用明天皇・崇峻天皇・推古天皇

敏達天皇

用明天皇・崇峻天皇・推古天皇

古事記通釈の最終章に至った。「古事記のルール」(途中で安萬侶コードに変更)に従って読み解けてきたが、最後まで到達できるかどうか、楽しみに・・・。
 
1. 橘豐日命(用明天皇)

欽明天皇が宗賀之稻目宿禰大臣之女・岐多斯比賣を娶って誕生したのが橘豐日命である。宗賀の御子達が続いて即位する。強大な財力を背景にしたものであろうが、時代が変わろうとしていることも伺える記述である。

古事記原文…、

弟、橘豐日命、坐池邊宮、治天下參。此天皇、娶稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣、生御子、多米王。一柱。又娶庶妹間人穴太部王、生御子、上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王。四柱。又娶當麻之倉首比呂之女・飯女之子、生御子、當麻王、次妹須加志呂古郎女。此天皇、丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也。
 
<池邊宮>
1-1. 池邊宮

何の修飾も無く宮の名前が記される。倭国の中心、香春岳の周辺にあったと思われる。

池の畔のように読めるが、もう少し手が込んでいるのではなかろうか。「池」=「水+也(蛇の形)」に分解すると「川が曲がって流れている様」と読み解ける。

既出の「邊」=「端で広がった様」の地形を表す。伊邪那岐の禊祓、また胸形三女神の段で登場した「邊津」の解釈である。

すると池邊=山稜の端が広がって延びている前で川が曲がって流れているところと読み解ける。図に示したところは石上神宮に近接する場所であり、「石=磯」に接するところと思われる。宮は、おそらく、香春一ノ岳の麓辺りにあったと推定される。現地名は田川郡香春町香春の山下町辺りである。
 
1-2. 后と御子

三人の后と七人の御子の名前が記載される。晩年の即位だったのだろう。

1-2-1. 稻目宿禰大臣之女・意富藝多志比賣

<意富藝多志比賣>
唐突に「意富」が登場するが、宗賀は近淡海國の一部である。ならば倭建命が娶った比賣の父親である近淡海之安國造之祖意富多牟和氣が登場していた。

宗賀の東隣に当たる。その地が「意富」の地形を有していた。「藝多志」はその「藝」=「果て、尽きる」ところに「多」(山稜の端の三角州)と「志」=「蛇行する川」があることを表している。

「意富藝多志比賣」は図に示した場所に坐していたと思われる。

宗賀の稲目宿禰は、大臣となり、その支配領域を更に拡大して行ったのであろう。古事記史上の最大の一族である。

御子が一人、多米王と記述される。既に登場した名前であるが、引き継いだのではなかろうか。一族で固めると何とも複雑な近親婚が発生する。天皇家に限らず各地の豪族の間でも同様のことが起こっていたのだろう。
 
1-2-2. 庶妹間人穴太部王

天國押波流岐廣庭天皇(欽明天皇)が岐多志比賣命之姨・小兄比賣を娶って誕生したのが間人穴太部王である。「石上」の長く深い谷間に坐していたと推定した。誕生する御子達もその地の近隣なのか、それとも各地に飛ぶのか、憶測を排して名前を紐解くことにする。

御子の名前は「上宮之厩戸豐聰耳命、次久米王、次植栗王、次茨田王」と記される。古代史上最も著名な人物の一人が登場する。
 
上宮之厩戸豐聰耳命

聖徳太子とされて来たが、最近では厩戸皇子と表記されるそうで、ならば神倭伊波禮毘古命とすべきかな?…余談はそれくらいにしてこの人物について紐解いてみよう。何せ超有名な為にこの名前の解釈には様々な説が見受けられる。全く捉われることなく安萬侶コードを適用する。

「上宮」は何処を示すのであろうか?…古事記の中で「上」が使われるのは決して多くは無い。それは「神」を表現する場合に用いるために混乱を避けているようである。そう考えると、この「上」は「石上」を表し「宮」は、穴穂宮もしくは廣高宮を示していると思われる。母親「間人穴太部王」の出自と重なる場所と判る。
 
<上宮之厩戸豐聰耳命>
厩」=「厂+既(既)」と分解される。「厂」=「崖」を象った文字である。更に「既」=「旡+皀」と分解される。

旡」=「詰まる、尽きる」の意味を示す。「皀」=「器に盛った食べ物」を象った文字と言われ、「既(既)」=「食べ物が尽きた」情景を表している。

すると地形象形的には「厩」=「高く盛り上がった山からの崖が尽きるところ」と読み解ける。

通常の意味は「馬小屋」であるが、厂」=「屋根の下()で食べ物が一杯詰まった()様」と解説される。全く掛離れた解釈となるが…、
 
厩=厂(崖)+既(尽きる)

