紫黒米の垂仁天皇
<本稿は加筆・訂正あり。こちらを参照願う>
初国の天皇と言われた崇神天皇の後を引き継いだ伊久米伊理毘古伊佐知命は国の基盤を確立するために様々な手を打ったであろう。ここまで述べてきたように天皇家は大勢力、圧倒的な武力で倭国を支配してきたわけではなく、地元住民との「言向和」そして娶りを繰り返しながら御する地を拡大してきた。
いつの時代でも二代目の役割は重要である。一応の目的を果たしたわけだがまだまだ積もる課題が残っているのが常であろう。しかも簡単に解決できるものならば初代が処理してるわけで、多くは厄介なことが多くなる。要するに手間暇が掛る問題ということになる。
また、初代は達成感ありだが二代目は今後のことを考えねばならず、勢いその施策がぶれることもある。そんな役割を演じなければならなかったのが垂仁天皇、和風諡号:伊久米伊理毘古伊佐知命であった。既に垂仁紀の豊かな説話を読み解いてきたが、気付くとこの諡号を紐解いていなかった。
「伊久米伊理毘古伊佐知命、坐師木玉垣宮、治天下也」短い文言、けれど読み解きにくい文言でもある。伊久米伊理毘古伊佐知命に含まれる「伊久米」と「伊佐知」頭韻踏んだ調子の良い名前、なんて感心してるだけでは読み解けない、あたり前か・・・。
先ずは伊久米伊理毘古の「伊久米」更には「久米」から取り掛かることにする。ところが、前記の崇神紀に「伊玖米入日子伊沙知命」と表記されている。勿論同一人物であることは間違いない。「久米」とくれば天津久米命を連想して久米一族なんて結論になってしまうが、「玖米」はそうではない。
安萬侶くんの戯れで、これは崇神紀の表記、「玖」の意味からが正解と思われる。幾度か登場の「玖」の文字は、石炭の色を示す黒(色)、「久」の字形の入江(玖賀)だとか、使い方は多彩である。ここは何を?…
玖・米=玖(黒色の)・米(稲の実)
赤米ではなくて今度は黒米である。見た目はその通りなのだが、紫黒米、紫米とも呼ばれるとのこと。「玖米」の地のキーワードは「紫」と思われる。師木の地域で「紫」を探すと・・・田川郡香春町中津原に紫竹原、東紫竹原、南紫竹原の地名が見当たる。何故「竹」?
竹の植物分類は「イネ目イネ科タケ亜科」なのである。同じ科に属する植物であった。これに置換えたと推測される。誤ってはいない、紫稲、即ち紫米の産地であったことを忍ばせていると思われる。師木玉垣宮は大坂、木戸、那良の三つの方向が直交する場所にあると推定したところに合致するのである。
黒米を調べると、吸肥力大、環境変化に強い、長期保存時の発芽率が高いなど水田事情の悪いところでの栽培に適するようである。師木の地形にマッチした稲ではなかろうか。白米至上主義になったのは明治時代以降、生きるための米は近年になるまで有色米であった。赤米との関連も含めていずれまた纏めてみよう。
「伊」を省略して解釈したが、「久米」が付く名前を思い出した。建内宿禰の比賣に「久米能摩伊刀比賣」がいた。「伊」は語調を整える接頭語ではなく原義の「治める人、聖職者」を意味していると解釈される。「伊久米」と「久米」は区別された表記と思われる。
伊玖米=伊(天皇の)・玖(黒色の)・米(稲の実)
と読み解ける。現在の紫竹原の近隣にあったのではなかろうか。
「伊佐知」もまた崇神天皇紀では「伊沙知」となっている。
伊・沙・知=伊(天皇)・沙(辰砂、丹)・知(覚、理解)
なんと、後に出てくる説話の佐波遲比賣命(沙本比賣)の謀反を事前に察知していたと紐解いたが、既に名前に忍ばせてあった。丹の知識と単純に解釈する一方、丹に関連する人の動きを知っているとしたら、そのものズバリの名前ではなかろうか。更に凝っているのが、「伊佐知」である。
伊・佐・知=伊(天皇)・佐(助ける、加護する)・知(丹の理解)
謀反を真っ当に且つ優しく受け止めて丹の持つ力を一層引き出そうとする行いに終始する。見事なまでの文字使いと言うべきであろう。しかも極めてありふれた文字で・・・。逆に後の説話、沙本毘古、沙本毘賣の謀反の物語が伝える真意を明確に表現していると気付かされる。
「師木玉垣宮」はほぼこの辺りと決めてきたが、今回の紐解きで絞り込むことができそうである。既に述べたように大坂山、木国、那良山に向かう三つの方向が直交するところで紫竹原近隣となれば、現在の福岡県田川市にある鎮西公園辺りと特定できる。
倭国発祥の地、師木水垣宮及び玉垣宮の位置は決定できたと思われる。現在の天皇家に繋がる倭国の発端は現在の福岡県田川郡香春町中津原及び同県田川市伊田にあったと推定される。