その息子の建沼河別命は東方十二道そして日子坐王は旦波国へ派遣されたと記載される。高志に向かった大毘古命は「相津」で東方十二道回りで派遣された息子の建沼河別命と運命的な再会を果たす。既に紐解き「相津*」は現在の北九州市門司区今津辺りと推定した。高志国の位置と東方十二道の経路から、海路と陸路で向かった親子が見事に再会という感動の場面となる。

通説は八百萬の神様はいざ知らず、神倭伊波禮毘古命、倭建命など登場する英雄は真に神憑りな行動範囲であったと解釈する。それでは古事記解釈とは程遠いことになることから、複数の英雄の言い伝えを集約したものと決めつける。挙げ句は古事記を神話・伝説の類として片付けてしまう。何とも勿体無い限りであろう。

さて、余計なことを書くよりも大毘古命の物語を詳細に調べてみよう。前記ではやや省略気味に述べたところ、それは師木水垣宮も丸邇の場所も決して明確ではなかったことに依るが、今は異なる。大毘古命が師木と山代を行き来する場面である。登場する地名の中で「山代之幣羅坂」「丸邇坂」を取り上げてみよう。

初見では…、

「山代之幣羅坂」何処であろう「幣羅」=「幣(ヌサ:旅の無事を祈って贈るもの)羅(ラ:複数の意味)」と解すれば、「大毘古命」が「師木(磯城)」から和邇坂を経て、高志国に向かうために遠征安全を祈願したところとなる。 

土地の名前とは思えない、いや、安萬侶くんは坂の名前で「大毘古命」の行動を示しているのである。拡大解釈の通説ではこのニュアンスは理解できないかと…。間違いなく通過点にある「山浦大祖神社」近隣の坂である。だから「服腰裳少女」に会えた。戦闘前に「忌瓮」を供えるのは常套手段、これで勝てる、なんてことになるんでしょうかね。
<幣>

…と判った風に述べたが、場所を示す以外の意味を読み解いただけで「山浦大祖神社」近隣の坂とする根拠は乏しいものであった。

「幣羅」は地名(地形)は示している筈であろう。が、文字を眺めていても、如何に原義、分解しても解は得られそうにない。

「幣」の画像を示す。今でも神社では常に目にするものである。この形を何に比喩したのであろうか?・・・峠を越える九十九折の山道と気付かされる。


幣羅坂=幣のような形をした坂

…そのものの表現である。「羅(ラ)」に複数の意味(等)はなく「和訶羅河」「末羅縣」で使われるように「~ような(状態を表す)」と解釈する。

下図を参照願う。田川郡香春町柿下から京都郡みやこ町犀川大坂に抜ける道(現在の福岡県道204号線)、当時との相違はあるかもしれないが、九十九折の坂道を通り抜けていることが判る(幣の頭部を大坂峠と見做せる)。山代之幣羅坂を下れば犀川大坂の中心地に届くのである。
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余談だが…Youtubeに車で上記と逆方向で県道204号線を走行された動画が載せられている。標高差約200m(犀川大坂~大坂峠)をカーブを曲がりながら登って、柿下側に下ってられる。馬に乗った大毘古命を思い描きながら拝見させて頂きました。
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師木水垣宮(田川郡香春町中津原:こちらを参照)を出発し、御祓川を渡れば「丸邇坂」に辿り着く。この御祓川の渡しは、後の応神天皇崩御の後の騒動で宇遲能和紀郎子と大山守命が戦った場所(歌中の表現:宇遲能和多理)である。

御祓川で隔てられた師木と丸邇(後に宇遲と言われる)を繋ぐ交通の要所と推察される。勿論県道204号線もここを通過する。古事記の時代から踏み固められた道は、多少の変更が加えられながら現在に至っているのであろう。

この渡しからは県道204号線とは離れ柿下集落に真直ぐ向かう道を経たものと推測される。そして再び県道に出会う。その間30~40mほど登る坂道となる。これが「丸邇坂」と名付けられていたのであろう。