…とできる。頻出の「戸」=「谷間の入口」、「豐」=「段差のある高台」と解釈する。
 
聰=総(集まる)

…に通じるとある。「耳がよく聞こえる」とは神経を集中することに通じることから派生した意味である。全体を纏めて「厩戸豐聰耳」は…、
 
崖が尽きるところの谷間の入口に段差のある高台が集まって耳の地形となったところ
 
<間人穴太部王と御子>
…と紐解ける。

「耳一族」と言うわけではなく、天之忍穂耳命から始まる「耳」が付いた名前に共通する解釈が適用できる(毛受之耳原)。

さて、そんな場所が見つかるのか?…現在の田川市夏吉、ロマンスヶ丘の麓にある。

意祁命(仁賢天皇)の石上廣高宮があった山からの崖下の場所に「耳」の形をした縁があることが解る。

ここまで解釈して「耳」の場所が見えて来ると、「上宮」は石上穴穂宮ではなくて、むしろ石上廣高宮を示している、と読み取れる。

そして、それは「石上」=「磯の上」の「上」ではなく、宮の位置関係を示していたのである。

当にこの廣高宮の崖下に位置するところである。穴穂宮の上の高いところにある宮、即ち「上宮」として「廣高宮」を表現していたとも読取れる。
 
久米王・植栗王・茨田王

「久米」=「黒米」と垂仁天皇紀で解釈した。田川郡福智町伊方に「大黒」という地名が残る。黒米との関連を思い付かせるようであるが、やはり「久米」は幾度となく登場の川の合流点の地形象形であろう。図に示したところは大きな津を作っている。
 
久米=くの字に曲がる川の合流点

…と解釈される。黒米と繋がって来るのは耕作に都合の良い場所であり、耕地が大きく広がっていたところなのであろう。現地名では田川市夏吉との境にある。

「植栗王」の「植」=「木+直」と分解される。「木を真っすぐに立てる」意味を表す文字と解説される。即ち「植」=「山稜が真っ直ぐに延びたところ」と紐解ける。「栗」=「毬栗のような形」とすれば、穴穂宮の南側に見出せる。


植栗=山稜が真っ直ぐに延びた毬栗のようなところ

「茨田王」の「茨田」は既に紐解いたように谷間の「棚田」の地を表す。長く延びた高台の斜面に作られた田、現在に残るところであろう。正に「茨田堤」の様相と思われる。現在、この高台の東端で田川郡福智町と田川市の境となっている。即ち古代の「葛城」と「石上」との境であったことが伺える。幾度か登場する行政区分に残る古代ではなかろうか。纏めて上図<間人穴太部王と御子>に示した。

厩戸豐聰耳命が歴史上如何なる事績を残したかを古事記は語らない。が、何かを伝えたいから、そして決して単刀直入には記述できないから、凄まじく凝った名前を付けたものと推察される。素性を曖昧にするのは彼の母親から始まっている。突止めるのもかなりの労力を要さなければならなかった。事情を忖度するのみである。

1-2-3. 當麻之倉首比呂之女・飯女之子

「當麻」は既出で現在の福智町上野、直方市上境・永満寺に跨る福智山山稜が延びたところと比定した。古事記の記述では「葛城」に隣接する地である。
 
<當麻之倉首比呂>
倉首=倉(谷)|首(凹形の地)

…と解釈でき、谷のような凹の地を示している。「呂」=「田が重なる様=棚田」とすると…、
 
比呂=比(並ぶ)|呂(棚田)

…「棚田が並んでいる様」と紐解くことができる。これらのキーワードで探すと…當摩北部の谷が適すると思われる。現地名は直方市永満寺である。

「飯女」は安萬侶コード「飯」=「なだらかな山麓」として、谷の西側に坐していたのであろう。

御子に「當麻王、次妹須加志呂古郎女」と記される。當麻王はその地の中心に居たのであろう。
 
須(州)|加(増える)|志(蛇行する川)|呂(棚田)|古(定める)

