2017年11月5日日曜日

宇遲能和紀郎子 vs 大山守命:戦闘場面の再現 〔119〕

宇遲能和紀郎子 vs 大山守命:戦闘場面の再現


応神天皇が亡くなられた後その命に従わず大山守命が天下を欲したという筋書きで騒動が起きる。大山守命は応神天皇が高木之入日賣を娶って産まれた御子で、五百木入日子命と前記した尾張の志理都紀斗賣の孫に当たる。主役の宇遲能和紀郎子は丸邇の矢河枝比賣の御子である。陰で糸を引いた大雀命は高木之入日賣の妹の中日賣命の御子という設定である。

次期天皇は宇遲能和紀郎子、国の政治の担当は大雀命、首相ってところかもで、大山守命は海と山の担当、現在なら主に国交省の担当大臣ってところなのかもしれない。現在に置換えることにあまり意味はないようであるが…。いずれにしても存命中に天皇自らが決めたとわざわざ記述しているところに不満があったと推測するしかないようである。

少々長いが詳細を述べようと思うので略さず転載…古事記原文[武田祐吉訳]

故、天皇崩之後、大雀命者、從天皇之命、以天下讓宇遲能和紀郎子。於是、大山守命者、違天皇之命、猶欲獲天下、有殺其弟皇子之情、竊設兵將攻。爾大雀命、聞其兄備兵、卽遣使者、令告宇遲能和紀郎子。故聞驚、以兵伏河邊、亦其山之上、張絁垣立帷幕、詐以舍人爲王、露坐吳床、百官恭敬往來之狀、既如王子之坐所而、更爲其兄王渡河之時、具餝船檝者、舂佐那葛之根、取其汁滑而、塗其船中之簀椅、設蹈應仆而、其王子者、服布衣褌、既爲賤人之形、執檝立船。[かくして天皇がお崩れになつてから、オホサザキの命は天皇の仰せのままに天下をウヂの若郎子に讓りました。しかるにオホヤマモリの命は天皇の命に背いてやはり天下を獲ようとして、その弟の御子を殺そうとする心があつて、竊に兵士を備えて攻めようとしました。そこでオホサザキの命はその兄が
軍をお備えになることをお聞きになつて、使を遣つてウヂの若郎子に告げさせました。依つてお驚きになつて、兵士を河のほとりに隱し、またその山の上にテントを張り、幕を立てて、詐つて召使を王樣として椅子にいさせ、百官が敬禮し往來する樣はあたかも王のおいでになるような有樣にして、また兄の王の河をお渡りになる時の用意に、 船かじを具え飾り、さな葛という蔓草の根を臼でついて、その汁の滑を取り、その船の中の竹簀に塗つて、蹈めば滑つて仆れるように作り、御子はみずから布の衣裝を著て、賤しい者の形になつて棹を取つて立ちました]

於是、其兄王、隱伏兵士、衣中服鎧、到於河邊、將乘船時、望其嚴餝之處、以爲弟王坐其吳床、都不知執檝而立船、卽問其執檝者曰「傳聞茲山有忿怒之大猪、吾欲取其猪。若獲其猪乎。」爾執檝者、答曰「不能也。」亦問曰「何由。」答曰「時時也往往也、雖爲取而不得。是以白不能也。」渡到河中之時、令傾其船、墮入水中、爾乃浮出、隨水流下。卽流歌曰、
知波夜夫流 宇遲能和多理邇 佐袁斗理邇 波夜祁牟比登斯 和賀毛古邇許牟[ここにその兄の王が兵士を隱し、鎧を衣の中に著せて、河のほとりに到つて船にお乘りになろうとする時に、そのいかめしく飾つた處を見遣つて、弟の王がその椅子においでになるとお思いになつて、棹を取つて船に立つておいでになることを知らないで、その棹を取つている者にお尋ねになるには、「この山には怒つた大猪があると傳え聞いている。わしがその猪を取ろうと思うが取れるだろうか」とお尋ねになりましたから、棹を取つた者は「それは取れますまい」と申しました。また「どうしてか」とお尋ねになつたので、「たびたび取ろうとする者があつたが取れませんでした。それだからお取りになれますまいと申すのです」と申しました。さて、渡つて河中に到りました時に、その船を傾けさせて水の中に落し入れました。そこで浮き出て水のまにまに流れ下りました。流れながら歌いました歌は、流れの早い宇治川の渡場に棹を取るに早い人はわたしのなかまに來てくれ] 

