孝元天皇・建内宿禰

孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇                            開化天皇

孝元天皇・建内宿禰

1. 大倭根子日子國玖琉命(孝元天皇)

孝元天皇は「時が来た」と判断しなかった。土地の開拓は順調で十分な財力を生んでいたのであろうが、吉備の「鉄」は未熟、時間がかかる作業であったと思われる。今暫く様子を伺い時が熟するのを待つ、という選択をした。そして葛城の地に留まるのではなく、再び「軽」に飛んだ。

古事記原文…、

倭根子日子國玖琉命、坐輕之堺原宮、治天下也。此天皇、娶穗積臣等之祖・內色許男命色許二字以音、下效此妹・內色許賣命、生御子、大毘古命、次少名日子建猪心命、次若倭根子日子大毘毘命。三柱。又娶內色許男命之女・伊賀迦色許賣命、生御子、比古布都押之信命。自比至都以音。又娶河內青玉之女・名波邇夜須毘賣、生御子、建波邇夜須毘古命。一柱。此天皇之御子等、幷五柱。故、若倭根子日子大毘毘命者、治天下也。其兄大毘古命之子、建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命、自比至士六字以音。此者膳臣之祖也。

比古布都押之信命、娶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣那毘二字以音、生子、味師內宿禰。此者山代內臣之祖也。又娶木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣、生子、建內宿禰。

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

此天皇御年、伍拾漆歲。御陵在劒池之中岡上也。

輕之境」は大倭日子鉏友命(第四代懿徳天皇)が坐した「輕之境岡宮」があったところ。大倭根子日子國玖琉命の「輕之堺原宮」はその近隣であろうか?…堺=境で同義であろうから、そして「軽」が付くのだから近いことには違いない。

<大倭根子日子國玖琉命・輕之堺原宮>
「原」も腹とするには山も海も遠い。やはり「野原」に関連すると思い、現在の福岡県直方市下境、頓野辺りをウロウロと彷徨ってると、この近隣では珍しく広々とした「原」が見出させる。

近津川が遠賀川に合流する辺り、長く延びた山稜の谷間が広がった場所である。

倭根子日子國玖琉命」の名前は何を示しているのであろうか?…一文字一文字を紐解いてみる。

「大」=「平らな頂の山稜」、「倭」=「しなやかに曲がる様」、「根」=「分岐しながら山稜が伸びた様」、「子」=「更に伸びたところ」、

邇邇芸命のフルネームに含まれる「日子」=「稲(穂)」、「國」=「大地」、「玖」=「[く]の形」、「琉」=「広がる」とすると…「倭根子日子國玖琉命」は…


大(平らな頂の山)|倭(しなやかに曲がる)|根子(伸びた山稜の端)
日子(稲穂)|國(大地)|玖([く]の形)|琉(広がる)|命

…「平らな頂の山稜がしなやかに曲がり分岐しながら伸びた端の傍らに稲穂の大地が[く]の形に曲り広がるところの命」と読み解ける。図に示した通り、取り囲む地形を丁寧に表していると思われる。

何度も繰り返すが「大倭」≠「大和」である。この地は「輕(境、堺)」であって葛城の北方にある。そんな地に「大和」…既に支配が及んでいた?…は付かない。

それはともかく「玖琉」の文字を用いたのは何らかの思惑あってのことではなかろうか・・・。地形象形ではなく通常に使用される意味で読み解くと…、
 
玖(黒い石[玉])|琉(飛び出る)

…始めはピンと来なかったが、「黒い石=石炭」と気付いた。考えるまでもなくこの地は後に石炭の街となったのである。直方市市役所の近くには石炭記念館がある。「八坂」の「押」(洞海湾岸)にできた巨大な重工業地帯のエネルギーを支えた地であった。露出した石炭がある大地、と伝えているのではなかろうか。

更に調べて行くと近くにある何とも奇妙な形をした池がある。「小野牟田池」これが当時は洗炭水の確保に活用されていたとの情報があった。これで全てが繋がった。「劒池」まるで「七支刀」を示すような形状である。驚きの関連結果である。現在の地名は…、
 
小野牟田池(福岡県直方市頓野・感田)

…である。おそらく輕之堺原宮」はこの池淵の高台から頓野を流れる近津川沿いに広がる平野を見下ろすところにあったであろう。図の近津神社辺りではなかろうか。

<輕之堺原宮・劒池之中岡上陵>
雲取山の西麓が延びた場所の標高、最低でも10m以上はある。当時との地形に大きな差があるとは思われず、稜線が削られてできた自然の造形美とでも言える地形を示している。

後代には農業用に加えて洗炭水、更には製鉄工業用水として利用するために何らかの手が加えられたようであるが、形状に変化を及ぼすものかどうか、定かでない。

カルスト台地など極めて特徴的な地形を古事記が示してきたが、この地もそれに匹敵するほどの特異さである。

御陵在劒池之中岡上の「中岡上」とは上図標高36.4m西尾神社辺りではなかろうか。通説の奈良県橿原市石川町にある石川池では断じてない。

二本の稜線の脇を「劒池」を挟むように流れる川(近津川、尺岳川)がつくる平地は更なる豊かな実りを約束する場所であったろう。孝元天皇の事績は無し、と通説は言うが、この地に目を付け発展の礎を確固たるものした天皇に真に失礼な言草であろう。境岡、境原これらは莫大な財力を天皇家にもたらした、と結論付けられる。見事な戦略と言える。

石炭を火力としての使用記録は15世紀になる。古事記は一切語らないが、そこに「黒い石石炭」があったことは記録として残していたのである。最大の感動物語かもしれない。歌でいいから火を付けて欲しかった、安萬侶くん、「丹」の時のように・・・。

いずれにしても関連するキーワード、軽、堺(境)、劒池、國玖琉等の繋がりから孝元天皇は石炭の地に居たことがわかった。遠賀川周辺領域の地形変化もさることながら歴史的変遷の凄まじさに改めて驚かされた。そこが現在の日本の原点であることも頷けるように感じられる。
 
娶りと御子

1-1. 色許男命・此妹色許賣命

御子に大活躍の説話が記述される大毘古命、次期天皇となる若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)の名前などが見える。「内色許」とは何を意味しているのであろうか?…「色許」は既に何度か目にしている言葉である。大国主命の別名、葦原色許男大神に含まれている。

読み飛ばして来たが、あらためて述べてみよう。「色」=「華美、女性の美しい容貌」「許」=「目立つ(際立つ)状態になる、盛んになる」を選択してみると…、
 
色(華美な)|許(際立つ)
 
<内色許男命・内色許賣命①>
…「華やかで美しいものが一層際立っている」ちょっと長ったらしいが、こんなところであろうか・・・いや、こんな浮部のことを伝えているとは到底思えない。

地形象形の筈である…「色」=「人+巴」と解説される。「巴」=「渦巻く、巴の形、曲がりくねる」蛇の象形文字である。「内」=「内側」、「許」=「元、下、所」とすると…、
 
内(内側が)|色(渦巻く地形)|許(下)|男

…「渦巻く地形の下の男」と紐解ける。「壹比韋」(現地名田川郡赤村内田山の内)に田を作ったと述べているのである。醜女(シコメ)」との関わりなど以ての外である。「内色」=「壹比韋」である。更に「巴」の甲骨文字を図に示したが、それを左右反転した文字形を重ねてみると、山稜の詳細な形にすっぽり嵌ることが解る。

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おそらく文字が示す地形要素を満た場所として申し分ない感じであるが、今一、命等の居場所を的確に示す解釈となっていないことも否めない。古事記、日本書紀また中国史書と読み進めた後に一文字一文字が示す地形象形の読み解きが上記のような曖昧さが削ぎ取られたものとなって来た。それを改めて適用してみよう。
 
<内色許男命・内色許賣命②>
內=入+冂=谷間の入口色=渦巻くような様(上記と同じ)、許=言+午=耕地が杵のように突き当たっている様となる。一時「安萬侶コード」と読んでいたものであるが、「記紀」他に現れた地名・人名から導かれた故にその名称を差し控えることにした。

