神倭伊波禮毘古命:槁根津日子
槁根津日子は、神倭伊波禮毘古命が吉備之高嶋宮から筑紫之岡田宮に帰還する時の出来事に登場する。勿論日本書紀は奈良大和が中心の世界であるから吉備から難波に向かう途中の出来事とする。古事記編者にとっては、暈した表現とならざるを得ない記述のところであろう。
本ブログは、一切お構いなしで読解するので、文字が示す通りに槁根津日子の居場所、神倭伊波禮毘古命と遭遇した場所を求めてみようかと思う。
古事記原文[武田祐吉訳]…、
故從其國上幸之時、乘龜甲爲釣乍、打羽擧來人、遇于速吸門。爾喚歸、問之「汝者誰也。」答曰「僕者國神。」又問「汝者知海道乎。」答曰「能知。」又問「從而仕奉乎。」答曰「仕奉。」故爾指渡槁機、引入其御船、卽賜名號槁根津日子。此者倭國造等之祖。
[その國から上っておいでになる時に、龜の甲に乘って釣をしながら勢いよく身體を振って來る人に速吸の海峽で遇いました。そこで呼び寄せて、「お前は誰か」とお尋ねになりますと、「わたくしはこの土地にいる神です」と申しました。また「お前は海の道を知っているか」とお尋ねになりますと「よく知っております」と申しました。また「供をして來るか」と問いましたところ、「お仕え致しましよう」と申しました。そこで棹をさし渡して御船に引き入れて、サヲネツ彦という名を下さいました]
速吸門
そこから島伝いに彦島辺りに来る。「速吸門」で出会った「槁根津日子」を海の道案内人に引き立てた、という件である。その地の情報を得るには現地採用する、納得である。倭国造になるなんて運が良い、かも。
<速吸門・槁根津日子> |
「吸」=「口+及」と分解されるが、通常の「吸う」という意味との繋がりが見え辛い。「及」の解釈が不十分なのであろう。
「及」=「二つ以上の物事を並べる」として用いられる。即ち複数の物が並び連なる様を表し、それが口に入る様を「吸」の文字で表現したと思われる。古事記は「口」=「囗(大地:島)」とする。
これで読み解ける。「速吸門」は…「速」=「辶+束」として…、
速(束ねる)|吸(並び連なる島)|門(狭い通路)
…「並び連なる島を束ねたところの狭い通路」と紐解ける。淤能碁呂嶋、淡嶋の間にある通路を示していると解釈される。伊邪那岐・伊邪那美の国(島)生みの段で述べたように、当時はいくつかの島が点在して繋がるところであったと思われる。「吸」が示す地形は極めて希少である。またそれらを「速」ところは一に特定される。
槁根津日子
「槁根津日子」は何処に居たのか?…「槁」は「ケヤキ」と読まれる。大きく高い木となる木の根はさぞかし大きく広く張っているのであろう・・・そんなイメージを抱かせる記述であろう。「槁」=「木+高」(枯れ木の意味)と分解される。「木(山稜)」として「高」=「布が乾いて皺が寄った様」を表すと解釈した。高天原、高木神、高志などに含まれる。「槁根津日子」は…、
槁(皺が寄ったような)|根(延びた山稜)|津(集まる)
日子([炎]の地から生え出たところ)
日子([炎]の地から生え出たところ)
…「皺が寄ったようなところから延びた山稜が集まる地にある[炎]の地から生え出たところ」と紐解ける。速吸門も含めて現在の下関市彦島迫町に含まれるところである。
伊邪那岐・伊邪那美の手によって作られた島だが、生んだ数には数えなかった「淡嶋」の住人である。由緒正しき場所、だから子孫が倭國造に繋がって行ったのであろうか・・・。
文字解釈としては「高」の文字が示す意味が明確になったようである。「台地に上に立つ建物」を象形したとされるが、「高」は乾いた布の皺がそもそもの対象であったと思われる。皺の盛り上がった形を表し、かつ枯れた様を述べる際に用いられる文字であることが解った。