建波爾安王の謀反を察知して、丸邇坂で戦勝祈願を行っていよいよ出陣と調子よく話が進んでいくのである。本説話の冒頭部分を大幅に修正・加筆することになったが、記載された地名が漸く落ち着くべきところに落ち着いた感じである。あらためて下図を参照願う。

<山代之幣羅坂・丸邇坂>

天皇の命を受けた大毘古命の軍は苦もなく「山代之和訶羅河」至る。待ち受けていたところが「伊杼美。今謂伊豆美」と記される。早速全軍入り乱れての戦いにはならず、小手調べに代わる矢を放ったと伝える。随行の丸邇臣之祖・日子國夫玖命が天晴な働きをしたのである。


<和訶羅河の戦い①>
その後の記述は敗走する建波邇安王の家来を「久須婆之度」に追い詰め殲滅したと記述される。前記に作成した図<和訶羅河の戦い①>を示した。

伊豆美」では川沿いの道が大きく曲がり、また多くの山影があり、待ち伏せるには最適の場所と思われる。現在の筑豊線の「豊津駅」周辺であろう。

「大毘古命」は南から進軍、大将戦に敗れた戦士たち、西は「犀川」、北は山、池に阻まれ、唯一の逃走場所の東に向かう。

南から勢い付く敵に押込まれながら、向かうところは「久須婆之度」、その距離約3.5km、現在の「祓川」に架かる「草場橋」に行き当たる。

僅か3km強と雖も経路は不確かである。安萬侶くんに感化されてしまって「クソバ」⇒「クサバ」であろう…と、何とも駄洒落のオンパレードみたいな戦闘記なのだが、初見の紐解きが不十分であった。「久須婆」は何と読めるか?…、

<和訶羅河の戦い②>
久(勹の地形)|須(州)|婆(端)

…「くの字の形をした州の端」と解釈される。現地名(橋梁名)の駄洒落も有効なようで、見事に上図の草場橋を示している。

更にその地について「又遮其逃軍以斬者、如鵜浮於河、故號其河謂鵜河也。亦斬波布理其軍士、故號其地謂波布理曾能」と記述される。

「鵜河」は見た通りの情景であろうが「波布理曾能」は何を意味するのか?…、

波(端)|布(布のような)|理(区分けされた田)|曾(重なる)|能(熊:隅)

…「端にある布を広げたように平坦で区分けされた田の隅が高くなっているところ」と紐解ける。「久須婆」の対岸の地形を示している。「能」の「大きな口を開けた熊の象形」とある。即ち「能」=「熊」=「隅」と紐解ける。大入杵命が祖となった「能登」に類似する。

現地名は行橋市道場寺・辻垣辺りである。現在の地図は広々とした水田を示し、標高は12~15mである。当時でも海面上にあり、かつ豊かな祓川からの水を活用できるところであったと推測される。この地も特徴ある場所であり「久須婆之度」を特定するには好適な地形を示していると思われる。安萬侶くんの戯れ、侮れないもの…何度も出会しているが・・・。


<久須婆之度・波布理曾能>
「伊豆美」=「泉(出水)」であろう。近隣に大きな池、これは「依網池」として崇神天皇紀の事績として記される。

犀川(今川)の流域にあって豊富に水を蓄え、貯水と給水の役目を果たした重要な池であったことが伺える。

現在に残る平成田川筑豊線の「美夜古泉(ミヤコイズミ)」駅の周辺に「泉」の地名を見出だせる。

「矢留」少し先「流末」である。もう「淡海」が近い。古事記は簡単に記述するが、小競り合いを含め、追い詰められたところでもあったと思われる。古事記記載の地名が残っている、数少ない場所であろう。


建波爾安王


<建波邇夜須毘古命>
ところで「建波爾安王」は何処に住んでいたのか?…既に登場していた波邇夜須毘賣の子「建波邇夜須毘古命」であろう。紐解いた概略を示す。

波邇夜須」は…、


()|邇(近い)|(谷)|須(州)