要するにこの場合は「內」の解釈によって他の文字の示す場所が違って来るようである。また「色」は単に「渦巻く」としては谷間、山稜が区別されないが、やはり色=渦巻いて積み上がる様と解釈するのが適切であろう。

読み下してみると、(壹比韋の)谷間の入口()にある山稜の端が丸く小高くなっているところを()として、その麓の耕地が蛇行する川辺が臼のようになって突き当たっている()ところとなり、の居場所であると紐解ける。前出の葦原色許男などに通じる解釈となったようである。

当初は「壹比韋」との関連で読み解いた解釈であった。それはそれとして重要な意味を持っていたかと思われ、没にせずに残すことにした。「記紀」を通じて「內」の表記が少ないことも修正が遅れた一因と思われる。2022.02.24

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<穂積>
左図に彼の御子達の居場所も併せて示した。
尚「伊賀迦色許男命」は比賣の兄に当たるが、その記述はなく崇神天皇紀の大物主大神の件で登場する。

穗積臣*は神倭伊波禮毘古命の東行時に邇藝速日命と遭遇した時に記述されていた。古事記原文…、

邇藝速日命、娶登美毘古之妹・登美夜毘賣生子、宇摩志麻遲命。此者物部連、穗積臣、婇臣祖也。

だから何も修飾することなくいきなり「穗積臣」とくる。邇藝速日命一族であった。神倭伊波禮毘古命の段で掲載した図を再掲する。

宇摩志麻遲命」が祖となった「穂積臣」を示した。物部連の祖、この地の狭さを思えば、いずれは何処かに移って行く運命にあったことが伺える。

物部、穂積、采女については纏めた資料を参照。先代旧事本紀などを横目で眺めると「内色許賣命」は太后として生き永らえたとのことである。

歴史の表舞台からは消えたのであろうが、その血は末長く天皇家に繋がったのである。彼らがいつ、どこで生き、何を感じたか、その事実を覆い隠すこと、してはならないことである。
 
少名日子建猪心命
 
<少名日子建猪心命>
御子の大毘古命、若倭根子日子大毘毘命は後に登場するとして「少名日子建猪心命」の名前は何を伝えているのであろうか?・・・。

少名日子建猪心命」は…、
 
 少名(田を持たない)|日子(稲)|建(勇猛な)|猪心(突進する気性の)|命

…「稲の田を持たず勇猛な突進する気性の命」のように紐解ける?・・・。

がしかし、果たしてそんな人物評価のような記述をするであろうか?…古事記で読めないところは日本書紀から類似の名前を抜き出す(例えば少彦男心命)…益々混乱の極みに・・・。

少名毘古那神と同様に地形を表していると思われる。
 
少(削ぎ取られたような)|名(山稜の端の三角州)
日([炎]の地形)|子(生え出たところ)
建(作り定める)|猪(山稜が寄集る谷間の台地)|心(真ん中)|命

…「山稜の端の削ぎ取られたような三角州の傍らで山稜が寄集る谷間の真中に台地を作り定め坐す命」と紐解ける。

「少名」は少名毘古那神に類似する。「猪」=「犭+者」と分解される。「犭」=「口の出ている猪」、「者」=「台上に柴を集めて火を焚く」様を表していると解説される。この象形から「山稜が寄集ってできる谷間の台地」と紐解いた。

雄略天皇紀に登場する赤猪子に含まれる。「猪子」=「山稜が寄集ってできる谷間の台地の登り口」を表しているとした。紐解ければ、母親の内色許賣命の近隣、その地の詳細を伝えていることが解る。邇藝速日命の子孫、穂積臣の流れを汲む地に生まれた御子である。

赤村内田山ノ内と壱岐市仲触の地形、共に狭く短い谷間が特徴のところであろう。辛うじて形成されている山麓の三角州の地形を活用して稲を育てていたと推察される。

<大毘古命>
眞名」のような三つ組の三角州ではないところ、それを「少名」と表現したと解釈される。

 
大毘古命

「大毘古命」とは…上記とは全く正反対に…何とも簡単な命名であるが、それだけに確信の持てる場所を求めることが困難な状況に陥る。

そこで「大=大きな」ではなく、前記で紐解いた「大」=「大坂山」とすると、その南麓の山の中に居場所が見出せる。

後に大活躍をされる命であるが、出自の情報は無い。呆気ない命名であり、検証する記述も見当たらない。「毘古」、「比古」として男子を表す表記ではなかろう。

「毘」=「囟+比」と分解される。「囟」は所謂「泉門」を象った文字であり、頭蓋骨にある窪んで隙間がある形を表している。それを地形表記に用いたと思われる。すると「毘古」は…、
 
窪んだ地が並んだ傍の丸く小高いところ

…と紐解ける。図に示した場所が大毘古命の出自の場所と推定される。とは言え、現在からでは予想できないくらいに山麓深くに入ったところである。現地名は、田川郡香春町柿下と赤村内田の境に位置する。「毘古」以外で「毘」は、後の若倭根子日子大毘毘命(開化天皇)など、それなりの頻度で用いられている。多様な意味を表す文字の一つであろう。

また大毘古命の御子に「比古伊那許士別命」が居たと告げられている。娶り関係は不詳のようである。ここに記されている「建沼河別命」後に現れる御眞津比賣命」と母親不詳の御子が居て、かつ皇統に絡んで来る。事績もさることながら、確かに大物風の命であったと推測される。

1-1-1. 大毘古命の子:建沼河別命・比古伊那許士別命

大毘古命の御子は「建沼河別命者、阿倍臣等之祖。次比古伊那許士別命。此者膳臣之祖也」と記される。
 
建沼河別命

「阿倍」は古事記に三度出現するのであるが、唐突な上に祖となる記述であって関連する情報に欠けているが、継体天皇紀になって漸く紐解きの手掛かりらしきものが登場する。
 
阿(台地)|倍([咅]の地形)

<阿倍臣>
…「[咅]の地形」とは、
[咅]=「花の子房」を象った文字で、つぼみのようにふっくらしている様を示すと解説される。地形を表す文字とすれば、「倍」=「二つに岐れる様」と解釈されるであろう。

関連するところは天照大御神と速須佐之男命の宇氣比で誕生した之菩卑能命に含まれる「菩」と類似する解釈である。図に示したように花弁に包まれたつぼみのような小高いところが見出せる。

現在は、その大半が一大霊園となって当時の面影を伺い辛いが、何とか地形そのものは知り得る状態である。詳細はこの地に坐していた阿倍之波延比賣及びその御子が登場するところで述べる。

父親の大毘古命と運命的な出会いを果たしたという説話が記述されるが、その地に深く関連しているのである。他の説話の紐解き結果も併せて図示したものである。出雲から相津(現門司区今津)へ抜ける山越えの道筋にある場所を示していると思われる。建沼河別命は東方十二道の道奥石代国を経て出雲の入口であるこの地を開拓したと伝えている。

より正確には出雲の北部に関連する地である。後に登場する建内宿禰の御子、波多八代宿禰も出雲の北部に留まっと解釈される。天皇家と出雲南部は未来永劫に融和することはないのであろうか・・・がしかし、着実にその周辺から抑えに行っていたことを伺わせる記述である。

そもそも「沼河」の所以は大国主命の段で登場した高志國之沼河比賣の場所を示していると思われる。だから唐突に、何の修飾もなく記されている。上図に示したように祖となった地の近くであり、出雲の東方の「沼河の地を作り定めた命」であったと伝えている。
 
比古伊那許士別命
 
<比古伊那許士別命>
もう一人の御子「比古伊那許士別命」は上記の
建沼河別命とは異なり地元に密着した生業であったろう。その居場所を突き止めてみよう。ほぼ既出の文字列と思われる。

上記と同じく「許」=「言+午」=「耕地が杵のように突きあたっている様」と解釈すると…比古「伊那許士別」命は…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|那(平らに広がった)|許(耕地が突き当たる)|士(突き出た)|別(辺)