於是、伏隱河邊之兵、彼廂此廂、一時共興、矢刺而流。故、到訶和羅之前而沈入。訶和羅。故、以鉤探其沈處者、繋其衣中甲而、訶和羅鳴、故號其地謂訶和羅前也。爾掛出其骨之時、弟王歌曰、
知波夜比登 宇遲能和多理邇 和多理是邇 多弖流 阿豆佐由美麻由美 伊岐良牟登 許許呂波母閇杼 伊斗良牟登 許許呂波母閇杼 母登幣波 岐美袁淤母比傳 須惠幣波 伊毛袁淤母比傳 伊良那祁久 曾許爾淤母比傳 加那志祁久 許許爾淤母比傳 伊岐良受曾久流 阿豆佐由美麻由美[そこで河の邊に隱れた兵士が、あちこちから一時に起つて矢をつがえて攻めて川を流れさせました。そこでカワラの埼に到つて沈みました。それで鉤をもつて沈んだ處を探りましたら、衣の中の鎧にかかつてカワラと鳴りました。依つて其處の名をカワラの埼というのです。その屍體を掛け出した時に歌つた弟の王の御歌、 
流れの早い宇治川の渡場に渡場に立つている梓弓とマユミの木、切ろうと心には思うが取ろうと心には思うが、本の方では君を思い出し末の方では妻を思い出し、いらだたしく其處で思い出しかわいそうに其處で思い出し、切らないで來た梓弓とマユミの木] 

初見でも述べたように大雀命からの連絡があって宇遲能和紀郎子は迎え撃つ態勢を整えるのであるが、実にきめ細かく記述される。影武者を置いて百官に敬礼させるなど、こんな時は伝えることがあるからで、勿論この場合は影武者と見破られない程度の宇遲能和多理と影武者が居る小高い山との距離を示している

策略はそれに止まらず日常の状況を作り出して油断させ、船に細工をした上で河辺に兵士を待機させる。尚且「言向け」して、狙われていることを確信し、いよいよ実行である。圧倒的な火力を持ち合わせない時代、兵の消耗戦だから知略がものをいう。三国志などの戦闘と同様の背景である。上記内容をそのまま受け取ると早逝しなければ仁徳を凌ぐ天皇になったかも?…。

安萬侶くんが事細かな記述に応えてこの戦闘場面を再現してみよう。和紀郎子が「テント」を張った山は何処であったか?…


和紀=和(和邇)|紀(始りのところ)

とすると現在の福岡県田川郡香春町柿下と迫谷の境に近いところを示しているようである。ならばその山は標高△58.9と示されているところと思われる。視界も川を見張るにも、逆に下から眺めた時によく目立つところとなる。

では、渡渉を試みた場所は?…凹凸のある丘陵地帯で凹のところが道になっていて、丘に隠れながら川に近付き兵を隠すだけの空間があるところとなると、限られてくる。宇遲能和多理」は現在の柿下温泉口駅の東、県道204号線の橋が架かっている辺りではなかろうか。影武者との直線距離500m強である。

共に兵を隠して置いたという段取りである。これで最初の両者の接触場所が見えてくる。渡しの船頭に扮した和紀郎子が兄の大山守命の腹を探る場面となる。賤しい身なりをしていても兄弟なら見分けが付く?…まぁ、同居してるいるわけではないので…と勝手に解釈して・・・。


訶和羅(カワラ)*

勝敗は呆気なく和紀郎子の策略で決着する。後は力任せで矢の雨を降らせる。堪らず大山守命は川に沈んで流されたというシナリオである。川の中から探し出したところが「訶和羅前」となったと言うのである。御禊川の丸邇辺りで沈み、香春町香春辺りまで流された。その地を「訶和羅前」と呼んだと落が付く。




大山守命は土形君、弊岐君、榛原君等之祖」と記される。この場所は現在の香春町採銅所辺りに比定した。「採銅」…おそらくは鉄も…の山の監督者であった。奔流に歯向かうだけの力を有していた、若しくはそんな気持ちを育んでいたのであろう。それだけ銅、鉄は大きな意味を持つモノであったろう。天皇に山と海を統括しろ、と言われてやはりそれだけでは納得できなかったかもしれない。

宇遲と香春の位置関係が明々白々に語られた。この説話一つで古事記の舞台は大和ではないと言い切れるであろう。これの解釈の真面なものを目にすることができない。何処かから持ってきた寓話とするしか道は残されていないようである。このことを強調する意味でも敢えて戦闘場面の再現を試みた。

…全体通しては「古事記新釈」の応神天皇【説話】を参照願う。


――――✯――――✯――――✯――――
訶和羅*



<訶和羅>
「訶和羅」とは?…「訶」=「言+可」と分解し、「可」の甲骨文字を使って地形を象形したと考える。すると…、

訶(谷間の耕地)|和(輪のように)|羅(連なる)

…「谷間の耕地が輪のように連なるところ」と紐解ける。
<可>


御祓川が流れる谷にある輪のように蛇行したところで田が連なっているところ、その前の下流域にある場所を「訶和羅前」と名付けたと伝えているのである。

そして、それは「河原(香春)前」でもあると…いつもの手口で重ねられた表現としている。
――――✯――――✯――――✯――――