…とすれば「州が増える蛇行する川の傍らで棚田が定められている」ところに住む郎女という意味ではなかろうか。同じ永満寺にある當麻の谷の出口辺りと推定される。

1-3. 陵墓
 
<石寸掖上陵>
「丁未年四月十五日崩。御陵在石寸掖上、後遷科長中陵也」と記述される。


石寸掖上」は何処を示すのであろうか?…「掖上」は葛城掖上宮掖上博多山で登場した。「掖」=「延び出た山稜の傍らの三角州のある谷間」と読み解いた。

福智山山塊の深い谷筋を「掖=脇」と見做したと紐解いた。また「石寸」の「石」は、石上神宮の「石」=「磯」と思われる。これで現在の香春一~三ノ岳の山稜の西側の谷間を示していることが解るが・・・。
 
また「寸=尊(神)」と解釈して「寸=神=上」から「石寸=石上」の繋がりも上記の場所であることも暗示するようにも思われる。

「寸」=「肘」の略字で「肘を張った腕のような山稜」を表すとの解釈した。例示すると市寸嶋比賣命大山守命などがあった。「寸」は”片腕”であり、「守」は”両腕”を表す文字使いと紐解いた。

すると「石寸掖上」は…、
 
石(磯の)|寸(肘を張った腕のような山稜)|掖上(山稜の傍らの谷間)
 
<倉椅柴垣宮・岡上陵>
…「磯にある肘を張った腕のような山稜の傍らの三角州のある谷間を上がったところ」と紐解ける。

香春岳(一~三ノ岳)の西麓を流れる五徳川の畔を示していると思われる。おそらく図中の(真行寺)の北側の突き出た山稜の上辺りかと思われる。

香春岳の極めて特徴的な山容を「寸」で表現している。この文字の解釈には、少々手こずった思いがあるが、解けてみると実に明確な地形象形表記であることが解る。

「寸」=「肘」の省略字体としたが、「寸」=「又(手)+一」から成る文字と知られる。「一」=「区切る」意味を示す文字要素であって、「折れ曲がった様、途切れた様」などを表している。

古事記編者等の漢字に対する正確な理解が伺える。それに基づいて記述された古事記が伝える日本の古代の有様を、残念ながら受け止めることができていない、悲しい現状であろう。
 
最後の最後まで手を緩めていない・・・がしかし記述量の激減は如何ともし難いようである。本来はもっと豊かな…些か残念な感じがしないでもないのだが・・・。

2. 長谷部若雀命(崇峻天皇)

古事記原文…、

弟、長谷部若雀天皇、坐倉椅柴垣宮、治天下肆壬子年十一月十三日崩也。御陵在倉椅岡上也。

<科長の陵墓>
倉椅柴垣宮

「倉椅」は既出で女鳥王が遁走した場所である。

柴垣と命名されるから、「谷間を挟むような山稜に囲まれてところ」にあった宮と紐解ける。「倉椅」の場所で、容易に見出すことができる。

葛城山稜(現在の福智山山系)の南端の山麓に石上之穴穂宮、石上廣高宮に並んで位置していたと推定される。一に特定は難しいが田川市夏吉の川の上流付近と推定した。

反正天皇の多治比之柴垣宮、仁徳天皇の難波之高津宮に並んでいた宮である。「倉椅岡上陵」は更に上流部ではなかろうか。「岡」は「筑紫之岡田宮」と同じく、二つの山陵に挟まれた中央の山陵の上にあったと思われる。尚、天皇の出自の場所は、こちら参照。

3. 豐御食炊屋比賣命(推古天皇)

古事記原文…、

<小治田宮>
妹、豐御食炊屋比賣命、坐小治田宮、治天下參拾漆戊子年三月十五日癸丑日崩。御陵在大野岡上、後遷科長大陵也。

「小治田」は宗賀にある。小治田王が坐したところに重なると思われる(前記の地図を参照)。

三十年以上も君臨したらしいのであるが、古事記は語ることを辞めた、ということであろう。

陵墓は初め「大野岡上」とある。おそらく香春町高野の岡の上と思われる。移して科長大陵」にあると言う。上図の行橋市入覚であろう。最後に纏めて御陵は上図<科長の陵墓>に示す。

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長い、真に長い著作が終焉を迎えた。歴史は終焉することなく、今に繋がる。その歴史の最初を記録した著作である。現在に至るまで全く解読されることなく、部分的には、訳者の都合の良いところを抜き出して解釈されて来た。

古事記の中から「安萬侶コード」として抽出・還元した解釈を全編を通して適用した結果である。この「コード」を用いれば、全く矛盾なく古事記の伝えるところが読み取れることを示した。その内容の真偽を問うことは本著の目的ではないことを付け加えて置く。



敏達天皇

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