…「谷間で区切られた山稜が平らに広がった地に耕地が突き当たっている傍らで山稜が突き出たところ」に田畑を並べ定めた命と紐解ける。

春日の地では、珍しくゆったりとしたところを指し示していると思われる。それにしてもこの地の谷間は狭く、邇藝速日命の子孫、穂積一族が切り開きつつあった地に神武一家が侵出したのであろう。

それはさて置き、その場所は図に示したところ、現在の川の蛇行からの推定ではあるが、土地の傾斜、谷間の広さからも十分に推定できるものではなかろうか。
 
<膳臣>
膳臣之祖となったと記される。世界大百科事典によると・・・、


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かしわでうじ【膳氏】:古代の豪族。《日本書紀》では孝元天皇の皇子大彦命を祖とし,《古事記》では大彦命の子比古伊那許士別命(ひこいなこしわけのみこと)を祖としている。

《高橋氏文》によれば,磐鹿六鴈命(いわかむつかりのみこと)(大彦命の孫)は,景行天皇の東国巡幸に供奉,上総国において堅魚や白蛤の料理を天皇に献上し,その功により以後永く天皇の供御に奉仕することを命ぜられ,また膳臣の姓を賜ったという。《日本書紀》にも類似の記事がある。

――――✯――――✯――――✯――――

・・・とのことである。

がしかし、地形象形している筈である。「膳」=「月+善」と分解される。更に「善」=「羊+訁訁」である。地形を表す文字にまで分解されることが解る。即ち「膳」は…、
 
耕地にされた谷間が山稜の端にある三角州に広がっているところ

…の地形を表していると紐解ける。「月」=「山麓の三角州」、「羊」=「谷間が広がるところ」、「言」=「大地を切り開いて耕地にする」の安萬侶コードである。

上図に示した通り、比古伊那許士別命が居た場所を示し、「膳」は地形に基づく命名であると思われる。谷の奥深くまで開拓したのであろう。現在は田川地区の水道設備が立ち並び大きく変化しているが、地形としては十分に読み取れるようである。

文字の構成が月讀命に類似する。複数の枝稜線の間に流れる谷川が合流し州を作るところが稲穂の稔る地となっていた、水田稲作の原風景であろう。

1-2. 色許男命之女・伊賀迦色許賣命
 
邇藝速日命の御子、宇摩志麻遲命が祖となった穂積臣、その臣の祖となる內色許男命の妹に続いて、その比賣をも娶ったと記される。
 
<伊賀迦色許賣命・比古布都押之信命>
「内」が「伊賀迦」に変わるが、おそらくは近隣であることには変わりはないように思われる。

「伊賀迦」は何と紐解けるであろうか?…「迦」は既に頻出して「会わせる、出会う」の意味であろう。「宇迦」=「山麓が出会す」ところと紐解いた。

「賀」は速須佐之男命が坐した須賀宮にふくまれ、「力+貝+囗」が構成要素となっている。すると「貝に力を加えてこじ開ける様」と読むことができる。

即ち「賀」=「挟まれた(囲まれた)地が押し拡げられた様」を表すと紐解ける。

とすれば「伊賀迦色許」は…上記の「色許」として…、
 
伊(谷間で区切られた山稜)|賀(押し拡げられた谷間)|迦(出会う)|(色許)

…「谷間で区切られた山稜が押し拡げた谷間と渦巻く地とを出会うところ」の賣命と解釈される。ここは当初の解釈「色許賣」=「華美が際立つ女」の方が似合っているような気もするが…多分両意に取れるように…であろう。
 
<伊賀迦色許賣命>
図に詳細な地形を示した。「伊」は後に開化天皇が坐すことになる「伊邪河宮」に含まれている。その山稜で押し広げられたように見える「賀」の谷間が「色許」から延び出る場所にあることを表現していると思われる。

地形観察のきめ細かさを見事に表現した命名のように感じられる。細かな山稜が詰まっている地で一に特定する上に於いて、「伊」による地形象形が巧みに用いられていると思われる。

地形的には「壹比韋」の外側に隣接し、水田が広がる谷間が出くわすところと推定される。內色許男命の居場所、現在の田川郡赤村内田山の内の近隣で探すと、現在の状態ではあるが「伊邪河」に沿った水田が見出だせる。上図を参照願う。現地名は田川郡赤村内田中村であろう。

比古布都押之信命」が誕生し、その系譜に「建內宿禰」が出現するのである。一大勢力を誇った重臣となる。さて、この命が坐した場所は何と紐解けるであろうか?…「比古」=「並べ定める」、「布都」=「湧水」、「押」=「田を作る」のように既出の解釈であろう。

「信」=「亻+言」に分解する。すると上記「膳」に含まれていた「言」=「大地を切り取って耕地にする」と解釈できる。「比古布都押之信命」は…「比古(田畑を並べ定める)」として…、
 
布都(湧水)|押(田を作る)|之|信(耕地にする人)
 
…「田畑を並べ定めて湧水を使って田を作り耕地にする人」の命と解釈される。この命は川からの利水で田を作るのではなく湧水を巧みに利用し、新たに耕地とし、更に水田を作ったと告げている。

簡単にはできない湧水利用の方法を編み出したのかもしれない。これで水田面積が増えたのだから特筆すべき人物だったのであろう。「建内宿禰」(下図<宇豆比古・山下影日賣・建内宿禰>参照)に繋がる命への賛辞も含まれているかもしれない。

では、何処に居たのか?…山腹に近いところまで水田にしたのであろう。川の源流にまで遡る水田作りと言えるかもしれない(上図<伊賀迦色許賣命・比古布都押之信命>参照)。建御雷之男神の別名「建布都神・豊布都神」の再現である・・・なかなかの紐解き応えのある件であった。

1-2-1. 比古布都押之信命

 
娶った比賣について紐解いてみよう。「尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣」と「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」である。
 
❶尾張連等之祖意富那毘之妹・葛城之高千那毘賣

意富那毘、葛城之高千那毘賣の「那毘」は何と解く?…「那毘」=「奇麗な臍」針間之伊那毘山の稜線の裾が一旦凹んで再び小高くなる地形を象った表記と解釈した。
 
<尾張連之祖:意富那毘>
「意富」=「山麓の境の坂がある閉じ込められたようなところ」と紐解いた。意富(大)斗意富美の例がある。勿論固有地名ではなく、類似の地形を表す。

尾張の地で「那毘」の地形を求めた結果を図に示した。現地名は北九州市小倉南区横代辺りである。貫山山系の剣立山と三笠山の間にある狭い谷間を「毘(臍)」と見做したと思われる。

「富」(境の坂)を越えると奥津余曾の(現地名同区堀越)地に入る。この「毘」は間違いなく「境」を表しているのである。

尾張の意富那毘の妹が葛城に居た。兄が移ったのか、それとも妹か、後者の可能性が高いように思われるが定かではない。貫山山系から福智山山系を越えて、その西麓への移動は当時としてはかなりの労を要したのではなかろうか。

「毘(臍)」が特徴である二つの地の間に何らかの繋がりがあったのかもしれない。彼らのもう一世代前の者達が「毘」の開拓に長けていたように推測される。古事記が語る類似地形間の交流の一つかと思われる。さて、それが引き継がれて行ったのか、今は知る由もないのだが・・・。
 
<葛城之高千那毘賣・味師内宿禰>
意富那毘の素性などは明かされないままであり、古事記に登場するのはこれのみで追跡は叶わないようである。

妹の葛城之高千那毘賣の「高千」は、竺紫日向之高千穂に含まれている。既に紐解いたように「皺の筋目のような山稜を横切る谷間あるところ」と解釈した。鷹取山の山塊がその通りの地形を示していることが判る。

御子の「味師內宿禰」は山代內臣之祖となったと記される。これ以外の記述はなく、下記の建内宿禰とは全く対照的である。

名前の解釈は…「味」=「口+未」とし、更に「未」=「木(山稜)+一」とする。味御路と同様に解釈できるであろう。

「味」=「山稜を横切る路の入口」と紐解いた。「味師」は…、
 
味(山稜を横切る路の入口)|師(凹凸のある地)