…「山稜の端(ハシ)に近い谷の出口にある州」と紐解ける。

図に示したように小ぶりな谷と州がある地である。現在の京都郡みやこ町犀川花熊辺りである。

余談だが・・・現地名、犀川花熊の「花熊」は…、


()|()

…現地名を紐解いてどうする?・・・。上記で待ち伏せたのはそこから少し離れた谷間の山陰に潜んでいたとしたが、無理のない舞台設定のように思われる。


日子國夫玖命

<日子国夫玖命>
大毘古命の大将軍振りを醸し出す既述のようであるが、随臣した丸邇臣之祖・日子國夫玖命の居場所も求めてみよう。

日子國意祁都命がそうであったように日子国から丸邇(丸に近い)臣が発生したと伝える。真に丸(壹比韋)に隣接する地の出身である。

春日から丸邇への侵出、現地名では田川郡赤村内田から同郡香春町柿下への侵出であろう。

またまた余談だが・・・「柿下」は「柿本人麻呂」の出自に関連する。残念ながら万葉集を紐解く時間がないが、この出自の場所を無視することはできないようである。


夫玖=夫(二股の川)|玖(勹の形)

…「川が二股に分かれるところが勹の形になっているところ」の命と読み解ける。「夫」の解釈は日子坐王が苅幡戸辨を娶って誕生した志夫美宿禰王の場合に類似する。図を参照願う。

❷日子坐王
<玖賀耳之御笠>

「又日子坐王者、遣旦波國、令殺玖賀耳之御笠」と記載される。既に紐解きは終えており(こちらを参照)、図に示した場所と推定した。

上記と合せて図示すれば、何と近接する場所であった。交通の要所、それを手中に収めた、と伝えているのであろう。

二人の将軍は和訶羅河(犀川)及び久須婆河(祓川)の河口付近に住まい、天皇家に歯向かう者を排除した。

この河口は当時にとって貴重な海路の確保に欠かせない場所であったと思われる彼らが周防灘を自由に行き来するためにはこの地を手中に治めることが必須であったことを伝えている。



<久須婆・玖賀耳>
通説を引き合いに出すことは極力控えたいが、日本書紀では多くが省略され、また丹波風土記のような記述から推測することは危険であろう。

何故なら大半の国譲りは地形的に類似するところを選択しているが、致命的に異なるのが丹波国だからである。

丹波国に関連する文字は「須(州)」「賀(入江)」「度(渡し)」「津(川の合流点)」等、登場人物の名前に織り込まれ頻出する文字である。

この地は大河の、しかも複数の、河口付近であり、大きな入江を有することを示しているのである。

海に面しない地、それはあり得ないと古事記は告げている。だからこそ重要な事績として記載したものと推察される。

内陸にある地に丹波国を置くこと自体が大変な誤りであることを示している。これを無視しては古事記が語る世界の理解は不可能であろう。

新羅の王子、天之日矛の説話、中でも阿加流比賣神の説話が記述されるように、この地への天神一族以外の渡来が暗示されている。その先人達と如何に折り合うかが天皇家の喫緊の課題であったろう。そして古事記でさえもあからさまには記し得ない事柄もあったと推測される。折り合う中での確執は後顧に憂いを発生させたと思われる。

息長一族関連でも述べたように、折り合い融和して交りあった後から見ると不都合な出来事も存在していたのであろう。憶測の域を脱し得ないが、そんな思いが丹波の地に潜んでいるように思われる。

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相津*


<相津>

向かい合った対の山の間にある」と解釈したが、あらためて以下のように紐解いた。

安萬侶コード「木(山稜)」を用いて、「相」=「木(山稜)+目(隙間)」と分解する。「目」は「網の目(隙間)」を意味する。

相津=山稜の隙間にある津

…と読み解ける。これは極めて重要な「相」の概念を示していると思われる。

相対するとは、二つのものの間に隙間が存在することを示している。「尾張之相津」の場所の特定に拘った結果導かれた。(2018.06.05)
















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