…「山稜を横切る路の入口の凹凸のある地」に坐していたと解釈される。「毘」を通る道、母親の近隣であろう。
 
(内)宿禰
 
<味師內宿禰>
ここで初めて「(内)宿禰」の表記が登場する。Wikipediaによると…、

宿禰(スクネ、足尼、足禰、少名、宿儺)は、古代日本における称号の一つ。

大和朝廷初期(3世紀~5世紀ごろ)では武人や行政官を表す称号としてもちいられていた。

主に物部氏や蘇我氏の先祖に宿禰の称号が与えられた。8世紀には八色の姓で制定された、姓(カバネ)の一つとなった。

真人(まひと)、朝臣(あそん)についで3番目に位置する。大伴氏、佐伯氏など主に連(むらじ)姓を持った神別氏族に与えられた。

…当然のことながら古事記には「八色の姓」など存在しない。称号と解釈するも良しなのだが、やはり地形象形の表記であろう。
 
「宿」=「宀+𠈇」と分解できる。頻出の「宀」=「山麓」である。

「𠈇」=「人が筵の敷物で縮こまって寝る様」を象った文字と解説され、地形象形的には「こじんまりと横たわる」とする。

禰」=「示(高台)+爾(近い)」と読み解けるであろう。「宿禰」は…、
 
山麓近くにあるこじんまりとした高台

…と紐解ける。これが「宿禰」の”正体”である。図に示した「味」の場所に小高いところが並んでいるのが見出せる。そしてより山麓に近い方を「内」と表現したのであろう。これが「内」の”正体”である。

「味師內宿禰」は「山代内臣之祖」と記される。そのまま文字を解釈すれば山代(御所ヶ岳山系の南麓、現京都郡みやこ町犀川大村辺り)の山稜の「内」にある谷間を示していると思われる。北方に開く谷間である。がしかし、以後古事記の表舞台に登場することはないようである。

もう一人の「内宿禰」が誕生する。

❷木國造之祖宇豆比古・山下影日賣

次の相手が「木國造之祖宇豆比古之妹・山下影日賣」で、御子に「建内宿禰」が登場する。「木国」の詳細は未詳なのであるが、これを読み解いてみよう。


<宇豆比古・山下影日賣・建内宿禰>
「宇豆比古」は何処に居たのであろうか?…、
 
宇(山麓)|豆(高台)

…「山麓にある高台で田畑を並べ定める」と解釈される。居場所は現在の上毛中学校辺りではなかろうか。

現在の築上郡上毛町の穴ケ葉山古墳群近辺に「宇野」の地名がある。

「宇」という地域名を持っていたのだろう。「宇豆」は凹凸の地、現地名同町下唐原であろう。

「山下影日賣」は何と紐解くか?…「影」は姿・形を映したものであろうが、一体何の姿・形なのであろうか?…山裾となる元の「山」の山容かもしれない。

「日」は例のごとく「日(炎)」の地形を示すと思われる。山稜の端が[炎]の地形を持ち、かつ山頂の形がそれに相似していることに着目すると・・・現在名「瓦岳」がその要件を満たすことが見出せる。図に示した通り、山頂と裾野の形が[炎]で繋がっていることが解る。


<山下影日賣・建内宿禰>
「山下影日賣」は…、
 
山下(山裾)|影(山頂の影)|日([炎]の形)賣([貝]の形)

…「山裾が山頂の形を映したような形のところで[炎]の山稜が[貝]のように隙間ができたところ」と紐解ける。

山裾の地名は、築上郡上毛町東下に当たる。「日賣」を「日(炎)」=「[炎]の地形」、「賣」=「[貝]のように隙間があるところ」と解釈すると[炎]の山稜の分岐した端が作る谷間を表しているのではなかろうか。

「建内宿禰」の「宿禰」の解釈は上記の通りで[炎]の先に突出た小高いところが見出せる。「内」は二つある内の山側にある方を示していると思われる。「建」=「廴+聿」=「[筆]の形が延びた様」を表している。

そして天皇家初期における傑物「建内宿禰」が誕生する。臣下としての最高位に就き何代もの天皇に仕えることになる。また子孫は倭国の隅々にまで広がり国の発展に寄与したと告げている。生誕の地の築上郡上毛町東下には下村という旧地名が地図に記載されている。「下」は一字残しの地名かも?…である。

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余談だが・・・、。

「豆」と「木」「阿岐豆野」「小豆嶋」など「豆」の形は種々あれど、多遲麻の「伊豆」、木国の「宇豆」等、豆で表現される地形の多さが目立つ。「五百木」「師木」との差は「豆」の大きさ、高さによるのだろうか、地形象形の判定基準など求めてみても面白いかも、である。

大毘古命:神懸かりな建御雷之男神とは異なり、最強の武将を伺わせる「大毘古命」、高志道回りの彼と東方十二道回りの息子、建沼河別命が相津遭遇、感動の説話が後に登場する。現在の北九州市門司区今津にある二つの小山を英雄親子に見立てた記述はなかなかのもの、ドラマ中の名場面の一つに数えられるものであろう。もう少し先の天皇の時代である。

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<穂積臣>
穗積臣*

「穗積」は何を意味しているのか、後の記述も含めて紐解いた結果を示そう。


穗(山稜の端)|積(大きく広がる)

「山稜の先端が大きく広がる」と読み解いた。

この地の特徴である、大坂山山塊から延びる無数の山稜の先端が広がる様を模したものと思われる。またその地形を巧みに活用した一族であったのだろう。現在の地図からは三つの塊となっているようである。

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1-3. 河內青玉之女・波邇夜須毘賣

<波邇夜須毘賣・建波邇夜須毘古命>
後日、建波邇夜須毘古命は若倭根子日子大毘毘命に反旗を掲げる役目になる。山代国に居た。

その戦闘の詳細は後に記述するとして、「波邇夜須」の意味は…、
 
()|(近い)|(谷)|須(州)

…「山稜の端が近い谷にある州」と紐解ける。「毘賣」は「ビメ=ヒメ」で良いであろうが「田を並べて生み出す」の意味を含んでいると解釈する。

地図に示したように山代国の端に近く谷があるところは、現在の京都郡みやこ町犀川花熊辺りと推定される

「花熊」=「花()・熊()」・・・現地名を紐解いてどうする?…。「河内青玉」は「青(まだ完全ではない)|玉(玉の形)」とすると、現在の行橋市長木の小高いところかと思われるが、特定するのには情報が些か少ないようである。

2. 建内宿禰

さて、「建內宿禰之子」の記述に移ろう…古事記原文(再掲)…、

此建內宿禰之子、幷九。男七、女二。波多八代宿禰者、波多臣、林臣、波美臣、星川臣、淡海臣、長谷部君之祖也。次許勢小柄宿禰者、許勢臣、雀部臣、輕部臣之祖也。次蘇賀石河宿禰者、蘇我臣、川邊臣、田中臣、高向臣、小治田臣、櫻井臣、岸田臣等之祖也。次平群都久宿禰者、平群臣、佐和良臣、馬御樴連等祖也。次木角宿禰者、木臣、都奴臣、坂本臣之祖。次久米能摩伊刀比賣、次怒能伊呂比賣、次葛城長江曾都毘古者、玉手臣、的臣、生江臣、阿藝那臣等之祖也。又若子宿禰、江野財臣之祖。

ずらりと並ぶ祖の名前、圧倒されるが読み解くと圧巻の内容であろう・・・今回もきっと期待を裏切らないものと信じて取り掛かる。各宿毎に初めに求めた現地名を記す。本件、日本書紀は無口である。

波多八代宿禰

「波多」=「波(端)+多(出雲・連なる[月]の形)」とすれば、その場所は「出雲国の端」と解釈される。この記述だけではとても一に特定は不可だが、続く祖の地名などから風師山北西麓の淡海に面するところと解る。それを前提に「八代宿禰」を読み解くことになる。「八」=「二つに岐れている様」、「代」=「人+弋」=「谷間に杙のような山稜が延びている様」と解釈する。「八代」は…、
 
谷間に延びた杙のような山稜の前が二つに岐れているところ

<波多八代宿禰>
…と解釈される。図の「波多」は極めて急傾斜の地であり、多くの谷川が流れている。


いや、どこもかしこも「八代」であってその内の何処であるか?…「宿禰」父親と同じ地形象形として読むと、地図に記載した場所が浮かび上がって来る。

山麓の小高いところして際立っているところであり、現在の風師神社が鎮座されている。その小高いところの麓が宿禰が坐していた場所と推定される。

かつては伊邪那岐がシニアライフを過ごした淡海之多賀であり、羽山戸神の御子、彌豆麻岐神が坐した場所としたところである。大年神一族の地にじわりじわりと侵出して行ったと告げているのである。

祖となった場所を求めてみよう。

波多臣:風師 林臣:矢筈町・北川町 波美臣:大里東
星川臣:永黒 淡海臣:二タ松町・片上町 長谷部君:奥田

これら全て北九州市門司区に属する地名である。「波多」は上記の通り。「林」は…、
 
木木=山稜が並ぶ

…風師山・矢筈山を示している。その西麓の門司区矢筈町・北川町辺りと思われる。「波美」は…、
 
()|(谷間が広がる)
 
<波多八代宿禰>
…「谷間が広がるところの端」と解釈される。幾度も登場の「美」=「羊+大」で羊の甲骨文字から導かれた解釈である。肥河(大川)の河口付近にある谷間を示していると思われる。
 
「星川」の「星」=「晶(日)+生」と分解される。「日(炎)」と同じく山稜が細かく分かれている様を模したと思われる。

矢筈山の西南麓、この山は全体として「炎」の山容である(日名照額田毘道男伊許知邇神参照)。現在の門司区永黒辺りと思われる。

「長谷部」は既に解いた淡島神社に向かう「長い谷」と解釈される。門司区奥田と思われる。

纏めて図に示した。風師山、矢筈山の麓をぐるりと取り囲んだような地名が並んでいるのである。

実にきめ細かな記述、人口密度が高かった、かも?…出雲の北部、建内宿禰一族が入り込んだのである。

上記したように、この地は八嶋士奴美(→大国主命)の子孫と大年神の子孫(羽山戸神など)の葛藤があった地域である。

両系が近接もしくは混在するところであった。その地を纏めて統治したと述べている。即ち出雲国の北部全体(南部については触れられず)を支配する端緒を作ったと伝えているのであろう。極めて重要な記述と思われる。

「臣」(小ぶりな谷間)と「君」(歪のない整えられたところ)の推定した場所を図に示した。「宿禰」(山麓近くの高台)に対して一段下がったところにある場所と思われる。
 
許勢小柄宿禰

<許勢小柄宿禰>
「許勢小柄宿禰」はこの段にしか登場しない。「許勢」は何と紐解くか?・・・。

「許」は上記の内色許男命に含まれる「許」と同様であろう。「許(モト)」=「下、元」として「山の下(麓)」とする。

「勢」=「二つの山陵に挟まれた丸く小高いところ」と紐解いた。神倭伊波禮毘古命が娶った比賣の母親勢夜陀多良比賣などで登場した文字である。

難解なのが「小柄」であろう。困った時には、文字合わせ、勿論地形(山稜)である。

期待通りに安萬侶くん達は埋め込んであったようである。「柄」=「木(山稜)+丙」である。尺岳、金剛山(佐佐紀山)及び雲取山が作る山陵に見事に当て嵌ることが判る。

ドンピシャリ過ぎて日本書紀はこの宿禰をスルーした、のであろう。追い打ちをかけるように「小」の地形を示す台地となった山稜の端が、これもピッタリ収まるのである。

遠賀川及び彦山川が合流する、その最下流域に属する。重要な地点であり、「佐佐紀山」は幾度となく登場するランドマークである。「許勢小柄」は…、
 
[丙]字形の山稜の麓が丸く小高くなって
[小]字形に延びた山稜があるところ

…と紐解ける。「小柄」…決して小柄な人ではないような・・・。「宿禰」は現在の秋葉神社がある秋葉山であろう。一番外にあるから「内」は付かない。その西側の麓に坐していたと思われる。祖となった臣名が列記される。
 
許勢臣:上頓野 雀部臣:笹田 輕部臣:感田・頓野

全て直方市の地名である。
 
<許勢小柄宿禰(祖)>
「輕」の地の近傍、実に大きな「斗=柄杓」金剛山と雲取山の山稜がつくる特徴的な地形である。


その大きな柄杓に対して小さな柄となっている山稜が延びた丘陵を「許勢」と名付けたのであろう。

現在地名は直方市上頓野であり、直方市頓野と合せるとこの辺一帯を大きく占める住所表示となっている。許勢臣の中心であったと思われる。

図からは少々分かり辛いが(画像クリックで拡大)、この一帯に池が集中していることが伺える。

現在からの推定にはなるが、池を作り、その周辺に耕地を集約して開墾して行ったのではなかろうか。

また特徴的なのが川の激しい蛇行である。稜線の丘の上に寄せ集めて耕地を作らざるを得なかったことの一つの要因であったと推察される。

「雀部」は「笹田」であろう。「軽部」は現在の行政区分「感田」であろうか。既にここは「淡海」であったが既に支配下にあったことも示されている。「劒池」の西岸に当たる。「臣」(小ぶりな谷間)の推定場所を図に示した。
 
蘇賀石河宿禰

歴史に名を刻む「蘇我氏」発祥の記述である。心して紐解こう。祖に「蘇我」と記述しながら「蘇賀」と書く。意味があると思われる。「賀=入江」に面したところである。「小治田」が示す地は後の説話で紐解ける。京都郡苅田町は、神倭伊波禮毘古命が熊野村から八咫烏に道案内されて出てきたところである。

蘇我臣:稲光 川邊臣:稲光/鋤崎 田中臣:稲光
高向臣:法正寺 小治田臣:葛川 櫻井臣:山口 岸田臣:片島

現地名は「稲光」が広範囲に跨っているようである。「石河」は何を意味するであろうか?…苅田町に「白川」という「水晶山」から流れる川がある。支流を集めて小波瀬川と合流し周防灘に注ぐ。この「白川」の名前の由来は定かではないが、有名な鴨川支流の一級河川白川の由来に「川が白砂(石英砂)で敷き詰められた状態」と言うのが知られている。
 
<蘇賀・蘇我>
石河=白川

…である。「水晶山」の名前の通り石英砂を含む小石が「石河」に流れ込み、後に「白川」と呼ばれるようになったと推測される。

名前に付けるほど美しい川が流れていた、今もそれは変わりがないであろう。

神倭伊波禮毘古命が八田の住人(八咫烏)に案内されて通過した地はその後建内宿禰一族が開拓したのである。

神倭伊波禮毘古命の段で神八井耳命が祖となった場所、阿蘇に含まれる「蘇」の文字を解釈した。

「蘇」=「様々な(異なる)山稜が寄り集まる様」として出雲国と熊曾国の狭間にある「阿多」の地と紐解いた。

この「蘇賀」の地も高城山、水晶山及び平尾台の端、桶ヶ辻からの山陵が向き合っているところと解る。高城山、平尾台は石灰岩、水晶山は花崗岩の山陵である。「賀」は速須佐之男命が坐した須賀宮に含まれ、「挟まれた(囲まれた)地が押し拡げられた様」を表すと紐解いた。

「蘇賀」は…、
 
様々な山陵が寄り集まって谷間を押し拡げたようなところ

…と解釈される。
 
<蘇賀>
阿蘇でも述べたように、更に地形象形表記としての「蘇」の文字を解釈することもできそうである。「蘇」=「艸+魚+禾」に分解される。各文字要素は地形を表す文字と解釈する。

「魚」=「山稜が魚の形をしている様」、「禾」=「山稜が稲穂のようにしなやかに曲がって延びている様」である。「賀」=「加+貝」=「谷間が押し拡げられている様」と解釈すると、「蘇賀」は…、
 
魚の形をした山稜と
延びる稲穂のような山稜が並んで
谷間を押し拡げているところ

…と紐解ける。この希少な地形の、実に端的な地形象形表記であることが解る。そして、古代史上類まれな一族として記録されている蘇賀(蘇我)氏の本貫の地は、間違いなく京都郡苅田町であり、白川の流れる谷間であったと確信されるのである。

<蘇我臣>
阿多=阿蘇」と置換えられることを既に示した。ならば「多賀」=「蘇賀」となる。現在「白山多賀神社」と名付けられている。白山→石河及び語順を入れ替えれば、そのものの表現となる。紐解いてみて深い関連性に驚きを隠せない有様である。

確信をもって「蘇賀石河宿禰」はこの地に居たと思われる。「宿禰」が示すところは、蘇賀西側の山麓にある小高いところと推定した。上図<蘇賀・蘇我>を参照。

蘇我臣の「我」=「刃先がギザギザした矛」の象形が原義とされる。見事な矛の地形が蘇賀の中心に見出だせる。辞書に拠ると「音を借り、『われ』の意味に使用した。仮借文字の典型」とある。

古事記中にかなりの数の「我」が登場するが、仮借が殆どである。見逃してはならない使用法であろう・・・これがよく知られた「蘇我氏」の由来と思われる。「蘇我」は…、
 
異なる山陵が集まるところの刃先がギザギザした矛の形の地
 
<小治田臣・岸田臣>
…と読み解けた。


「小治田」は「小さな治水のされた田」と読めるが、それでは到るところにあって、場所を特定する表記としては、不都合となろう。

伊邪那岐の禊祓の地、橘小門と同様に「小」は地形象形しているのではなかろうか・・・当然「治」も同様であろう。

「小」=「三角の形」、楯に延びた三角の地形を表してると解釈される。「治」=「氵+台」と分解される。「台」=「耜」を簡略に表記した文字である。すると「治」=「水辺にある耜のような形」を表すと解釈される。

纏めると小治田は…、
 
三角に尖った耜のような山稜が水辺で延びている傍らの田

…と紐解ける。図に示しように現在は西工大グランドとなっている山稜が「治」であり、その東麓に広がる田を示していると思われる。当時はこの山稜の南側は大きな入江となっていたと推測される。後に登場する墨江と表現される場所である。

「岸田」は「岸」=「山+厂+干」と分解される。「山+厂」=「山麓の崖」であり、「干」の甲骨文字は「先が二股に分かれた武器」と解説される。

これもその文字の形通りに伸びた山稜の端が二股に分かれた地形を示す場所が見出だせる。標高は8-10mであり、縄文海進を考慮しても何とか水田にできたところであろう。まさに文字通りの岸にある田であったと推測される。
 
<櫻井臣>
「川邉」の「邊」=「広がった、延びた端」と解説される。胸形三柱神の「田寸津比賣命者、坐胸形之邊津宮」の記述に含まれる「邊」に類似する。川(石河:現白川)が海に注ぐところを示すと思われる。

「田中」は谷間の真ん中辺りの最も田の豊かなところであろう(下図<蘇賀石河宿禰>参照)。

少々ややこしいのが「櫻井」?…幾度か登場する地名なのであるが、しかも例によって唐突に・・・。

「櫻」の文字、そのものでは如何ともし難く・・・「櫻」=「木+貝+貝+女」と徹底的に分解してみる。

「貝」=「(田が並ぶ)谷間」の象形と解釈する。「木貝貝」は…「山稜が作る二つの谷間が寄り集まったところ」と紐解ける。それに「井」が加わると…、
 
櫻(山稜が作る二つの谷間が寄り集まる)|井(四角く区切られている)

…「山稜が作る二つの谷間が寄り集まった地にある四角く区切られところと解読される。「貝貝」の下に「女」が付加される。「女」=「女性の身体」を模していると解釈できる。特徴的な二つの谷間が寄集っている地形を表す表記と思われる。山稜が作る字形の地形を表していると思われる。古事記らしいと言ってしまえばそれまでだが・・・。
 
<高向臣>
何とも都合の良い漢字を引っ張り出したものである。尚、「臣」(小ぶりな谷間、山麓の凹(窪)んだところ)の推定場所も併せて示した。他の「臣」も同様である。

「高向」=「皺のような稜線が北に走っているところ」と読み解ける。実に急斜面の山麓となっている。蘇賀石河宿禰の少し南側に当たる。

上記したように歴史に名を刻んだ「蘇我一族」であろう。詳細はWikipedia蘇我氏を参照。

その出自については様々な解釈がなされ、混沌としている。後に登場する宗賀稲目宿禰以降のところで述べることにする。

「近淡海國」の傍にある極めて重要な地点に蘇我氏が居た。これを事実として今後の解釈に向かおう。古事記は、登場する人名以外には多くを語ることなく幕を閉じることになる。素直な古事記も、あからさまにできない訳があったのであろうか・・・。
 
<蘇賀石河宿禰>
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蘇賀の「蘇」の文字解釈についての捕捉。「蘇」=「艹+魚+禾」であり、草と魚と稲穂という全く異なる要素から成り立つ文字である。

これらの「異なるものを分けて整理すること」(原義)を意味すると解説されている。そこから混在・混然となっていた状態から「よみがえる」と言う意味に繋がって来ると思われる。

ただ古事記が「よみがえる」の意味をそのまま使っているとは思われず、原義に立ち戻っていると考えられる。

「蘇」は「古代の乳製品」を示すとも言われる。既に登場の「蘇邇」である。蘇邇杼理で紐解いたことに関連する。

これも牛などの乳から水を飛ばして出来上がるものであり、水と乳脂の異なるものが混じっているものを分けて出来上がることを示している。

上記で「阿多」=「阿蘇」と述べた。何故、多(山麓の三角州が並ぶ)の台地を「蘇」な台地と言えるのか?・・・単に並ぶのではなく、寄集っている状態を示したのであろう。この台地は筑紫嶋(現在の企救半島)の稜線の端が集まるところであり、そして筑紫嶋の肥国と熊曾国との端境にあることを示している。これが「異なるものが混じっている」ことを表していると解釈される。
 
――――✯――――✯――――✯――――

平群都久宿禰

「平群」は通説に従い…地形象形として…現在の田川市、田川郡に横たわる丘陵地帯である。さてその中に求める地名があるのか、勿論そのまま残っているとは思えないが…。「都久」=「衝く(田)」で丘陵地帯の開拓に努めた宿禰かもしれない。一文字一文字を読み解いてみよう。「宿禰」を簡略に表現して…、
 
都(集まる)|久([く]の形)|宿禰(山麓の小高いところ)

…「[く]の地形が集まる山麓の小高いところ」と紐解ける。[く]の地形とはしなやかに曲がる川を表しているのであろう。下図に示した通り、山稜の端にくっ付くように、いくつも川が寄り集まり中元寺川に注ぐところが見出せる。その南麓辺りが平群都久宿禰の居場所であったと推定される。

さて、祖となった地名が挙げられている。総て現在の田川市に属する。
 
平群臣:伊田 佐和良臣:奈良 馬御樴連:伊加利

「平群」は、通説などを参考して考察すれば上記のようなところに落ち着きそうであるが、あらためて紐解いてみよう。

「群」=「君+羊」だが、更に「君」=「尹+囗(大地)」と分解され、「尹」=「統治する、整える」の意味を持つとされる。「平」=「平らに」、頻出の「羊」=「谷間」、「都」=「集める」、「久」=「山」とすると…「平群」は…、
 
山が集まったところで谷間の地を平らに整える

…と紐解ける。文字の印象から読み取れる結果と大きくは異ならないようであるが、やはり一文字一文字の紐解きは、極めて具体的である。丘陵地帯は決して平らではなく、それなりの凹凸のある形状である。それを「平群」で表記したと読み解ける。

各々祖となった地を読み解いてみよう。「平群臣」は中心となる地と思われる。「佐和良臣」の文字列を紐解くと、「佐」=「人+左」=「谷間にある山稜が左手のように延びている様」として…、
 
佐(谷間にある左手のような山稜)|和(しなやかに曲がる)|良(なだらか)

…「谷間にある左手のような山稜がしなやかに曲がってなだらかなところ」と読み解ける。
 
<平群都久宿禰>
現在の田川市奈良を、中元寺川に向かって流れる蓑田川沿いの地と思われる。「和良」の地形であることが判る。

「奈良」、「那羅」という表記は古事記に出現しない。地形象形には不向きな文字列のようである。

言い換えると、だから地名として現在も使用されるようになったのかも?…である。

「奈良」の地名を見つけて、奈良大和との関係を云々する向きもあるようだが、それを古事記記述と絡めての考察は無意味である。

また少し東方には「京都」の文字もある。上記したように古事記には「奈良」、「京都」の文字を見出すことはできない。

「馬御樴」「樴」=「杭」である。文字の意味するところは「牧場」牧畜の行われていたところではなかろうか・・・などと初見では読んだが、これもしっかり文字の紐解きであろう。「馬」=「踏み台の地形」とすると…、
 
馬(踏み台の地形)|御(束ねる)|樴(杭:山稜)

…「踏み台の地形が束ねられた山稜」と解読される。現地名田川市伊加利は広大な工業団地になっているようだが、当時もそれなりに平坦な地形を有していたのであろう。ちょうど山稜が分岐する(台地が寄り集まる)ところが見受けられる。それを「樴」と表記したと解釈される。

「臣」及び「連」の推定場所を図に示した。久々の「連」が登場するが、台地を束ねるなら「臣」(谷間)はあり得ない。地形象形から名付けられた「臣」、「連」などが後に「姓」として用いられたのであろう。どうやら古代の「姓」の由来に辿り着いたようである。

建内宿禰の次女「怒能伊呂比賣」が坐した場所に接するところでもある。唐突に「怒」が登場したように錯覚しがちだが、ちゃんと建内宿禰一族が広がって行くところに居た比賣と解る。それにしても現在の「伊加利」の地名は広大である。

「平群」地の地形象形は「師木」と同様に判り辛いところではあるが、垂仁天皇の師木玉垣宮の在処と同じく現在の地形から求めることができた。古事記記述の精緻さにあらためて感動する思いである。
 
木角宿禰

木臣:豊前市大村 都奴臣:豊前市中村 坂本臣:築上郡築上町山本

<木角宿禰・都奴臣>
「木」が示す場所は上記「木國造之祖宇豆比古」の在所及びその近隣であろうか?・・・。

すっかり安萬侶くんの術中に陥るところかも・・・使われた文字を真面目に読み解くことにする。

「都奴」=「角」ならば現在地名は「豊前市中村」であるが「角田八幡宮」、「角田小・中学校」、「角田公民館」、「角田川」などなど旧角田村の名前が残っている。

古事記記載の由緒ある名前、消さないで・・・。「木角宿禰」は、この「角田」が本拠地だったことを示している。

速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神に含まれる「奴」=「女(嫋やかに曲がる)+又(手)」と分解でき、「又(手)」=「手の指が分かれる/寄り集まる様」を象った文字であると解釈される。

図に示したように「都奴」は…、
 
嫋やかに曲がる地形が寄り集まったところ

…と紐解ける。仲哀天皇紀に高志之「角鹿=都奴賀」と記述される。「都奴=角」と古事記が伝えているのである。「宿禰」は、「角」の山麓の小高いところ、現在の角田八幡宮辺りと推定される。
 
<坂本臣>
「坂本」はそのものズバリで残っているようであるが、残存地名のみで、ここだ!…とは言わないのが本著の取り柄…なのかどうか怪しいが・・・。

それにしても「坂本」だけでは何とも解釈のしようがない。取り敢えず「坂」を原義に戻って紐解いてみよう。

「坂」=「土+反」これで地面が反った形を表すと解釈できるのでるが、更に「反」=「+又(手)」と分解される。「本」=「根元」とする。

粉々された破片を繋ぎ合わせると・・・、
 
土(地)|厂(麓)|又([手]の形)|本(根)

…「山麓にある[手]の形の山稜の端が根のように細かく岐れているところ」と紐解ける。

「坂」を通常に解釈しては全く特定できなかったが、これで求めることが可能となる。現地名築上郡築上町山本・椎田辺り、求菩提山・国見山山稜の端にあっては珍しく崖に挟まれたところである。確かに「坂本」も近隣に当たるところにある。現在は見事な棚田が連なっているように見受けられる。
 
<木臣>
最後に「木臣」、これが「木國」に先走ってしまう元凶であろうが、決して「國」ではない。では何と解釈するのか?…「木(山稜)」として来たが、異なるのか?・・・

そんな一般的な名称を述べる筈もなく、何かを伝えんとしているのであろう・・・「木」そのものの象形とすると、実に鮮やかな「木」の地形が見出せる。

豊前市大村にある天地山、都市公園百選の公園が広がっているところである。気付けば極めて特徴的な山稜である。

各々の「臣」は小ぶりな谷間を表し、推定した場所を図に示した。「都奴(角)」を中心に北に「坂本」、南に「木」の配置であることが解った。全体図は下記参照。

安康天皇紀に「坂本臣等之祖・根臣」が登場する。上図の手先辺りに居たのではなかろうか。これらの唐突に登場する臣、どうにかその居場所も落ち着いたようである。

「木角宿禰」が豊前市~築上郡築上町に跨る地域であることが解った。そして残存地名と思しき場所がある。古事記解読の貴重な情報を与えてくれた地と記憶に留めよう。

葛城長江曾都毘古

謂わばMr. Katsuragiであろう。文字通りに葛城の中心地、現地名の田川郡福智町を押さえる。

玉手臣:弁城新町 的臣:弁城野地 生江臣:上野大谷 阿藝那臣:弁城春田

<葛城長江曾都毘古>
「長江」の解釈は、図中の「人差し指」と「中指」の間「
大谷」と記載されているところを示し…「曾都」は…、
 
曾(重なる)|都(集まる)

…「重なって小高くなったところが集まった」地に坐していた毘古と紐解ける。福智川が彦山川に合流するところでできた入江に山稜の端が集まった場所と推定される。

「生江臣」の「生」=「山稜が生え出た様」、「江」=「氵+工」=「水辺で窪んだ様」と解釈して…、
 
山稜が生え出た先にある水辺で窪んだところ

…と紐解ける。「玉手臣」は「玉手」の中心地に居たのではなかろうか。

「的臣」の「的」=「白+勺」と分解される。「勺」=「柄杓」であり、その「勹」の形を象った文字と解説されている。「白」=「くっ付いて並んでいる様」として、纏めると「的」=「[勺]の形がくっ付いて並んでいる様」と紐解ける。「勹」形に曲がる手指の付け根の辺りの地形を表していると思われる。

最後の「阿藝那」は…、
 
阿(台地)|藝(延び出た山稜が揃って並んでいる)|那(ゆったりとした)

…「台地から延び出た山稜が揃って並びゆったりと曲がっているところ」と紐解ける。どうやら玉手の指先を示しているようである。

<江野財臣>
傍を流れる福智川流域は葛城の中でも早期に開発された地域と推測される。


子孫を、間違いなく、意図的に各地に散らばらせ、後進の荒野から新興開拓の先進地へと変えて行ったことを伝えている。

葛城が天皇家の財源として具体化したのである。この時点で師木への侵出の目処がたったのであろう。
 
若子宿禰

江野財臣:喜多久(北九州市門司区)

最後の宿禰である。しかしこれが何とも意味不明・・・「江野財臣」を…「財」=「貝+才」=「子安貝の形をした山稜」とすると…、

<若子宿禰・江野財臣>
 (入江の)|(野原の)|([貝]の形)

と紐解いてみる。子安貝を象形した文字を山稜の地形に用いていると解釈される。

それなりに求める場所を表していることが解るが、「財」の地形象形表記としての解釈をもう少し掘り下げてみよう。上記したように「財」=「貝+才」と分解される。「貝」=「貝の古文字形」とすることに問題はないのだが、より一般的には「貝」=「谷間」と解釈される。

「才」=「断ち切る、堰き止める様」を表す文字であり、纏めると、「財」は…、
 
谷間が堰き止められたようになっている様

を表すと紐解ける。古事記中に「財」の使用は幾度か登場するが全て同じ解釈と思われる。大きな入江とそこに広がる野を有し、良質の木から布を紡織するところは角鹿現在の「喜多久」と読み解いた。角鹿」の別称表現であろう。解けてみれば更なる情報と地名特定の確度が高まるのであるが・・・容易ではない。

更に「財」の表す意味が解けると、その地形が喜多久にあった。「若」=「叒+囗(大地)」と分解する。「叒」=「又+又+又」=「山稜が寄り集まって延びている様」と解釈すると、図に示した通り…、
 
若(山稜が寄り集まって延びている)|子(生え出た様)|宿禰(山麓の小高いところ)

…「山稜が寄り集まった地から生え出た麓の小高いところ」と読み解ける。小高いところの「宿禰」が近接して[子]の状態に成りかけと述べているのであろう。現在の地図からでは、北九州カニ・カキロードが貫通していて残念ながら少々曖昧さが残るようである。
 
<建内宿禰一族>
他の史書から現在の石川県に関連するという情報もある。場所は違えど通じるかも、である。

流石に建内宿禰一族である。古代の要所をキチンと抑えている。

彼らが天皇家を支え発展させて行ったことを建内宿禰の度々の登場に映し出しているのであろう。

彼らの拠点としたところを地図に示してみた(画像クリックで拡大表示)。

正に倭国の周辺に建内宿禰一族の息がかかった場所を作り上げたと言うべきであろう。

後代の倭建命に匹敵する古事記の扱いである。

さて、木角宿禰者と葛城長江曾都との間に二人の比賣が挿入されている。「久米能摩伊刀比賣」と「怒能伊呂比賣」である。危なく、例によって読み飛ばしそうな記述であるが、気付いたなら居場所を紐解かねばならない…という訳で・・・。
 
久米能摩伊刀比賣

何せ建内宿禰の比賣ともなれば、なんて余計なことは抜きにして早速に・・・。実のところは、なんの事はない前記の伊久米伊理毘古伊佐知命(垂仁天皇)」の名前を紐解いた時に気付いたのである。古事記検索で「久米」を掛けると出て来る。その中にあったという訳である。
 
<師木玉垣宮・水垣宮>
そんな事情で時代は前後するが、「伊久米天皇」の紐解き概略を述べながら比賣の住まった場所を求めてみよう。


「伊久米」の探策結果は図に示すように現在の田川市伊田、鎮西公園付近とした。

図の右側から左側にかけて、すなわち東から西に向けて標高差20mに満たないが、なだらかな谷筋が見て取れる。

またそれらの谷筋が合流し「津」を形成していることも判る。真に「天津久米」類似の地形を示しているのである。

この「津」近隣の高台に垂仁天皇の師木玉垣宮があったと推定される。「伊」の文字を三つも含む名前、ひょっとすると伊田の「伊」は残存地名かもしれない。
 
伊(山稜を切り分ける谷間)|久([く]の形)|米(寄り集まる)

<久米能摩伊刀比賣>
…「山稜が切り分ける谷間が[く]の形に曲がりながら寄り集まるところ」と紐解ける。


見落としてはならないのは、久米に「伊」が付かない。僅かに[く]の字に曲がるのではないことを示している。

更に「能=熊=隅」が付加される。曲がったところの隅に位置することを述べていると思われる。図に示したように「伊久米」の北にある「久米」となろう。

「摩伊刀」はそのまま読めば「刀を擦って磨く」のような意味になる。

神倭伊波礼比古に随行した武将「大久米命」を連想させ、勇猛な久米一族の住処であったことを暗示しているように受け取れる。

勿論天皇の近くに居ること、彼らの主要な役目であったろう。だがしかし、間違いなく地形象形していると思われる。「摩伊刀」は何と紐解くか?…、
 
摩(小さな)|伊(谷間で区切られた山稜)|刀(斗:柄杓の地)

…と読み解く。安萬侶コードの「刀」=「斗」は全て凹んだ地形を示し、場合によって使い分けられている。「摩」は「近い、狭い、細かい」とも訳せるが、全体のを表す表現とした。尚、「久米」であって「伊久米」ではないのは、この谷間は山稜を切り分けていないからである。実に繊細な表記を行っていると思われる。

標高差が少なく、地図は国土地理院陰影起伏図を使用すると、浮かび上がって来た柄杓の地が見出だせる。ついでながら「伊久米」の谷(川)も一層明確に示されている。

「伊久米」に導かれて漸くのことこの地の詳細が見えて来たようである。垂仁天皇が近隣に鎮座するずっと以前に建内宿禰の手が伸びていたということであろう。師木侵出は着実に準備されていたことを告げている。
 
怒能伊呂比賣

怒能伊呂比賣、一体何と読む?…やはり「ノノイロヒメ」と通訳されているようである。だが、これでは埒が明かない、と言ってみても、そもそも建内宿禰の子供達の居場所を求めた例が極めて少ないのだから、そのうちの一人の比賣など誰も追及なんかしていない…そうなんでしょうか?

そんな怒りが…ちょっと安萬侶くん風になってきた…「怒」=「イカリ」と読む。師木辺りで関係ありそうな場所を探すと・・・ズバリの名前が登場する。「伊加利」である。師木玉垣宮のほぼ真南に当たる彦山川の対岸にある。現地名は…田川市…、
 
伊加利

かなり広い面積をしめる地名であり、古くからの呼び名ではなかろうか。実際には「ノorド」と言われたところであったのかもしれない。変遷があって読み替えたものが残ったようにも思われる。それにしても「伊久米」から始まった地名探索は見事なまでに収束してきたようである。師木の詳細地図が見えて来たと思われる。
 
<怒能伊呂比賣>
ここで終わってしまっては残存地名に合わせただけになってしまう・・・「イカリ」の地形を求めてみると・・・見事な地形象形であった。


「錨(碇)」の歴史は古く、舟を多用していれば当然かも知れないが、とは言っても古事記の時代に如何なるものが使用されていたかは不詳である。

怒能伊呂比賣」は…、
 
怒(錨の地形)|能(隅)|伊(谷間で区切られた山稜)|呂(積み重なる)

…「錨の地形の隅で谷間で区切られた山稜が積み重なっているところ」の比賣と紐解ける。

上図を参照願うと、現在に知られる鉄製の錨の形を示していることが判る。この形状であることは、石を用いた碇ではなく、既に鉄を用いていたのでは?…と憶測されるが…興味深いところだが、これ以上の推論は難しいようである。
<又(手)>


上記は現在の地名「伊加利」に注目した解釈と言えよう。「怒」=「奴+心」と分解する。更に「奴」=「女+又(手)」と分解できる。速須佐之男命の御子、八嶋士奴美神の時と同様に解釈すると、「又(手)」と「錨」は極めてよく似た地形を示すことが解る。

どうやら文字遊びの領域に入り込んでいるようである。安萬侶くん達の戯れの域である。「心」=「中央」を表しているのであろう。ともあれ見事に収束した記述と思われる。
 
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孝元天皇紀に天皇家は大きく発展し始めた。倭を取巻く各地に御子及びその子孫が入り込み、臣、君等になっていく。建内宿禰の後裔の記述からわかるように夥しい数の「姓」が付けられていく。彼らがその地で更なる発展を目指すことになる。

各天皇の和風諡号は見事にその素性を表現している。これを語らずに来てしまったこと、真に悔やまれる出来事と思われる。欠史八代などと失礼な言草から無縁の若い歴史家が現れることが、暇が取り柄の老いぼれの唯一の望みである。おっと、まだ一人残っていた、これの諡号が、また、すごい。

邇藝速日命が成し得なかったことを次々と着実に取進めた天皇家、いよいよ攻勢に転じる時がやって来たようである。何代にもかけて葛城を開拓し、更に古遠賀湾、遠賀川と彦山川の合流点の先、まで「田」にした彼らの揺るぎない信念に脱帽である。そしてこれがあって今日があることを思えば、一層畏敬の念に駆られるのである。



孝昭天皇・孝安天皇・孝霊天皇                    開化天皇

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